床を蹴る。空中で体勢を立て直し、床に柔らかく手をつくと前転。そこから立ち上がり、優雅にステップ。勿論、高さがなければ意味がない。
数歩で角端につくと、くるりと方向転換して反対の角端を見据える。
今日は調子がいい。身体が軽いし、足も動く。だから判断は一瞬だった。
一気に床の半分まで走り抜けると、両足を揃えて床を蹴る。
浮き上がる身体を小さく丸め、バランスを調整してくるくると回る。視界が回り、景色が回る。それでも体内バランスが何回転したのか数えている。
回る視界の中で床との距離を計り、回転して床へと着した。足裏に床の感覚。でも、勢いが殺せず一歩前に出たところで怒鳴り声が耳についた。
「羽鳥! 何してる!!」
振り返ったそこにいたのは、このクラブのコーチでもある平尾だ。
うへっと思いながら首を竦めると、すぐさま床のラインを踏み越えた。
「羽鳥!! 待てっ!!」
「嫌です」
即答してとっとと扉に向かって走り出す。怒られるのは目に見えているから逃げ出すしかない。
本来なら床での三回転は禁止されている。チャレンジする場合にはマットの使用を言い渡されていた。でも、完璧に仕上げるためには最終的に床での調整になる。禁止事項なんて聞いていられない。
眞洸としては三回転どころか、三回転捻りに挑戦したいところを三回転に止めたんだから褒めて欲しいくらいだ。
でも、怒られるのは面倒だから逃げるに限る。
扉を出ると長い廊下が続き、その廊下をひたすら走る。勢いのままに角を曲がれば、その先で人とぶつかった。
「痛ぇよ!」
「ごめんなさい! って、颯真か。ごめん、ごめん!」
同年代の颯真とは子どもの頃から同じクラブに所属していることもあって、互いに気兼ねしないし、遠慮もない。
だから簡単な挨拶ですり抜けようとしたところで、今度は目の前に壁が立ち塞がった。
「眞洸ちゃん、後ろでコーチが呼んでるけど」
その声で壁を見上げれば、目の前に立つのは日置だった。
日置は今年大学生になる先輩で、女性の中では長身に入る部類の眞洸よりも更に背が高い。二メートル近いと聞いていたけど、こうして近くで見る限り噂は限りなく本当らしい。
「聞こえなかったことにして下さい」
「ダメ。それじゃあ他の子たちに示しがつかないでしょ」
日置が言う他の子たちというのは、眞洸たちよりも更に年少である子たちのことを言っているのだろう。
確かに今はフリー時間で、中学生や高校生、大学生が入り乱れて練習している時間だ。恐らく、逃げ出した眞洸の姿を見ていた中学生も多かったに違いない。
「羽鳥!!」
背後からがっしりと頭部を掴まれて肩が跳ねる。ギギギと音がしそうなくらいゆっくりと振り返れば、そこにいたのは平尾だ。
「コーチ! 痛いっ! 痛いっ!!」
騒ぐ眞洸を気遣う様子もなく、平尾は笑う。だが、よく見ればその顔が笑っていないことなど誰の目にも明らかだ。
「お前は、何度言ったらわかるんだ! 無茶して怪我したらどうするつもりだ!」
「そんなこと言ったって、もうほぼ完璧なのに何で床で試しちゃダメなんですか!」
「そういうのは、百パーセントになってから言う台詞だ!!」
恐らく加減はされている。それでも激痛の走る拳骨を貰って眞洸は涙目になる。これが本当に痛い。
「暴力だ! 暴力コーチだ!」
何も言えないのは悔しくてはやしたててみれば、コーチは誰の目にも明らかなじゃない笑いを引き攣らせた。
「ほぉ、そうか。羽鳥はさらに基礎練をしたいか。ほぉ、そうか、そうか」
基礎練は嫌いじゃない。それこそ毎日繰り返しやっていることだし、サボったことはない。でも、そればかりを一日中やっていたい訳じゃない。
「絶対ヤダ!!」
睨み合う眞洸と平尾の間に割って入ったのは日置だった。
「コーチ、それくらいにしてやって下さい。確かに眞洸ちゃん、ここ最近頑張ってますよ。次の大会では新技として新たに使いたいみたいですし」
「え? 何で知ってるの?」
「お前、あれだけ毎日ギャーギャーやってれば、誰だって知ってるっての」
問い掛けに答えたのは日置ではなく颯真だ。