匣から溢れ出る殺意 エピローグ

家に戻ってきたのは今年の正月以来だった。焼香の匂いと、見たことのない人たちが出入りする居間は少しだけ見知らぬ空間のように思える。弔問客も多い中で、実子ではない真利は親族席に座らせて貰う予定だった。けれども、そこを頑なに譲らなかったのは充子だった。親族の声にも猛反対し、結局真利を親族席ではなく遺族席に座ることを了承させた。充子のそういう心遣いは真利にとって本当に嬉しいものだった。
小学生の夏休み前にこの家に引き取られ、それから高校を卒業するまでこの家で過ごした。小学生の時、すぐにでもこの家の子どもになりたいと言って孝一や充子を困らせたのも今は昔。
十五になった夏、和室のちゃぶ台を挟んで孝一が言ったのは、名字をどうしたいかという真剣な問いだった。正直、真利にとって加賀見の姓は名乗りたいものでは無かったし、芝浦の姓になるということは憧れのようにも感じていた。孝一と充子の子どもになれる、それが十五にもなった真利は本気で嬉しかった。
そしてどうしても好きになれなかった真利亜という名前も真利に変更した。孝一は過去を振り返る必要はないと言ってくれたけれども、結局、命を奪うという選択をしたのは自分だったこともあり、呼ばれる度に聖母マリアがちらつく自分の名前がどうにも好きになれなかった。どうにも真利亜と呼ばれる度に精神的不快感を呼び起こされたこともあり、それを訴えれば裁判所から名前の変更を認められた。
結局、真利の小学生時代は六年生の夏で終わった。あれから、酷い精神的な後遺症に悩まされ、黒澤から学校へ行く許可が下りなかった。何よりも、身体の不調も大きく真利の栄養不足は深刻なものだった。元々余り体力がある方では無かったが、体格が良いにも関わらず、真利の体力は小学六年生の平均を大きく下回るものだった。
前に通っていた小学校からは何度も通知があったらしいが、結局、両親は真利を病院に連れて行くことはしなかった。そんなことを知らされていなかった真利はさらに無理な生活を続けていたため、親からの呪縛と緊張から薄れた途端体調を崩した。入退院を繰り返す真利を、立川は何度も見舞いに来てくれた。
けれども、立川に会ったその晩には酷く錯乱したり、体調が悪くなったりすることもあって、二人できちんと話し合って会うことを止めた。それに真利としては充分すぎるほど立川から謝罪を受けていたし、同級生が誰一人として見舞いに来ない中、立川が病院に足を運んでくれた気持ちは本当に嬉しかった。だから、その気持ちは最後に会った日にきちんと伝えた。二人で凄く泣いたことも今は昔だ。
ようやく本格的に芝浦家に真利が住むことになったのは正月が明けてからだった。学校に通うことは無かったけれども、孝一の紹介で来てくれた家庭教師に勉強は教えて貰った。それまで、どれだけ勉強しても覚えられなかったことがスラスラ覚えられたことに驚いて、思わず樋口に聞いた時、樋口は真利の脳も栄養失調だったから働かなかったんだと教えてくれた。
そして孝一は仕事を退職した後、ほぼ毎日真利と一緒にいた。真利が退院して家に入ってからは、毎朝散歩に連れ出された。正直、最初はかなりきつかったけれども、それが体力をつけるためのものだと知った時、とても嬉しく思ったことを覚えている。時折手を繋ぎ歩く、それは真利にとって至福の時間でもあった。
四年生まで同級生と遊ぶことも多かったが、五年生になりいじめを受けてから真利に触れる人は誰一人いなかった。だから、孝一の手はとても温かく、そして真利にとって安心できるものだった。そして、毎日栄養の考えられた充子の料理を食べる。最初こそ好き嫌いが多かった真利だったが、一緒に台所で手伝うようになると、食事を作ることは手間が掛かることなのだと知り、そして全ての食材を大切に使う充子を見て、好き嫌いは徐々に無くなった。
そして、あれだけ太っていた体重は春前には平均的なものになり体型も普通になった。定期検診に行った際、樋口に聞けば「栄養不足、運動不足、内蔵の回復によるものだ」と答えられた。そしてそれに加えて「シバさん夫妻に感謝しなさい」と笑顔で言われて、同じように真利も笑顔で頷いた気がする。
中学からは黒澤や樋口の許可が出たこともあり、芝浦家からほど近い公立の中学校に通うことになった。まだ、暗いところや狭いところがどうしてもダメで、それは今現在も後遺症として残っている。久しぶりの学校は酷く緊張したけれども、すぐに友達もできて、友達に誘われたこともあり手芸部に入った。
そこで作ったひざかけは、結局、一度も取り替えることなく孝一と充子は長年愛用してくれた。今見れば下手くそでとても見られたものじゃないけれども、笑顔で受け取ってくれた二人には本当に感謝している。
中学三年生に上がった春、そこで孝一から渋谷が六年生の卒業式を迎えることなく自殺したことを聞いた。実は真利が退院して間も無くのことだったらしい。その時孝一が言った「奴にとって自分の命すら軽いものだったんだろうなぁ」というぼやきは今でも耳に残っている。そして、孝一の言葉で朧気ながら神田を殺した犯人が渋谷だったのだと知った。ショックが無いかと言えば、それは嘘になる。どこか大人びた渋谷は、あの頃の真利にとって優しい人だった。全てに怯えていたあの頃、教室で一度だけ話したあの時を今でも鮮明に思い出すことができる。何があったのかいずれ孝一から聞いてみたいと思ったけれども、もうそれが叶うことは一生ない。
既に将来の目標をその頃から決めていた真利は、大学は都内と北海道、二つの大学を受けてどちらも受かった。芝浦家を離れたくないこともあって大学を決めかねていた真利に、孝一は「そんな理由で大学を選ぶんじゃない」と酷く怒った。そして、大学生になったら、どちらにしても家を出て行って貰うと言われて、真利は必要とされていないのかとかなりショックを受けた。
けれども、それから何度も北海道に孝一は足を運んで真利が住む場所を探し、大学にほど近いセキュリティーのしっかりしたアパートを借りてくれた。北海道まで何度も足を運ぶことの大変さを考えれば、決して必要とされていないなどと口に出せる雰囲気では無かったし、家を出て行く前日、そろそろ自立も視野に入れて、と黒澤先生に勧められた事を充子の口から聞いた。真利の一人暮らしを充子は反対したらしいけれども、孝一は自分たちがここでもし死んだらあの子は一人で生きていけない。そんな柔な子に育てるつもりはないと突っぱねられたらしい。
それを聞いて、真利は必要とされていない、などと考えた浅はかな自分を恥じた。そして孝一に謝ったけれども、孝一は庭にある松永さんから貰った盆栽の手入れをしながら「気にするな」と一言くれただけだった。許してくれないのかと思っていれば、充子が笑いながら「照れてるだけよ」と教えてくれてかなりホッとした。
大学に入ってからは毎年夏と正月の年二回だけ家に戻り、後は北海道で過ごすという生活を続けた。日常生活には黒澤や樋口に紹介して貰った病院へ一ヶ月に一度は通い、きちんと検査を受けなければならない。そのことが負担に思いはしたけれども、大学生活は概ね順調だった。
大学四年、就職先も決まった夏休み直前、予想もしていなかった訃報が入ってきた。それは樋口からの電話で、孝一が亡くなったということだった。すぐに帰ることを伝え、どうして孝一が亡くなったのか、その理由を聞くことさえしなかった。ただ、慌てて荷物を纏めると空席のある飛行機に乗ると家路に急いだ。
連絡のあったその日の夕方、正月ぶりの家に戻ると出迎えてくれたのは充子一人だった。泣き笑いのような顔で出迎えてくれた充子は、それでも泣くことはなく、真利にお茶を用意してくれると居間に腰を下ろす。飛び出した小学生を庇っての事故だったらしく、トラックに轢かれた芝浦は即死だったそうだ。
「でもね、私、予感があったのよ。結婚した時から、あの人の方が私よりも先に死ぬだろうなって。辛くないと言ったら嘘になるけれども、でも、覚悟はしていたから自分で思っていたよりもショックは少ないわ。それに私が予想していたよりも孝一さん、長生きしたのよ。でもあの人らしい死に方よね」
そう言って充子は微かに笑うと、あと三十分ほどで葬儀社の人間が来るからと、慌てて二人で居間の荷物を全て二階へと運び込んだ。それからはもう怒濤の如く時間が進み、気づけば葬式も終わろうとしている。
病院で孝一は普通の生活をさせてくれると言った。けれども、間違いなく真利は普通以上に手を掛けられていたことを今だから知っている。隣で黒い着物を纏う充子を見れば、毅然とした表情で涙一つ零すことはない。むしろ、優しさを、あの大きな手を思い出して真利の方が涙が止まらない。何度も撫でてくれた、何度も救ってくれたあの手がもう無いのかと思うと、とても悲しくて泣けた。
葬儀には警察関係者も多く訪れてくれて、その中には関根や松永もいた。久しぶりに会う人たちは変わっていないようで、それでも年を重ねて変化はしていた。そんな中で年若い、むしろ真利と同じくらいの青年が親族席の前に立つと深々と一礼した。
「ご連絡頂き有難うございました」
「こうして会うのはお久しぶりね」
隣の充子が声を掛けていることからも、どうやら知り合いらしいことは分かる。けれども、年の離れた二人にどんな接点があるのか真利には分からない。けれども、そんな真利に充子は改めて青年を紹介してくれた。
「こちら立川さん。もう覚えていないかしら? 真利の小学校の時の同級生よ。あれから立川くんは孝一さんの文通相手でね。最近はもっぱらメル友だったかしら、それとも飲み友達だったかしら」
「どれもありですね」
そう言って穏やかに笑うと真利へと視線を向けてきた。あの頃よりもずっと落ち着いた顔で笑う立川は、まるで真利の知らない人のようだった。
「久しぶりだね」
あの頃よりも大人になった立川にどう言っていいか分からず「久しぶりです」と無難な言葉しか返せない。それでも立川は僅かに笑みを浮かべると「こういう場ですから、後ほど改めて伺います」と言ってそのまま立ち去ってしまう。確かに長話をする場ではないから立川の選択は正しいものではあった。けれども、真利としては孝一とはどんな話しをしたのか、孝一から何を聞いたのか、立川から色々と話しを聞いてみたいと思った。
葬儀は順調かと思われたが、結局、弔問時間を三十分ほどオーバーして出棺時間となる。充子は火葬場には身内すらお断りして、真利の手を引いて葬儀社の車へと乗り込む。まるで子どもの頃のような扱いに、恥ずかしくもあり、嬉しくもある。車に揺られて三十分ほどで火葬場に到着すると、柩は火葬炉の中へと入れらる。その直前に一度だけ最後に孝一の顔を充子と見てから待合室とされる個室へと足を運んだ。
用意されたお茶を飲みながら、二人でぼんやりと窓の外を眺める。日本庭園風にあしらわれた庭は、新緑が太陽の光を反射して、まるで葉そのものが輝いているかのように目に眩しい。
「私はね、結婚した時から孝一さんは早死にするだろうなって思ってた。だから一人取り残されると思っていたけど、こうして真利ちゃんと見送ることができて、本当に良かったと思っているの」
「充子さん」
「でも、真利ちゃんは来年には卒業して就職する。そしたらもう一人前の社会人になるわ。孝一さんとも話していたけれども、これを真利ちゃんに渡しておこうと思ったの」
そういって充子さんが袂から取り出したのは折り畳んだ一枚の紙だった。テーブルに置かれたそれを手にすることはなく、少しの間見つめてから、再び充子に視線を向けた。
「これは何ですか?」
「あなたの両親の現在住んでいる場所。もし、一度会いたいのであれば会いに行くといいわ。そして養子縁組を解除したいのであれば」
「いいんです! もうあの人たちはいいんです……頑なになっているとかそういうのじゃなくて、本当にいいんです。本当の愛情がどういうものなのか、それは孝一さんや充子さんに教えて貰いました。だから、本当にいいんです。でも、もし充子さんにとって養子縁組していることで問題があるのなら、戸籍を独立させます」
「……問題は何もないわ。ただ、私ももうおばあちゃんという年になるし、これからは真利ちゃんの負担にしかなれない。だから、真利ちゃんは真利ちゃんの道を進みなさい」
そこまで言われてようやく充子の言いたいことを理解できた。真利としてはどんなに年老いたとしても、孝一と充子の面倒は見るつもりだった。それこそ縁を切った実の両親よりも、ずっと二人は大切な存在だから、充子に言われたから、そうですかと納得するつもりは全くない。
「就職、決まったんです」
唐突に変わった会話にも充子の動揺は全くない。そういえば、充子が慌てたところなど、真利は一緒に住むようになってから一度だって見たことはない。
「あら、どこに決まったの?」
「多田動物病院です」
そこは芝浦家から歩いて五分のところにある、少し大きめの動物病院だった。病院施設もあるけれども、同じ区内であれば出張診察もする。小さい動物から大型の家畜まで扱っていているし、何よりも大学へ講義に来てくれた先生の考え方に真利は賛同した。だからこそ決めた就職先でもあったが、孝一や充子のことを全く考えていなかったと言ったら嘘になる。
「だから、大学を卒業したら一緒に住みたいんです。これからは私が家事をやっても構わない。孝一さんのいなくなった今、充子さん一人だと心配で眠れなくなりそうです」
大げさだと思いつつそれを口にすれば、やはり充子は声を上げて笑い出す。少し笑いが落ち着いてくると、目尻に浮かんだ涙を拭いながら、けれども先ほどよりも穏やかな目をして充子がこちらを見る。
「私はね、七十歳になったらケアハウスに入る予定なの。だから、残り六年、こんなおばあちゃんだけど一緒に暮らしてくれるかしら」
「勿論、こちらこそお願いします」
そう言って頭を下げる真利を充子の手が優しく撫でる。あれから十年が経ち、充子は随分と細く小さくなったような気がする。けれども、穏やかな雰囲気は全く変化していなくて、友達と一緒にやれ演劇だ、お花のお稽古だと忙しそうだけど楽しそうにしている。そんな充子の傍にいたいと思うのは真利の方だった。
遠い昔、孝一や充子をお父さん、お母さんと呼んでみたい衝動に駆られたことがある。けれども、孝一はそれを許してはくれなかった。あくまで自分たちは保護者であって、親にはなれないと言われて酷くショックだった。けれども、あれはいずれ実両親のところへ戻る選択肢を残してくれた孝一の優しさなんだと今なら分かる。
確かに実子ではなかったけれども、実親ではなかったけれども、自分たちは家族だった。そして、これからも家族でありたいと思う。
それを甘えだと言う人もいるかもしれない。けれども、最後の時まで真利としては傍にいたかった。色々として貰った恩を少しでも返していきたいと思う。そして自分が手を掛けてしまった動物以上に命を救うことができたらいいと思う。
窓の外を眺めれば抜けるような青空が広がっていて、そこで孝一が苦笑しつつもそんな選択をした自分たちを見下ろしているような気がした。

The End.

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