「今晩、時間を取れないかしら」
瑶子に声を掛けられた瞬間、あぁ、この時がきたんだなと思った。それは堀口に呼び出されてから二日後のことだった。
仕事が終わった後、瑶子と共に久しぶりに来たビストロは随分と様変わりしていた。店に入り席に落ち着いたところで瑶子がぽつりと呟いた。
「随分変わったわね」
どうやら感想は私と同じだったらしく、瑶子も店内のあちらこちらを見ている。
前に来たときは家庭的だったビストロは、すっかり高級店のような趣になっていて腰が落ち着かない気分にさせられる。
だが、出てきた料理はどれも美味しいもので、味付けは前と変わらない。
たわいのない話しをしながら食事を取り、デザートが出てきた時点でようやく私から話しに踏み込んだ。
「それで、話しというのはなんだい?」
途端にそれまで程よく笑みを浮かべていた瑶子の表情が曇ってしまう。本当はそんな顔をさせたい訳ではなかったが、でも、この話しが終わらないことにはお互いに一歩も進めない。
「堀口くんから結婚を申し込まれたの」
どうやら堀口はあれからすぐに動き出したらしい。別れの予感は予定通りでもあったが、胸の痛みが全くない訳ではない。
「そうか……」
「それだけ? もう私には興味がないの?」
「そうじゃなくて、瑶子は堀口から告白されてどう思ったのかな、と思って」
途端に俯いて黙ってしまった瑶子を急かすことなく、甘くなった口の中をコーヒーで整える。
「……私、最近、あなたが考えていることがわからないわ。急に距離を空けたり、食事に誘っても断られることも多くて……」
「最近、仕事が忙しくてね。それは悪かったと思ってる」
「それだけじゃなくて……ねぇ、私と結婚する意思はある?」
瑶子の顔に笑みはない。ただ真っ直ぐに真剣な顔で私を見つめてくる。そんな瑶子に私は緩く首を横に振ることで、その問いを否定した。
「そう……私、結婚したいの。この年だから子どもは望まないけど、もっと近くにいてくれる人がいいの」
「うん」
瑶子が寂しがりやなのは知っている。だからこそ、私と瑶子は付き合えた。その寂しさを埋めるだけの優しい気持ちで瑶子には接してきたし、瑶子はそれに答えてくれた。
ただ、私が変わっただけだ。だから瑶子が不満に思うのは当たり前のことでもあった。
「……別れて欲しいの」
「そっか。……それは仕方ないよね。もう、瑶子は決めてしまったんだろ? 恐らくここで僕が結婚しようと言っても困ったんじゃないのかな?」
その言葉に驚いた顔をした瑶子は、すぐに俯いてしまう。基本的に寂しがりやではあるが、優柔不断ではない。
「好きだったよ、君のことが」
「過去形なのね」
「君も堀口も僕には最高の友人だと今でも思ってる。もし、君たちが結婚するのであれば、僕は心からお祝いするよ」
その言葉に瑶子は複雑な表情をしたが、それでも気持ちを切り替えたのか笑みを浮かべた。
「ありがとう。でも、正直言うとそこまで手放しで祝われると恋人の立場としては物足りない気分ね」
「それなら別れることにごねてみようか?」
「嘘よ。でも、私が望んだら結婚くらいは考えてくれた?」
「そうだね。あと一年早ければ考えただろうね」
「何だか勿体ないことをした気分」
控えめに笑う瑶子に私も控えめに笑う。私と瑶子の恋はいつでもそうだった。どちらかが物事を強引に進めるのではなく、どこかゆったりとしたなだらかな恋だった。
そんな関係が心を穏やかにしてくれて、私にとっては大切なものでもあった。だが、幸せを願うのであれば、瑶子を手放すことに後悔はない。
「堀口は善い奴だし、二人で幸せになって欲しいよ。本当に……」
しみじみと言った私に、瑶子は僅かに目を潤ませると頭を下げた。
「……ごめんなさい。私が苦しかった時、一番傍にいてくれたのはあなただったのに」
「いいんだよ。君が幸せになれるなら、それは私にとっても嬉しいことだ。強がりじゃない。本当に言ってるんだよ」
ゆっくりと顔を上げた瑶子に笑顔を向ける。私を見た瑶子がホッとした様子を見せたことに私自身が安堵した。決して追い詰めたい訳ではない。そして、追いかけるつもりもない。
痛む胸はある。でも、これで本当に良かったと思える。
「ところで、堀口は転勤になるけどついていくつもりかい?」
「えぇ、ついてきて欲しいって言われたから」
瑶子の言葉に内心かなり安堵した。むしろ、私自身はそれを願っていた。
「うん、その方がいいと思う。それなら早めに会社にも申請しておかないと」
「そうね。全く考えていなかったわ。でも、それをあなたに指摘されるのもおかしな話しね」
そう言って笑う瑶子に、私も声を潜めて笑う。けれども、次の瞬間、瑶子が真面目な顔をして私を見つめる。
「なんだい?」
「もしかして……私の他に恋人がいたりするから、こんなに手放しで喜んでくれているの?」
予想もしていなかった問い掛けに、一瞬戸惑い、次の瞬間にはつい笑ってしまう。
「いないよ。他に恋人なんていないし、今は今回引き受けているプロジェクトが気掛かりになっているくらいだ。そもそも、他に恋人がいて君に隠せるほど器用な人間でもない」
「本当に? なんて私が聞ける立場じゃないわね」
「いいんだよ、聞いてくれて。実際、君は恋人だったんだから。恋人だった時に不審に思ったことがあったなら聞いていいんだよ」
「あなたはお人好しすぎるのよ。そもそも、もっと怒っても良かったのに」
確かに普通であれば怒るべきことだと思う。実際、一年前にこんなことを言われたら心穏やかに聞いていられたとは思えない。
むしろ激怒して問い詰めるくらいのことはしたに違いない。
「いいんだよ。正直言うと、最近、君と堀口が惹かれ合っていることは知っていたんだ。そのことでホッとしていたのもある」
「知ってたの?」
「それくらいのことは分かるよ」
穏やかに言ったつもりだが、瑶子の表情は不満そうだ。
「私、やっぱり恋人だった立場としてそれを言われると複雑よ。まるで私を好きじゃなかったと言われている気分」
「そういうつもりはないよ。悪かった。ただ、私は結婚に不向きな人間だし、君は結婚願望あることも知っていたから複雑だったんだよ」
「いい夫になると思うわ、あなたは」
お墨付きを貰ったところで、私が結婚することは一生ない。だから曖昧に笑うしかない。
最後に出てきたコーヒーを飲むと、そのまま店の前で瑶子とは別れた。瑶子がタクシーに乗るまで見送り、改めてビストロを見上げる。
恐らく、瑶子と別れた今、もうここへ二度とくることはないだろう。そう思いながら、私は携帯を取り出すと円城寺に電話を掛けた。
既に時間は夜の八時となっていたが、事務所に伺うことを伝えれば円城寺は渋ることなく受け入れてくれた。
タクシーに乗り込みJOATへと向かえば、事務所には円城寺と岸本の二人がいた。ただ、二人は正装をしていてこれからどこかへ出掛けることは伺えた。
「すみません、お忙しい時間に申し訳ない」
「いえ、大丈夫です。次の約束は九時半からなので。それで、どうされましたか」
円城寺に問い掛けられて、JOATに来る途中で買った封筒を円城寺に差し出した。
「無事、瑶子と堀口が結婚する運びになったみたいです。色々と有難うございました」
「そうですか」
差し出した封筒を受け取った円城寺は、すぐに封筒を開き中身を確認する。だが、そこから数枚の札を抜き出すと、まだ中身の入った封筒を私へと差し出してきた。
「これ以外の金額は受け取れません。うちの取り分はここまでが正当です」
そう言って抜き出した札を広げて見せる。
「でも、それでは最初の契約分よりも少ないと思いますが」
「実際、動いたのは会社に伺った分と、ここで相談を受けた分のみでそれ以上のことはしていません。経費等も掛かっていませんしこの金額が妥当です」
「ですが」
「これはあなたが必要とするものです。そうですよね?」
円城寺の顔に感情はない。ただ真っ直ぐに金の入った封筒を突きつけてくる。困惑しつつ岸本に視線を向ければ、少し困った顔で笑う岸本を見て全て悟られたことがわかる。
「また何かあればご利用下さい」
事務的な対応ではあったが、一歩間違えれば冷たいと言われるその対応が本当に有り難いものだった。