匣から溢れ出る殺意 Act.12

自分たちの身分を明かした途端、嫌そうな顔をされたがそれでも扉を閉めるようなことはしない。
「何でしょうか。息子が自首した件でしたらもう」
「いえ、今回は別件でお伺いしました。渋谷さんのお宅は加賀見氏から犬を買いませんでした?」
「えぇ……かなり前ですけど」
「実は加賀見氏が飼い犬に不当な薬を与えた可能性もあり、現在、動物虐待の罪で逮捕されています。一応、念のため、渋谷さんのお宅で飼っている犬も確認させて頂きたいのですが」
関根が言ったことにさらに言葉を上乗せして芝浦が問い掛ければ、困惑した様子ながらも渋谷夫人は口を開く。
「あの、実はうちの子、先日階段から落ちたことで死んでしまって」
「そしたらご遺体はお墓に?」
「いえ、可愛がっていた子だったので、庭に埋めました」
「大変申し訳ありませんが、ご遺体を調べさせて頂きたいのですが」
「……まさか、掘り返すということですか?」
衝撃を受けている夫人はどうやら、余程その飼い犬を可愛がっていたらしい。それ以前に犬が好きだったのかもしれない。いやらしい発想だとは思ったが、更に芝浦は言葉を重ねた。
「申し訳ございません。どうか、他の犬や猫のためにも捜査に協力をお願い致します」
しばらく悩んでいる様子だったが渋谷夫人はサンダルを履いて扉の外へ出てくると、庭へと案内してくれた。庭は随分と手入れされている様子で、夏場にも関わらず、どの草花も青々とした葉を茂らせていた。そして庭の一角には墓碑まで用意された犬の墓があった。
「こちらになります。あの……遺体は返して貰えるのでしょうか」
「勿論、検査が済み次第きちんとお返し致します」
「それでしたら……でも、あの加賀見さんが……」
それきり渋谷夫人は黙り込んでしまい、その間に松永が鑑識を呼ぶ。渋谷夫人から一度家の中へ入ることを勧められたが、それを断ればリビングに続く大きな窓を開けてそこに腰掛けるように勧められる。ちらりと見えたリビングの印象から、渋谷夫人は随分と神経質なタイプに見えた。まるでショールームのようなリビングに無駄な物は一切無く、酷くその部屋は無機質に見えた。
冷えた麦茶を勧められたが、芝浦はそれも断り、ジリジリとした日差しの中で松永と共に鑑識の到着を待つ。十五分もすれば鑑識は到着し、犬の遺体を引き上げる話しをすれば、先日の加賀見家に続いていることもあり、さすがに微妙な顔をしていた。けれども、これは重要な証拠になる可能性も高い。くれぐれも気をつけて掘り出すように伝えると、鑑識班はシャベルとスコップで墓を掘り返し始める。
「すみません、見ているのが辛いので私はあちらの部屋にいます。何かあれば声を掛けて下さい」
涙ながらに渋谷夫人に訴えられ、さすがに芝浦もその訴えを拒否することはできない。焼けつくような暑さの中で三十分もしない内に遺体は回収された。犬の遺体ということで病理学教室に持ち込む旨を芝浦に伝え、鑑識たちは撤収していった。
残された芝浦と松永は、荒れた場所を少しでも元に戻すためにシャベルとスコップで整えたあと、渋谷夫人に声を掛けた。泣きながら出てきた夫人は「遺体は必ず返して欲しい」ということを訴えてきて、芝浦はそれに対して神妙に頷いた。
本来であればまた遺体を埋める時に掘り起こすことになるのだから元に戻す必要は無かったのだが、それでも元に戻したのは夫人の心情を考えてのことだった。
すぐさまその足で、先ほど鑑識が言っていた大学内にある病理教室へ足を運べば、既に解剖は始まっていた。遺体から取り出した物をこれから科捜研に回すというので、それを芝浦たちは受け取り、その足ですぐさま千葉にある科捜研に向かう。
途中、車内から芝浦は関根に現状を話し、これから科捜研に向かう旨を伝えるとすぐに了承の意が返ってきた。そして、関根の方からはこれから学校内で個別聞き取りを行うということを聞いてから電話を切った。だが、既に芝浦の中には確信めいたものがあり、膝に抱えるクーラーボックスに視線を落とす。
「だが、末恐ろしいことだな」
「渋谷少年ですか?」
「あぁ、もしそうだとすれば、自分の家の飼い犬を殺したんだぞ。あの子とはまた事情が違う」
「正直言うと、事件が解決して欲しいのは確かなんですけど、そこから毒なんか検出されなければいいと思う自分がいます」
「その気持ち、分からなくもないな」
ポツポツとお互いに言葉を吐き出しながらも、五十分ほどのドライブを経て科捜研に到着する。すぐに担当部署に駆け込み依頼すると、結果は捜査本部に入れるように伝えて芝浦たちは都内へと車を走らせる。一時間ほどで結果が出るということだったので、恐らく芝浦たちが本部に到着する頃には既に連絡が入っている可能性もある。
途中、科捜研に遺体の一部を渡したことを関根に伝え、芝浦は酷くジリジリした気持ちで流れる風景を眺めていた。どうやらそれは運転する松永も同じらしく、時折、指先がハンドルを叩いている様子からもかなり焦れた気持ちを持て余しているに違いない。
行きと同じく帰りも一時間ほどの道のりで捜査本部のある署へ戻れば、車を駐車場に止めたところで芝浦の携帯が鳴り出す。芝浦が携帯を取り出せば関根からのもので、科捜研から連絡があり、毒物が検出されたこと、そして、その毒物が加賀見家にあったものと同じだったこともあり、現在、全捜査員を緊急招集したとのことだった。
慌てて松永と共に捜査本部となっている会議室に戻れば、捜査本部が立った時と同様に捜査員がそこに詰めていた。座る場所も無いことから、芝浦と松永は一番後ろの壁際に立ち、捜査会議へと加わる。
改めて、学校で個別聴取を生徒に行ったところ、やはり渋谷と神田が接触したことを覚えている生徒は多くいた。けれども、その誰もがいつものことだからと説明したことから、渋谷の接触は神田に限らず日常的にあったことらしい。そして、芝浦が気になっていたスプーンについても、大抵、ぶつかるのが渋谷だったこともあり、その時も渋谷が洗って神田に手渡しているのを見た生徒が三名ほどいた。
そして、芝浦も報告として先ほど、渋谷家に行き、犬を墓から掘り出しそれを科捜研に届け、そこから同じ毒物が検出されたことを伝えた。ほぼ、これで渋谷に容疑は断定されたといってもおかしくない状況で、関根は芝浦と松永、それから数名の捜査員の名前を挙げると、渋谷家に事情聴取に行くように命令される。
本来の担当であれば、芝浦たちは事情聴取に加わることができない。それでも加えてくれたのは関根の温情だとういことは誰の目にも明らかであった。だが、そこで誰一人文句を言うこともなく緊急会議は終了となった。壁際に立つ芝浦に声を掛けていく同僚も多く、その誰もが最後の花道にと芝浦に道を譲ろうとしてくれる。それが芝浦には嬉しくもあり、そして目の前に引退の文字がちらつき寂しくもあった。
だが、そんな感傷にいつまでも浸っている暇などなく、数人の捜査員と共に渋谷家に向かう。既に物的証拠もあるからそこまで難題ではない。ただ、子ども相手に、どうしたものかと芝浦は頭を悩ませつつ、松永の横で一人考え込みつつ車に揺られた。十分ほどの時間で渋谷家に到着すると、先ほどと同じように呼び鈴を鳴らす。すぐに中から返事があり、顔を出したのは先ほど顔を合わせたばかりの渋谷夫人だった。
「夕食前の時間に大変申し訳ありません。息子さんはご在宅でしょうか?」
「伸也ですか? また神田くんの毒殺の件ですか?」
「はい、その通りです」
酷く困惑げな様子を見せながらも、玄関先から息子の名前を呼ぶ。しばらくすると二階から降りてきた渋谷は、芝浦たちを見てもその表情を変えることは無かった。芝浦も写真でしか見ていなかったが、さらにそれよりも無表情に見える。
「どうして警察がきたのか分かるかな?」
「事情聴取に来たんではないのですか?」
「加賀見家から毒物を盗み出したのは君だな」
「何を根拠に」
「先日亡くなったという君の家の犬から同じ毒物が発見された。普通に手に入るものでは無いことは分かるね」
できるだけきつい口調にならないように慎重に芝浦は話す。相変わらず無表情だと思った渋谷の口角がわずかに上がる。
「遠回しだね。神田を殺したのは君だろう、くらい言われるのかと思っていました」
そう言って笑う渋谷の顔は、子どものものとは思えないくらい冷えきったものだった。子どもがこういう顔をすることが、ここまで違和感あるものだと思わなかっただけに、自然と芝浦の眉根が寄る。
「言って欲しかったのか?」
「どちらでも。事実は変わりませんから」
「素直に逮捕されると?」
「えぇ、されますよ。実際に神田を殺したのは僕だし、それに、どうせ捕まったところで処罰を受ける訳でも無いですしね」
冷ややかに笑う渋谷は大人顔負けなほど人を食ったような態度を見せる。生意気言うガキを殴りつけてやりたい気持ちが無い訳ではない。だが、ここでそれをすればどういう問題が起きるのか芝浦にだって分かっている。
「……どうして……どうしてそんなことを!」
静かな空間に叫ぶような声が響いたが、渋谷の表情は変わらない。それどころか不思議そうな顔をして斜め後ろに立つ母親を見上げている。
「どんな手を使っても難関中学へ入れと言ったのはママでしょ? 神田がいると僕の内申書が下がるんだ。委員長だから纏め切れていないと見られる。加賀見がいじめられていたから、絶対僕に疑いは掛からないと思ったんだけど、失敗したみたい。でも、大丈夫だよ。ママだって、あんな子たちより僕の方が凄いって言っていたでしょ。別に犯罪歴がつく訳でもないし、何も問題はないよ」
笑顔で母親の問い掛けに答える渋谷は、その子供らしい笑顔とは対照的に、言っていることは大人顔負けのえぐみがあり、全てにおいてチグバグさを感じさせる。それと同時に強烈な不快さを感じるのは、未知なるものに出会った畏怖にも似ていた。
「なんで、どうしてそんな恐ろしいことを口にするの!」
既に母親の顔は化け物でも見るような顔で、その顔からは完全に血の気が失せている。けれども、母親にそんな顔をされて渋谷は本気で困惑をあらわにする。
「どうして? 僕が一番恐いのは、ママが僕に興味がなくなることだよ。だから、僕はいつでもママの言うことは守ってきたよ。塾でもトップを取ったし、内申書を上げろって言われた神田をきちんと殺したよ! どうしてそういうことを言うの!」
親子がただ言葉もなくお互いを見つめ合っている。母親はまるで恐ろしい者でも見るかのように、そして子どもは縋るように。それは、どうあっても分かり合っている者同士の見つめ合いでは無い。
「あんたは……息子の教育を間違えたんだよ」
罪を犯したのは確かに息子だったけれども、間違った教育をしたのは両親だったに違いない。玄関先で膝をついて泣き出した母親を心配そうに見つめる子どもは、手を出していいのか困惑しながらオロオロしている。
しばらくの間、そんな二人を見つめていたが芝浦は二人を外へ促す。完全に子どもに対して恐怖を覚えている母親が暴言を吐く前に、二人を別々の車に乗せると他の捜査員に任せて署に連行して貰う。そして遅れてやってきた家宅捜索の令状を手に父親が帰ってくるのを待っていれば、二人が連行されてから十分もしない内に父親は家に帰ってきた。
改めて状況を説明し、家宅捜索の令状を見せて渋谷の部屋を見せて貰えば、十畳ほどの広さに壁一面は本棚になっていた。並ぶ本は小説が多く、ラインナップだけ見ているととても小学生のものとは思えない。分厚い辞書が幾つも並ぶ中に、学生であればあるだろう漫画やゲームの類は何一つ見当たらなかった。
掃除の行き届いた部屋に本棚の他にベッドや机、そしてテレビやビデオ、オーディオなどがあり、机の上には一輪挿しが飾られていて色鮮やかな小型のひまわりが飾られていた。机の上にはパソコンもあり、それなりにパソコンが詳しい松永に頼んで履歴を見て貰えば、その中に、殺人事件のことや、毒薬、そしてパピーミルがどうやって犬や猫を処分しているのか、その方法が詳しく載っているサイトをチェックしていることが分かった。
物に溢れ、愛情が見える部屋にも関わらず、どこか寒々しく感じるこの部屋に誰一人気づかなかったのかと思うと、芝浦の胸に痛みが走る。確かに事件は解決したが、酷く後味の悪い、そして気味悪さを残した事件の結末でもあった。
署に戻れば既に渋谷の取り調べは始まっていて、渋谷はまるで悪びれた様子もなく神田の殺害を認めた。殺害方法については芝浦が想像していた通りのもので、別に死んでも死ななくても、学校に来なければどうでも良かったというものだった。母親は泣き崩れ、後から来た父親は苦虫を噛みつぶしたような顔を始終していたが、子どもの言動を聞いてさすがにショックを受けている様子だった。
渋谷は別段、抵抗することも、黙秘することもなく、残った毒物の場所も質問に答えた。実際、捜査員が渋谷の言った学校のロッカーに向かえば、そこにはジャムの瓶に入った水溶液が残されていたこともあり、今さら何かを誤魔化すつもりはないらしい。
どうして加賀見家に毒があることを知ったのかという質問にも、加賀見家に毒物があることを知ったのは偶然だと答えた。そんな偶然があるかという捜査員の声を全く気にした様子もなく、加賀見家に行った時、犬の鳴き声が聞こえてきてあの扉を開けた。あの部屋を見た時点でパピーミルだと分かった渋谷は、もしかしたら毒薬があるかもしれないと考えて棚の中にあった薬品に見えるものは全て小袋に入れて持ち出し、飼い犬で試したということだった。パピーミルという存在はインターネットで知り、加賀見の家がパピーミルだったのは運が良かったと笑顔で言う渋谷に、捜査員一同唖然とした。
終始、答えに平然としていた渋谷だったが、何故飼い犬で試したのかという質問には不快そうに顔を歪めた。
「だって、あいつが来るとママがすぐ構うんだ。あいつは寝て起きてご飯食べて努力なんて何一つしてないのに、それなのに僕よりも可愛がられる。もの凄く不愉快だった」
時折混じる子どもらしくない言葉は勉強の成果なのだろうが、それはただ歪みを強調するだけのように芝浦には思えた。見ているだけの取り調べの最中、声を掛けて来たのは松永だった。
「シバさん、行きましょう」
そう言われて今思いつく先は二つしかない。けれども、どちらを優先させるかと言えば、まずは立川のところだった。
「よし、立川の所に行くか」
「違いますよ! 真利亜ちゃんのところです!」
「それは後でいい。まず、あの子の伝言を立川に伝えてやらないといけないだろ。本気であの子を庇うためだけに黙秘を貫いたんだ」
芝浦の言葉で納得したらしい松永と共に、取り調べ最中の署を抜け出すと、車に乗り込んでから関根に電話を掛けた。これから立川のところへ向かうと言えば、呆れたような溜息をつかれたが、それでも止めるような言葉を掛けられることは無かった。住所を頼りに立川家へ到着すると、二人並んで玄関に立つ。呼び鈴を鳴らせば中から扉が開き、顔を出したのは焦燥感を隠すこともしない父親だった。
所属と名前を名乗れば、どこか痛そうな顔をしながら中へと招き入れられる。リビングに通されたそこには、父親と母親、そして年の離れた兄がそこにいた。そんな中で、立川少年はただ唇を噛みしめて俯いていた。確かに疲れた顔はしているものの、小学生らしい溌剌とした印象を受けることに芝浦は少しだけ安堵した。
立川の正面のソファを勧められ、腰を下ろすと名前を呼んだ。けれども、少年はその顔を上げることなく俯いたまま、更に唇を噛みしめる。
「真犯人が先ほど逮捕された」
落ち着いた口調でそれだけ言えば、弾かれたように少年は顔を上げた。その顔は驚愕したもので、まっすぐに芝浦を見つめてくる。
「加賀見真利亜とは別人だ」
途端に少年の目に涙が浮かび上がり、そのまま決壊したかのようにボロボロと溢れ出すと必死になって手の甲で拭う。泣き顔を見せたくないという少年らしい行為だったが、そんな立川を見かねた母親が慌ててタオルを持ってくると少年に無理矢理持たせた。渡されたタオルに顔を埋めた立川だったが、嗚咽を堪えきれずに漏れ聞こえる。
「彼女から伝言だ。私は大丈夫だから、本当のことを言って欲しい、とのことだ。もう君の容疑も彼女の容疑も晴れた。本当のことを教えてくれないか」
ただタオルに顔を埋めて泣く少年の後ろでは母親がやはり同じように泣いていて、父親と兄は鼻を赤くしながらも涙を堪えているように見える。そんな中、少年がゆっくりと嗚咽混じりになりながらも話し始めた。
元々、仲が良かった彼女がいじめられているのを、見て見ぬ振りをしていたことが辛かった。神田が殺される前日、少女を階段から突き落としたのを見た時には神田をかなり咎めたらしい。けれども、神田は手が当たっただけだと、突き飛ばした事実を認めなかった。だから、彼女にも絶対謝っていないだろうと思っていたし、彼女がどういう目で自分を見ているのかと思うと怖くて仕方なかったらしい。
そして翌日、事件が起こった。いじめられていた彼女が、謝罪しなかった神田についに意趣返しをしたのかと立川は考え、それに荷担していた立川は責任を感じて自首したらしい。黙秘していたのは実際にしていなかったから、何かを言えば彼女の不利になるかもしれないと、ただ黙ることしかできなかったらしい。
全てを聞けば、確かに少女が言うように優しい少年だった。少なくとも、人を殺した罪を被るなんてことは、大人ですら難しい。けれども、立川の中にはそれだけ強い罪悪感があったのかもしれない。彼女に会って謝りたいという立川に、芝浦は病院名と住所を教えてやると、後ほど厳重注意ということで他の者が来ることを伝えて立川家を後にした。
芝浦が会った子どもは三人しかいない。けれども、誰もが未成熟で、誰もがいびつだった。それは子ども特有の歪みではあったけれども、三人の心の中には傷として残るに違いない。それを考えると、事件の解決はやはり素直に喜べるものじゃなかった。
「何だか、嬉しくないですね。事件解決したのに」
「虐待、いじめ、殺人、負の連鎖みたいなものを見た気分だからかもな。これからも、もっと凄い事件を見ることになるぞ。なんだ、それとも音を上げて刑事辞めるか?」
「辞めません! 俺はシバさんみたいに定年まで刑事続けるつもりなんですから!」
「だったら一つだけ教えてやる……いいか、死ぬな。お前が無茶をして死ねば、周りに必ず悲しむ奴がいる。刑事を一生続けていきたいなら絶対に死ぬな」
それは芝浦の願いでもあったし、唯一芝浦が言えることでもあった。刑事を長年やっていれば、それなりに危ないこともあり、死んだ同僚もいる。葬儀に出れば、悲しみも憎しみも生まれてしまい、自分ではどうにもならなくなる。それを理由に刑事を辞めた人間だって芝浦は見てきた。仲間をそんな気持ちにさせたいと思う人間はいない。だからこそ、仲間に対して、そして刑事でいるためにできることはそれくらいのことだった。
「分かりました。肝に銘じておきます」
やけに神妙な顔と声で答える松永に芝浦は微かに笑うと車へと乗り込んだ。もう残る行き先は一つしかない。芝浦が声を掛けるまでもなく、運転席に座った松永は既に病院に向かって車を走らせている。これでようやく少女と向き合って話しができると思えば、少しだけホッとした気分になった。
病院に到着すれば既に七時半を回っていて、いつものようにノックしようとした手が止まる。病室から聞こえる笑い声は四つ。その中には聞き慣れた声もあり、芝浦は苦笑しつつも病室の扉をノックした。
「シバさんお帰りなさい」
「お疲れ様です」
「孝一さん、お邪魔してるわ」
その声に遅れて、少女がゆっくりと笑みを浮かべる。穏やかな笑みはまだぎこちないものではあったものの、それでも随分と明るいものだった。
「お帰りなさい」
小さな声だったけれどもしっかりと芝浦の耳には届き、芝浦は少女に近づくとその頭をくしゃりと撫でた。
「ただいま、だな」
それだけ答えてから、芝浦は少女に視線を合わせるようにして屈み込むと、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「君の容疑が晴れた。それから、立川少年の容疑も晴れた。残念ながら警察の規則で真犯人を教えることはできないが、全てが終わった」
芝浦の声を聞いて、しばらく考える様子を見せた少女だったが、先ほどとは違いわずかな笑みを浮かべただけだった。
「良かったです、犯人が見つかって……」
続く言葉はなく、少女はそのまま俯いて黙り込んでしまい、芝浦はゆっくりと脅かさないように布団の上にある少女の手を握り締めた。すると、少女は再び顔を上げる。
「俺は恐らく他人に比べたら口うるさいただの親父だ。君の父親にはなれない。だが、俗にいう普通の生活って奴は体験させてやれる」
「普通の生活……?」
「あぁ、そうだ。毎日三食きちんと食事があって、朝一番には散歩に出掛ける。そして、三人で楽しく食事を取る。時折喧嘩しながらも、言いたいことを言える、そんな普通の生活は体験できる。こんな口うるさい親父と一緒に住みたいと思うのであれば、うちに来ればいい」
「私は真利亜ちゃんに、美味しいご飯を毎日食べて欲しいわ。私、料理は上手いのよ。それに一緒に料理を作ったりもしたいし、お買い物にだって行きたいわ」
「どうだ?」
芝浦の問い掛けに、少女は涙を浮かべると、その顔にとても嬉しそうな笑みを浮かべた。ぎこちないながらも、どこか晴れやかな笑みを浮かべる少女を見て、芝浦は僅かに目を細めた。

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