夕暮れコントラスト Act.End

『今日は会えて、話しができて嬉しかった』

 たった一言だけのメールは、いつもと変わらない。けれども、その一言がどれだけ流果を舞い上がらせるのか、ヒロは絶対分かっていないに違いない。

 まだ、付き合うという現実がふわふわとした実感しかなかったのに、それをヒロが肯定してくれたことが嬉しい。

『私も凄く嬉しかったです。眠れなくなりそうで困ってます』

 実際、こうしてメールを打つ指も震えるくらい緊張するし、あのヒロと付き合うことになったことがまだ信じられない。

 それに対する返信はしばらくなくて、大げさ過ぎたのかと反省した頃、再びメールが着信を告げる。

 慌ててメールを開けば、ヒロからメールが届いていた。

『子守唄になるといいけど』

 そんな言葉と共に添えられたアドレスは、例の動画サイトだった。

 慌ててパソコンの電源を入れると、携帯を机に置いたままアドレスを打ち込んでいく。そこに現れたのは、ヒロの新曲だった。投稿者であるヒロの一言には
「お蔵入りする予定だった片思いのラブソング」と書かれている。流果は少しだけ落ち着かない気分で再生ボタンを押した。

 そして流れてきた曲は、書いてあった通り片思いのラブソングだった。ストーリー仕立てになった曲は、時折流果にも分かる暗号のようなものがちりばめられていて、聞いているだけで赤面するような思いになる。

 好きだけど、好きと言えない心境を歌ったその曲は、間違いなく自分にあてたものだと分かる。

 聞いているだけでも照れくさくなるような、淡い気持ちが嬉しいけど、恥ずかしい。

 一曲聞き終えた途端、携帯を手にした流果が勢いよくキーを操作してメールを綴る。

『余計眠れなくなりました。ヒロさんのことが、やっぱり好きです』
『僕はそろそろ動画サイトの自分に嫉妬しそうです』

 間を置かずに返ってきたメールに、つい声を立てて笑ってしまう。

 流果にとって、歌ってるヒロも、話しているヒロも、こうしてメールに返信をくれるヒロも、どれも一人のヒロだ。だからこそ、笑いながらも再びメールを一通送った。

『今は歌っていないヒロさんも大好きです』

 それに対しての返信は『ありがとう』という一言だけだったけど、流果にとっては酷く満足のいくものだった。


 * * *


「好きだ」

 誰もいない静かな廊下で、卒業証書片手にその言葉を聞いた時、手にしていた荷物全てを取り落としそうなほどの衝撃を受けた。

「……冗談、な訳はないよね」
「冗談でこういうことを言うタイプだと思うか?」
「思わないから、どうしようかと思って」

 思わず心境をそのまま吐露すれば、透は苦りきった顔で笑う。

「お前、そういう発言は余りにも情緒がないだろ」
「情緒とか、そういうことを透が言い出すことにも驚きだけど」

 まるで何事もなかったかのように会話を続けるけど、恐ろしいほど早く心臓がバクバクいっている。

 聞き違えた訳じゃないことは、自分でも分かっている。だからといって、はいそうですか、と信じられる言葉でもない。

「別に付き合えとかそういうこと言いたい訳じゃない。ヒロさんと付き合ってることは聞いてるから」

 ヒロと付き合うことになったことは、透と沙和だけには伝えてある。そして、透が無理強いするような性格じゃないことは、長い付き合いで知っている。

「ただ、自分の気持ちに蹴りをつけたかったんだ」
「いつから……そうだったの?」
「それを今更知ってどうなる?」

 確かにそれを聞いたところで、流果が何かできる訳でもない。

「確かに知ってもどうにもできないか。でも、私、もしかしたら透に酷いことしてた? ヒロさんのこと相談したり」
「流果は知らなかったんだから、別に酷くないだろ。ある意味酷いのはあの人だな」
「誰のこと?」
「ヒロさんだよ。あの人、流果と付き合ってから俺に聞こえるように、わざわざカウンターで色々話してるんだからな」
「それはたまたま」
「そんな訳ないだろ。俺の気持ち知ってて牽制してるんだよ」

 そういえば、ヒロも付き合った時に牽制云々と言っていた記憶がある。ヒロにとって本当に牽制するべきは透だった、ということだったのだろうか。

 でも、これだけ近くにいた流果が気づかないのに、ヒロは透の気持ちを知っていたというのだろうか。何となく複雑な心境で透を見上げれば、途端に何かを思い出したような顔をした透と視線が合う。

「そういえばこの前、流果のこと聞かれたから色々教えておいたぞ」
「一体何を教えたの!」
「別に普段の流果」
「変なこと話してないでしょうね!」
「俺にとっては普通のことしか話してないな」
「それが問題ありでしょ!」

 途端に持っていた卒業証書の筒で、軽く頭を叩かれた。

「だから、いつまでも遠慮してないでヒロさんと付き合えよ。お前が遠慮すること、ヒロさん気にしてたぞ」
「だって、年上の大人の人だし」
「でも好きなんだろ?」
「……うん」
「だったらいつまでも猫の皮かぶってるなよ」

 分かってはいるけど、嫌われたくない気持ちが先攻して、透に対するような無遠慮な態度は取れない。それじゃあダメだと分かっているけど、まだ開き直るところまではいっていない。

 再びコツンと頭を叩かれて顔を上げれば、今度は遠慮なく叩かれた。

「ちょっと、痛い」
「大学行っても宜しくな」

 それだけ言うと、透は背を向けて誰もいない廊下を歩き出す。だから、慌ててその背中に名前を呼んだ。

「ありがと! 色々、本当にありがと!」

 どうにか伝えれば、振り返ることなく透は卒業証書を軽く掲げて歩いて行ってしまった。

 窓の外を見れば、卒業生や後輩が入り交じり、色鮮やかな花束の遣り取りが見える。ゆっくりとした足取りで階段を降りて同級生たちと合流すると、謝恩会に向かうべく歩き出した。


 * * *

 帰り道、駅で透や佐和と別れると、一人自宅への道を歩く。すっかり藍色に変化した空をぼんやり眺めながら、高校生じゃない自分を想像してみた。

 大学に入って剣道をして、疲れきった身体で家に帰る。それが毎日続くのかと思うと、楽しみでもある。

 今までも大学には顔を出していたけれども、三時間程度のもので、それ以上の練習は許されなかった。けれども、明日からは違う。

 みっちりと朝から稽古が入り、へとへとになって帰ってくることになるに違いない。

 少しだけ不安で、でもワクワクする。

 軽い足取りで駅前の道を歩いていれば、不意に携帯が着信を告げる。慌ててポケットから携帯を取り出すと、そこに表示されているのは、千尋さんという名前だった。

「もしもし、今すぐそこの公園にいるんだけど」

 すぐそこ、確かに歩いている横は公園があり、そのベンチに座る人影がある。その人影が軽く手を挙げたのを見て、慌てて携帯を片手に走り出した。

 ベンチに座るヒロの前に立つと、矢継ぎ早に問い掛けた。

「どうしてここに? もしかして待ってました?」
「うん、待ってた。透くんから、そろそろ帰る時間だと連絡があったからね。流果ちゃんの制服姿、今日で最後だから見納め」
「そういえばそうですね。余り考えたこともありませんでした」
「着てる時はそんなもんだよ。遅くなったら家の人が心配するから、五分だけ付き合って貰えるかな」

 そう言ってベンチから立ち上がると、手を掴み歩き出した。 まだ付き合って日も浅い。こうした接触だけでも、あっという間に心拍数が上がる。公園を少しだけ歩き、街灯がある真下で止まると、ポケットから何かを取り出した。

 繋いでいた手を離すと、左手をとり薬指にゆっくりと指輪をはめてくれた。街灯の下で光るシルバーのリングには、小さいけれどもカラフルな石が幾つも埋め込まれている。

「これ……」
「卒業祝い。別名男避けとも言うけど。本当に情けないんだけど、流果ちゃんのことが心配なんだ」
「そんな物好き、ヒロさんくらいしかいないと思いますけど」
「本当に?」

 真面目な顔で問い掛けられて、思わず言葉に詰まったのは透の告白を思い出したからだ。

 無言になってしまった流果に言葉を促す訳でもなく、ヒロは流果の髪を少しだけ摘んでは指を滑らす。

「透くんから告白されたでしょ」
「……何で知ってるんですか?」
「本人に昨日宣言されたからね。堂々たる宣言だったよ。少なくともあの潔さを僕は真似できそうにない」

 そう言ってヒロさんは笑うけど、どちらかといえばそれは苦笑に近いものだった。

「姑息に透くんを牽制していた僕の方が大人げない」
「牽制、してたんですか?」
「それはもう。だって、流果ちゃんが心配だからこそ、あそこで透くんはバイトしてたんだと思うよ。普通は心配でもそこまではしない」
「全然気づきませんでした」
「僕にはラッキーだったよ。そうじゃなければ、こういう関係にもなれなかったから」

 少しだけ屈み込んだヒロと距離が一瞬にして縮まると、頬にヒロの唇が触れる。まだ数回しか体験していないけど、毎度一瞬にして頭に血が上る。

「ヒ、ヒロさん」
「本当はもっといいもの用意して、ご両親にも挨拶行ったりしようかと思っていたんだよ」
「それって」
「僕たち結婚を前提としたお付き合いをしています。って宣言しに。でも、さすがに果穂に怒られてね」
「果穂ちゃんに?」
「流果ちゃんはこれから、色々な物を見てまだまだ成長していくと思う。もしかしたら、僕よりも好きになる人に出会うかもしれない」
「そんなこと」

 途端に唇に人差し指をあてられて、言葉を封じられてしまう。

「今は考えられないと思うけど、この先、何があるかは誰にも分からない。だからね、流果ちゃんに結婚って枷をつけようとしたんだ。それを果穂に見透かされて怒られたよ」
「わ……私は嬉しいです」
「うん、ありがと。でも、狡い大人でごめんね」
「でも、それはヒロさんがそれだけ私のことを好きってことで、全然イヤじゃないです」

 思わず強い口調で言い募れば、少しだけ驚いた顔をしたヒロさんが次の瞬間に破顔した。

「流果ちゃんの、そういうストレートなところも好きだよ。もっと遠慮のない流果ちゃんを沢山知りたい」

 ヒロの手がゆっくりと頬に添えられる。見つめてくるヒロから視線を外すことができない。近付いてくるヒロの顔に目を瞑れば、少しだけ笑う気配がある。

「流果……」

 低い声で名前だけを呼ばれて鼓動が高鳴り、じわりと頬が熱くなる。触れた唇は柔らかくて、少しだけ温かいものだった。

The End.

 
 

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