匣から溢れ出る殺意 Act.10

現場は鑑識と他の捜査員に任せて、芝浦は松永と共に一旦本部へと戻り取り調べの様子を伺う。父親の方は落ち着いた様子で、終始質問には淡々と答えている。少女についても淡々としたもので、元々愛情が無かった、そして、あれは妻が不倫してできた子どもだという。
そして妻の方はヒステリックになっていて、落ち着きなく捜査員の質問にも食って掛かる始末だった。けれども、少女について聞かれると泣き出し、最初はそんなつもりは無かった、自分の時間が無くなるのがイヤで少女を放置した。けれども、無事に生きていけるのだから子どもなんてどうにでもなると思ったと答えて、捜査員の顔を歪めさせていた。
確かに子どもなんて何もしなくても勝手に育つなんて言うこともあるが、それは最低限のことをしてるから言える話しで、それを真に受ける馬鹿がいるとは思ってもいなかった。この三年、少女には食事を作ったこともなく、話し掛けるのは学校で成績が落ちた時、問題を起こした時、そして仕事をしなかった時だけだったという。
そして近所の人間が学校へ行き来する時以外見掛けなかったのは、学校の時間、仕事の時間、それ以外には一日五分、それ以外は部屋から出ることを禁じていたという。もう、それはすでに子どもに対する扱いではなく、まさにペットや何かと同じようなもので、それを聞いて芝浦は顔を顰めた。
少女は自由になる五分の間にコンビニへ走り、仕事をした駄賃として渡した千円で食事を取っていたのだと母親は言う。けれども、実際には少女は食事すら我慢して、その千円を貯めて長年家を出る決意をしていたのだと、先ほど黒澤経由で話しを聞いている。
食事を食べさせて貰えない子どもに比べたらマシという人もいるかもしれない。けれども、少女はそのために自ら望まないことで手を汚し、罪を被り、今もそれに怯えている。それでも少女は殺してしまった動物たちに償わなければならないからと、子どもながら一生懸命立つ努力をしている。
果たしてこの母親は、自分が同じ扱いを受けた時、耐えられるのだろうか。そこまで考えて、芝浦は自分の考えが不毛なことに気づき、小さく溜息を吐き出した。
少女は今日、黒澤や樋口と共に色々な検査を受けている。まだ触りでしかないから確実なことは言えないという前置きと共に黒澤が伝えてきたのは、やはり少女には精神的に危ういところもあり、今すぐ普通の生活に戻ることは難しいだろうという判断だった。とにかく、平日に出る給食が命綱みたいなもので、著しく栄養不足ということで電話をしている時には点滴を受けていると言っていた。
それでも、少女は一昨日よりも昨日、昨日よりも今日、徐々に変化をしている。最初は会話することも難しかったのに、今は検査を受けることを了承するまでになっているのだから、今日よりも明日はさらに変化していくのかもしれない。
だが、そんな少女の容疑はまだ晴れていないこともあり、芝浦は取調室の隣にある部屋から出て行こうとすれば、松永が慌てたように追いかけてきた。
「シバさん、どこに?」
「病院だ。あの子に聞きたいことがあるし、先生にも消灯時間までには一度戻って来てくれと言われてるからなぁ」
「あぁ、言ってましたね。でも、今さら真利亜ちゃんに聞きたいことって?」
「毒薬は実際、あの子の言う通りあの家にあった。しかも鍵が掛かっていた訳でもない状態で、誰にでも取り出せた。あれだけ子どもを放置している親だから、実際、親が知らない訪問者がいてもおかしくないだろ」
「まぁ、確かにそうですね。学校帰ってから夜まで家に真利亜ちゃん一人だったみたいですし」
松永と歩きながら一度、捜査本部へ戻ると渋面を作った関根がいる。けれども、何やら囲まれて色々言われている様子に、芝浦は苦く笑うと関根へと近づいた。
「本部長、捜査のことで少しお話しが」
声を掛ければ関根はすぐに立ち上がり、取り囲む人たちを相手に「申し訳ありません、少々席を外します」と答えて顎をしゃくって廊下へと促す。芝浦、関根、そして松永の三人で廊下へ出ると、そこで足を止めることなく向かった先は屋上だった。
「大変だなぁ、お前さん」
「立場上、結構無理をしたので仕方ないですね。それで用件は」
「いや、何もない。しいて言うならこれからあの子に会って、家に訪ねてきた人物がいないか確認しに行ってくる、ってくらいか」
「……ここはお礼を言う場面ですか?」
「いや、必要ねぇよ。無理して動いて貰ったお陰でこっちも動けたしな。礼を言うなら俺の方だな」
「必要ありませんよ。私情ですから」
お互いに含み笑いで視線を合わせると、芝浦はそのまま屋上の扉に手を掛けた。
「それじゃあ行ってくる」
「頼みます」
短い会話を交わして松永と共に建物内へ戻ると階段を下りていく。そんな芝浦の背中に声を掛けてきたのは松永だった。
「あの、ずっと不思議だったんですけど、シバさんと本部長って何か繋がりがあるんですか? 仲良しですよね」
「仲良しとか言うな。そんなんじゃねぇよ。あいつはうちの近所に住んでた悪ガキだったんだよ。それだけだ」
実際、就職を決めた後、関根は芝浦の元を訪ね、芝浦を見て警察官に憧れて無事就職が決まったと手土産と共に現れた。けれども、そんな恥ずかしい過去を松永に言う必要は無い。まさかキャリアになってこうして顔を合わせることになるとは想像もしていなかったが、ただの悪ガキが成長していく姿を見るのは楽しいもので、誇らしいものでもあった。
「さてと、あの子に会って事情を聞いてくるか。科研からの結果によっては明日から色々と動くぞ」
「科研からって……既にシバさん、あの押収された薬品と神田の毒殺に使われた薬品が同じ物だと思ってるように見えますけど」
「まぁ、思ってはいるな。実際、あの子が持っていたものと一致していたし、あんな生活をしていて毒薬を手に入れるような機会はあの子にないだろ。ほぼ決まりだと思うがな」
そんな会話をしながら署を出て、芝浦は指定席となっている助手席へと乗り込む。時計を見れば既に七時半を回っていて、面会時間までには三十分ほどしかない。一応、二十四時間出入り可能なように樋口に取り付けてあるものの、面会時間を過ぎて病院を訪れることは良い顔をしないに違いない。
「そういえば、家にいた動物たちはどうした」
「今日、半分は連れて行ったみたいです。残り半分は明日に」
「あの時、お前、よく耐えたなぁ」
元々ノリの軽い松永ではあるが、基本的に熱血で一つのことに拘ると熱くなりやすいタイプだと芝浦は知っている。それだけに、声を荒げることなく松永が落ち着いたのは、正直いえば驚きでもあった。
「だって……俺よりもシバさんの方が怒ってたじゃないですか。あのシバさんに逆らえる人間がうちにいたら見てみたいですよ」
「別に俺は怖くねぇよ。絶対お前に殴られた方が痛い」
「そういう問題じゃなくてですね、もうシバさん怒ると殺気みたいなもの感じるんですよ」
殺気とはまた穏やかな言葉ではない。確かに、あの時怒りに震えそうではあったけれども、酷く冷静だった自分もいる。感情に流されるままでは人の話しも聞けなくなる。
「シバさんって普段はもう、本当にどこにでもいるおっさんって感じなのに、ああいう場面では全然違うんですよねぇ。もう別人みたいに見えますよ」
そう言って笑う松永に、芝浦は即座に拳を松永の脇腹に沈めた。
「シ、シバさん……俺、運転中」
むせながら言い募る松永に、芝浦は鼻先で笑う。
「人をおっさんなて言うからだ」
「だって、本当のことなのに」
「まだ言うのか?」
「……いいえ、もう絶対に言いません」
酷く神妙な顔をして言う松永に、芝浦は肩を竦めて見せてから、改めてシートに身体を預ける。
「そういえば、鑑識の連中がボヤいてましたよ。庭の穴、あれ一つじゃなくて、あちらこちらにあって、犬や猫の死骸がゴロゴロ出てきたらしいです。今も発掘作業中らしいです」
「三年、って言ってたからなぁ。その数年前から売買していた様子だったし、あの穴一つじゃ足りねぇよな。本当に胸糞悪ぃ話しだ」
「えぇ、本当に。っていうか犬猫の繁殖って、簡単に考えてる人多いですけど、本当に大変なんですよ! きちんと病気とか調べないと生まれてくる子だって病気持ちになるし」
「で、お前のところの猫は元気なのか?」
「勿論です!」
「大事にしてやれ。あそこに埋められて骨の分までな……」
芝浦のその言葉にからかう響きはなく、運転席でハンドルを握る松永も神妙に一つ頷いた。少なくとも、あそこに埋められた命に罪は無い。もしかしたら助けられた命かもしれないと思えば心も痛むが、芝浦としてはいつまでもそれを引き摺っている訳にもいかない。
神田殺しの毒物は見つかり、入手できた人間は限られてくる。あの家に住んでいた人間、そして出入りした人間だ。近隣で毒物を扱うところに聞き込みをしたが、今回関係ある人物で薬物を入手したのはやはり加賀見家の父親以外、名前は上がらなかった。とはいっても、実際に名前が上がってきたのは今日の夕方になってからで、父親が入手したのが六年以上前ということで調べは遅れを取った。
けれども、それ以上捜査線上に浮かんでこないのであれば、やはり加賀見家にあった毒が神田殺害に使用されたと見るべきだろう、というのが捜査本部の流れであり、相変わらず少女も容疑者として名前が連なっている。実際、数日中に方がつかなければ、少女自身、落ち着いてきたこともあり取り調べを受けなければならない立場になる。
取り調べともなれば芝浦が担当できるとは限らない。情報を聞き出すためにわざと少女に暴言じみた言葉を投げる輩もいるだろうし、捜査の進展によって八つ当たり気味に言葉を投げる輩もいる。必ずしも、刑事であるからといって、人間ができている訳ではない。そうなる前に、どうにか犯人逮捕まで繋げられる手がかりを芝浦は欲していた。
病院に到着するとそのまま彼女の病室へと向かい、その手で扉を開けた。そしてこちらを見る少女の顔にはわずかながら笑みが浮かんでいる。そのことに芝浦は心底ホッとした気分になれた。
「今日は飯食ったか?」
そんな声を掛けながら病室に足を踏み入れると、少女についていた黒澤は呆れた顔をして芝浦を見ている。けれども、少女は気にした様子もなく小さく頷いた。
「先生、樋口先生が言うには、胃が小さくなってるから、まだ沢山は無理して食べる必要が無いって言われて」
「そうか、それなら徐々に慣らしていかないとな。まだこれからどんどん成長するんだ。沢山食べて栄養つけないといけないしな」
「はい」
表情こそ感情は余り無いけれども、その返事に明るさを感じて芝浦の顔にも自然と笑みが浮かぶ。もう少し落ち着いてから、両親の逮捕について少女には伝えることになっている。だから、少女はまだ何も知らない。自分が少女の両親を逮捕したという事実に僅かながら胸の痛みを感じたが、芝浦はそれを黙殺した。
「悪いが聞きたいことがあるんだがいいか?」
「はい」
少女の返答を聞いて黒澤は椅子を立ち上がり、少女の近くにある椅子を芝浦に勧める。それに逆らうことなく芝浦は椅子に腰掛けると、改めて少女に声を掛けた。
「君が知ってる範囲でいい。ここ一、二年で家に上がった人間を覚えているか?」
「あ……の……、私、余り部屋から出ることが無かったから……すみません」
「分かる範囲でいい」
ベッドについた手を握り締める少女に、芝浦は手を伸ばしてその手を軽く叩いた。大丈夫、分からないからといって恥ずかしいことじゃない、そういう気持ちを込めて何度もなだめるように叩く。
しばらく手を固く握り締めていた少女だったけれども、それでも小さく息を吐くと、固く握られていた手からもゆっくりと力が抜けていく。
「立川くんと渋谷くん、それから家庭訪問で担任のユミ先生が家に……あ、でも、ユミ先生は玄関で話しただけだから家には上がっていません」
「ん? 家庭訪問だろ、家に上がらないのか?」
「よく分からないんですけど、今は家に上がらない決まりみたいです」
「そうなのか」
小学校の家庭訪問の実情なんてものは、子どもいない芝浦には分からない。それは松永も同じらしく、不思議そうな顔をしていた。けれども、さすが子どもと会う機会のある黒澤は違うらしい。
「最近はね、嫌がる親が多いんですって。だから学校自体で家庭訪問には家へ上がらないという規則ができてる学校もあるそうよ。恐らく真利亜ちゃんの学校もそうなってるんでしょうね」
「そういうもんなのか? 家の状況を見て家庭を見るのが家庭訪問なのかと思ってたんだが」
「まぁ、プライバシーの問題でそこに踏み込むことに躊躇する学校が増えたってことでしょ。家庭訪問でクレームつけられても困るから学校側も必死なのよ。今、本当に学校の先生たちは大変だから」
新聞で読む程度だから実情までは知らないが、モンスターペアレンツやら、学級崩壊やら、確かに学校は随分と大変らしいことは聞きかじっている。
だが、担任の坂井が家に上がったことが無いとなると、その時点で容疑者からは消えることになる。これは後で少女の両親にもきちんと確認しておかなければならないだろう。
しかし、逆に容疑者として上がったままの立川や渋谷については、更に容疑者としての線が濃くなったというべきだろう。
「あの、立川くんはまだ疑われているんですか?」
どこか怯えたように聞いてくる少女は、まだ自分が容疑者の一人になっているとは疑ってもいないらしい。そんな彼女に対して、芝浦は一瞬言葉に詰まる。けれども、すぐ横から明るい声が落ちてきた。
「何も言ってくれないからねぇ。でも、大丈夫。明日には立川くんにも色々聞きにいくよ。真利亜ちゃんから、何か伝言あるかな」
正直、何を勝手なこと言ってんだと思いはしたものの、松永の明るさに救われた部分もあり、芝浦は心の中でそれを相殺することで割り切ると少女の言葉を待つ。
「え……あの……私は大丈夫だから……だから本当のことを言って欲しいって、それだけ伝えて下さい」
「それだけでいいの?」
松永の問い掛けに少女は大きく一つ頷くと、館内放送が入り消灯時間になるのが分かる。途端に少女の目に不安が陰り、心許ない目で芝浦を見上げる。そんな少女に芝浦は内心苦笑しつつも、視線を逸らせて横に立つ松永を見上げる。
「マツ、本部に連絡。それで、俺たちはこれからどうするのか聞いておけ」
「了解です」
そのまま松永は部屋を出て行ってしまい、残る黒澤に声を掛けた。
「先生は悪いがちょっと話しもあるから待ってて貰えるか」
「それは構わないわよ」
その返事を確認してから芝浦は少女に手を差し出した。
「ほら、寝るんだろ」
途端に少女の顔に見たことのない明るい笑みが広がり、すぐに起こしていた身体を横にすると芝浦の手を握り締めた。そこで照明が落ちると、少女の手が芝浦の手をキュッと握り締めてくる。
「……少しだけ……あと少しだけ、そしたら大丈夫だから」
その声はどこか暗示めいていて、そのまま少女は黙り込む。静かな部屋の中で黒澤が立ち上がり「少し樋口先生のところにいるから」と言って部屋を出て行ってしまう。スタンドの明かりだけが淡く灯る室内で、少女の手が芝浦の節くれ立った手を握り締める。その指先から力が抜けることは無い。
「私は……いつか家に、あの家に戻ることになるんですか?」
その声は小さく、そして震えていた。触れあう指先からも震えが伝わってきて、少女にとってあの家が心の底から恐怖の対象なのだと分かる。親から聞いたからこそ知り得た真実は、少女を恐怖に貶めるのは仕方ないことに思えた。
「……いや、ならないだろうな」
「それならいいです」
溜息に混じるように聞こえた声は小さなものだったが、そこに安堵が含まれてるように感じたのは、芝浦の手を握り締めていた指先から力が抜けたせいかもしれない。しばらく無言だった少女は、一度目を開けると芝浦を見上げると微かに微笑む。
「おやすみなさい」
「あぁ、おやすみ」
昨日とまるで変わらない挨拶を交わすと、少女の瞼がゆっくりと閉ざされる。それを確認すると、芝浦は物音を立てないようにポケットから手帳を取り出すと、先日の捜査会議で書き写した図面を眺める。
こうして図面を見れば、やはり毒を混入できることができたのは少女と立川の二人だけとなる。けれども、既に芝浦の中では少女は容疑者から外れていて、それなら立川という少年が被疑者かというと、それに確信も持てない。実際、芝浦がまだ立川という少年に会っていないことも理由だったが、立川と神田は同じグループにいてよく一緒に遊んでいたという。神田は確かにリーダー格ではあったけれども、別に同じグループの人間をいじめるようなことは無く、グループ内は割合と対等な関係だったらしい。
果たして友人を殺すということはあり得るのだろうか。しかも、昔遊んだ少女のために殺すというのはありなのだろうか。幾ら罪悪感がそこにあったとしても、友人を殺すというのは少年期特有の連帯感を考えると、余り考えられない。それとも、他の少年が知らない何かが、二人の間にはあったのだろうか。
第一、隣に座る立川がもし神田の食器に毒を入れたとすれば、立川の他に人間は五人いる。少なくとも三人は向かい合わせの位置にいた。幾ら給食を前にした子どもだからといって、誰も見ていない隙を見て毒を入れられるものだろうか。第一、あのような白い粉であればカレーに掛けられていれば気づく筈だし……。
一瞬、芝浦の頭に何かが閃きかけたというのに、ノックの音でその閃きが霧散してしまう。内心舌打ちをしつつ扉に視線を向ければ、松永が部屋に入ってくるところだった。
「シバさん、報告終わりました。今日はもう帰っていいそうです……って、何で怒ってるんですか」
「色々考えてたことが霧散した。タイミング考えて入ってこい」
自分でも無茶を言っている自覚はありながら松永に吐き捨てれば、途端に松永の顔は情けないものになる。
「すみませんでした。それで、何を考えていたんですか?」
「被疑者について。何か思いついたのに、お前が扉開けた音で飛んじまっただろうが」
「本気で無茶言いますね、もう慣れましたけど」
「取り敢えずここ座って交代しろ。俺も先生方と話しがある」
「分かりました」
芝浦が立ち上がり椅子から離れると松永がそこに座る。そして握っていた手を離して、その小さな手を松永の掌に乗せた。
「小さい手ですよね」
「そうだな」
「命の大切さを知っているだけに重かったでしょうね」
松永の言葉に芝浦は何も返さない。いや、返す言葉が無かった。確かに子どもがいるにはありえないような家庭の中で、どれだけ辛かったのか、それを考えれば芝浦が言える言葉も無い。
「行ってくる」
一言だけ松永に言うと、芝浦はそのまま病室を後にした。廊下に出て黒澤に電話を掛ければ、樋口の方からも話しがあるとのことで、人目があることからも空き病室で待ち合わせをすることになった。しばらく病院内を彷徨いながら病室を見つければ、芝浦は空き病室であると知りながらも小さくノックした。するとすぐに扉が開き、黒澤によって中へ招き入れられると扉は閉ざされた。
「とりあえず、あの子の体調はどうだ」
「一応結果は出ましたけど、若干糖尿気味ですね。それから胃が極端に小さいんですよ。聞けば一日一食、それを給食で補っていた様子でとても栄養が足りてません。肝臓・腎臓機能の低下、上げていけば切りがない。しばらく病院通いは必須ですし、カウンセリングも受けて貰わないといけない。そんな状態のあの子を芝浦さんは引き取るつもりですか?」
「何で知ってるんだ」
「今日、関根さんという児相の方がこちらにいらっしゃいました。彼女の状態を聞いてきた時に、シバさんのことも聞かれましたよ。真利亜ちゃんと引き取りたいと言っていると」
樋口の顔は真剣そのもので、芝浦もさすがにこの空気を茶化す気にはなれず、素直に短く「あぁ」と返事をした。
「芝浦さんの家には確かに子どもがいないのでいいとは思います。ただ、年齢を考えて下さい。あなたはもうすぐ六十で定年になる。そして真利亜ちゃんは十二、まだこれからお金が掛かる年頃です。きちんと大人になるまで育てる覚悟があるんですか? もし、途中で放り出すようなことになれば、あの子はまた傷つくことになります」
「それなりの蓄えはある。そうじゃなければ、そんなアホなこと言い出すか」
それくらいのことであれば芝浦だって考えた。刑事を長年してきたことで蓄えはあるし、充子も無駄遣いするタイプで無かったこともあり貯蓄額は相当なものだった。一応、芝浦は芝浦なりに計算してのことだった。
「なら、奥様の了承は?」
「それはまだだ。今晩にでも話すつもりだ」
「ある意味、真利亜ちゃんは色々と問題を抱えている。これから老いていくあなたたちに本当に面倒が見られるのか、それをよく考えて下さい。その上で、本当に引き取る決意があるのであれば、私も、そして黒澤先生もバックアップはします。ですが、少しでも奥様が躊躇するようでしたら、あの子を施設に入れる方が親切というものです」
相変わらず人好きする顔をしてきついことを言う男だと思いながらも、樋口は樋口なりに考えた末に芝浦に苦言めいたことを言っていることは分かる。だから、そこで反論するような真似はしない。相手が真剣であれば、こちらも真剣に返すのが礼儀というものだ。
「分かってる。きちんと今晩は妻にも話す。もし、話しがまとまれば妻もこちらに連れてくるから、改めて先生たちから話しをして貰っても構わない。俺は今晩、話し合いしたから帰るんで、悪いが黒澤先生、あの子についていて貰っても構わないか?」
「それは構わないわよ。奥さん、説得できるの?」
「俺よりも、むしろあいつの方が乗り気になるかもしれないな」
「あら、意外」
二人でそう言って部屋を出る時、樋口と視線が合う。肩を竦めて見せる樋口に対して、芝浦は一度身体をむき直すと滅多にすることないほどきちんとした一礼をしてから部屋を後にした。それは本気で苦言を呈してくれた樋口に対して、芝浦ができる最低限の礼儀であり、感謝の形でもあった。
一度二人で病室に戻り、少女の握る手は松永から黒澤へ交代する。明日、一度は顔を出すことを伝えてから松永と共に病室を後にした。タクシーで帰るという芝浦を、結局松永は自宅前まで送ってくれて芝浦が家に辿り着いたのは十時を回ったところだった。
さすがに芝浦としても事の重大さは充分に理解しているだけに、扉を開けて「ただいま」と声を掛ける時にも幾分緊張をした。丁度テレビでも見ていたのか、居間からテレビの音と共に充子が顔を出す。
「あら、今日は早いのね。ご飯食べますか? 親子丼くらいならすぐに作れますけど」
「あぁ、頼む。それから茶を一杯。昼から何も口にしてない」
「はいはい」
リビングに座れば、テレビでは丁度パピーミルについてやっていて、今日見たばかりの映像を思い出してしまい顔を顰めながらテレビを消した。お茶だけ運んできた充子はすぐに台所へと姿を消してしまい、やることもなくテーブルの上に置いてある新聞に目を通す。別にいつも無口な訳でもない。ただ、事の重大さに芝浦の口はいつも以上に重い自覚はあった。
十分ほどすれば、充子はお盆に親子丼と漬け物、そしてサラダを用意して戻って来ると芝浦とは向かい側に腰掛けた。
「あら、テレビ消したんですか?」
「食べる時に見たいものじゃない」
「まぁ、それもそうね。それに何か話しがあるんでしょ?」
長い付き合いというものはこちらから相手のことも分かるようになるが、相手にもこちらのことが分かるようになるということで、芝浦は少し悩んだ末に手にしていた箸を一度置いた。
「話しがある」
「改まって言われると怖いわね。何かしら」
「一人、子どもを引き取りたい」
言ってから充子の顔を見れば、充子は笑顔のまま固まっていて、芝浦としては切り出し方を間違えたかと思って内心慌てる。けれども、刑事の性なのか、こういう時にもポーカーフェイスを崩すようなことはしない。
「今回、事件に巻き込まれた子どもなんだが、親が虐待容疑で捕まった。今、十二歳の女の子だ」
「あぁ……あぁ、そういうこと。それなら全然構わないわ。いいわー、女の子」
途端に笑顔を浮かべた充子に、芝浦としては困惑するしかない。一体、先までの反応は何だっただと問い掛けたい。そんな芝浦の思いが通じたのか、充子はケロリとした顔をして想像すらしていないことを言い出した。
「突然、子どもを引き取りたいなんて言うから、どっかで隠し子でも作ってそれを引き取るとでも言うのかと思ったわ。きちんと最初から説明してくれたら、全然気にしなかったわよ。それに、私は今でも子どもが欲しいと思っていたくらいだから大賛成よ」
「隠し子……」
呆然と呟く芝浦に充子はカラカラと楽しそうに笑う。そんな充子に芝浦は大きく溜息をついて体勢を立て直すと、改めて充子に向き直る。
「余り喜ばれても困る。俺たちも年だ。あの子にしてやれることは恐らく少ない。けれども、あの子に普通の生活をさせてやりたい。ただ、あの子は精神的にも肉体的にもダメージを受けていて、しばらくの間は病院にもカウンセリングにも通わなければいけない、そういう子どもだ。俺も一年はつきっきりで手伝う。だから、お前の了承が欲しい」
真剣に、それこそプロポーズでもする時と同じくらい真剣に芝浦が伝えれば、笑いを収めた充子は、やはり芝浦に改めて向き直ると微笑んだ。
「それは素敵なことだと思うわ。普通の生活でいいなら私だって協力できるし、しかも孝一さんが一年もつきっきりで付き合うというのであれば、私たちは家族のように過ごせると思うの。勿論、その子がうちを気に入るかどうかという問題はあるけれども、私は全く反対するつもりは無いわ。大丈夫、私はあと三十年くらい生きる予定ですし、孝一さんと違って早死にするタイプじゃないわ」
サラリと酷いことを言われている気がしないでも無かったが、充子の答えにようやく芝浦は肩の力を抜いた。
「お前、そんな簡単に決めていいのか?」
「私、孝一さんの人を見る目は信用しているの。勿論、一度くらい事前に会わせて欲しいけれども、孝一さんが引き取りたいと思うのであれば反対するつもりは無いわ。天才児育てろと言われたら困るけど、普通の生活でいいなら私にだって協力できるし、子どもがいる家というのが私はとても嬉しいわ」
「大変だぞ」
「いやねぇ、大変だからこそ子育ては楽しいのよ。大丈夫、何とかなるわ。それに、私、今は小学校の学童保育で色々と子どもの相手をしているのよ。子どもの扱いは慣れているし、子どもは好きよ。でも、問題があるなら、早い内に先生にお話しも聞きに行かないといけないわね。明日でも大丈夫かしら」
そう言って笑う充子の笑顔に曇りは無く、結婚して何十年、ここにきて初めて充子の強さというものを見た気がした。確かに大丈夫だとは思っていた。けれども、正直、こんなにあっさりと充子が了承することは考えてもいなかったこともあり、酷く気が抜けた思いで箸を持つ。そして、いそいそとカレンダーを見て予定を立てる充子を横目に、芝浦は充子お手製の親子丼を掻き込んだ。
食事を終えて貰い物のゼリーがあると台所に立った充子は、芝浦が食べている間に勝手に明日病院に向かうことを決めてしまったらしく、その行動力に芝浦としては我が妻ながら呆れるしかない。元々行動的な妻ではあったが、まさかこんな所まで行動的だとは思ってもみなかった。いや、確かこの家を買う時にも忙しい芝浦を置いてあちらこちらの住宅展示場を見て回り、探し出してきたのは妻の充子だった。
決断力、行動力、そこに芝浦は惹かれて結婚したのだから文句など一つもない。ゼリーを二つ、スプーンを二つ手にした妻が居間へ戻って来ると、手にしていたスプーンの一つを床に落としてしまう。
「あら、落としちゃったわ。先に食べていて」
そう言って再びゼリーと一つのスプーンを芝浦に渡してから妻は台所へ消えてしまう。けれども、妻が持ってきたその濡れたスプーンを見て、芝浦は霧散したと思っていた思考が全てまとまった気がした。
「悪い、これはお前が食べろ」
手元にあったゼリーを充子に押し付けると、芝浦は勢いよく立ち上がるとスーツのジャケットを鷲掴みにして玄関へ歩き出す。
「孝一さん?」
「俺は署に戻る」
「待って、その子がいる病院を教えて下さい」
「中央病院だ。行ってくる」
玄関まで追いかけてきた充子にそれだけ伝えると、芝浦は勢いよく玄関の扉を開けた。生ぬるい風が吹き抜けていく中、外に出た芝浦はタクシーを捕まえるために大通りに向かって走り出した。

Post navigation