展望デッキから次々と飛び立つ飛行機を眺めながら、冷えたアイスコーヒーに口をつける。途端に苦味と共に喉元から腹まで冷たい液体が落ちていくのがわかる。
「一つ聞いていいか?」
そう問い掛けてきたのは隣に立つ円城寺だ。
「なに?」
「篠崎さんに渡した搭乗券は誰の名義だ」
「勿論、篠崎さん名義。まぁ、三十分後には篠崎さんの名前はこっちで書き換えるつもりだけど」
「そういうことか……」
ちらりと横目で見れば、納得と言わんばかりの顔をした円城寺がいて、それを確認してからまた網の向こう側にある飛行機に視線を向けた。
「むしろ今回の依頼よく受けたな。正直、断るとばかり思ってた」
「今回に限っては逃がした方がてっとり早かったからな」
そのことには反対するつもりはない。確かにJOATとしては遠くに離れてくれた方が良かった。正直言えば、体よく追っ払ったといっても過言じゃない。
もし、そのまま篠崎が国内にいて殺されるようなことになれば、下手に警察の目にとまる可能性がある。円城寺の立場からも、俺の立場からもそれは避けたい。
恐らく放っておけば、間違いなく篠崎は殺されていただろう。その確信はある。あるが、ただ、やっぱり良心が痛む。
「……言わなくて良かったのかなぁ」
ぼやいた俺に対して、円城寺からのコメントはない。
篠崎には伝えていないことがある。恐らくそれを伝えていれば、篠崎はこうも早く海外へ出たかわからない。
行儀悪くズズズと音を立てながらコーヒーを飲めば、隣からため息が聞こえた。
「別にトオルが罪悪感を感じる必要はない」
「うーん、でもさ、そもそも話した内容が嘘じゃん。騙されてるとまでは言わないけどさぁ……」
「なら、あれだけ落ち込んでいる男に言うのか? 実はあなたの恋人はヤクザの愛人で、あなたからデータを引き出すために近づいたんです、って?」
篠崎の落ち込みようは随分なものだった。正面切って突きつけるには厳しいものがあったのは確かだ。
「でも、結局は篠崎さんのことが好きになって、愛人やめようとして殺されちゃった訳だから色々違うじゃん」
眼下に停まっていた飛行機がゆっくりと動き出す。周りには飛行機に比べて小さな人が旗を振って誘導している。大きさの対比を考えれば、あれはあれで命がけの仕事だ。
あんなでかい車輪で踏まれたら人間なんてプチッと潰れる。シャレにならない。
会話とは全く違うことを考えながら、誘導する旗をぼんやりと眺めている。
「それを聞いて、幸せになれると思うか?」
「……まぁ、なれないよな」
彼女が自分を愛したからこそ死んだのだと思えば、とても立ち直れないに違いない。あの作り話であれば、思考の逃げ道がまだある。
彼女の遣り方は間違えていたとか、彼女は何故相談してくれなかったんだとか、彼女側の思考が見えないからこそ、悲しみをそこへ逃がすことができる。
でも、事実は彼女と篠崎さんが愛し合ったから殺された。それは余りにもストレートに心に刺さる。
勿論、そこにも彼女が真実を話さなかったから、という逃げ道はある。でも、既に結婚を考えるほど懐に入れていたなら、彼女の過去を聞いていたところで結果は変わらなかったと思う。
「あー、やっぱり恋人は普通の人がいいな」
「……欲しかったのか?」
さも意外そうな声で問われて少しだけ真面目に考えてみる。
まぁ、いたらいたで楽しそうだと思うし、浮かれ気分だって味わいたいし楽しみたい。
ただ、今は時期じゃないことを知っている。
「警察のお世話になる心配がなくなってからかなぁ、やっぱり」
「別に辞めても構わないからな」
「ちぇっ、社長さんは冷たいなー。いいんだよ今はこれで」
まだもう少し人のためになる力なのだと実感したい。そのためにJOATで過ごす日々は俺にとって必要な時間でもある。
「もう一つ聞きたいことがあった。どうして篠崎の家に行かせた?」
冷え冷えとした視線を向けられて、力なくたははと笑うとコウから視線を逸らした。
「コウならどうにかしてくれるかなー、とか思ってさ」
「……もうこういう騙し討ちみたいなのは二度とごめんだからな」
「悪かったって。何か今回は色々ごちゃごちゃ考えちゃってさ」
すっかり空になった紙コップを呷り中の氷を口に入れると噛み砕く。
何も知らないまま死ぬことしか後がない篠崎に同情したのは確かだ。そして、少しだけ過去の自分に重なった部分もある。
「もうしないよ」
「そうしてくれ」
円城寺が歩き出し、ベンチに座っていた俺も立ち上がる。すっかり空になった紙コップを軽く握り潰して手近にあるゴミ箱に投げ入れた。
「すっかりスケジュールずれちゃったな」
「今晩はもう一件引越だ」
「わー、素敵ぃ! 絶対明日筋肉痛コースだろ、それ」
最初はテンション高く裏声まで使い、続いてうんざりした気分を隠さずぼやいたが円城寺は涼しい顔だ。
「トオルは体力がなさすぎるんだ。少し動け」
「いいんだよ。俺、知能派目指すから」
「色々察しの悪い知能派だな」
「わーるかったなぁ。あー、俺、明日までに道路使用許可書も作らないと」
どうやら今日は眠る暇すらないらしい。でも、弱音を吐くのはここで終わりだ。少なくとも、今回の件に巻き込んだのは俺で円城寺じゃない。
「このまま庭木の剪定に行くがトオルはどうする」
「俺はいつもの犬のお散歩が入ってるからそっちに顔を出してくるよ」
「それなら夜事務所で合流だな」
「了解」
お互いエスカレーターを降りたところで別れると、コウは更に地下へ降りていった。ここからならコウは電車で移動した方が早い。何より時間も迫っている。
俺は駐車場に向かうと、荷物を運んできたバンに乗り込みエンジンを掛ける。
篠崎の件は既に終わった。
だから気持ちを切り替えると、次の仕事の段取りを考えながらアクセルを踏んだ。
* * *
徹夜で眠い目を擦りながら窓口に書類を出すと、手近な椅子に座り込んだ。所轄の椅子はボロくてかなり固い。
そんな居心地の悪い場所にも関わらず瞼が落ちてきそうになる。
魂が抜けかけていたところに名前を呼ばれ、一瞬にして眠気が飛んだ。勢いよく顔を上げれば、そこにいたのは西垣だった。
「あ、どうも、西垣さん」
「珍しいところで会いますな。今日はどうして」
「道路使用許可貰いにきたんですよ」
「そんなことまでするんですか」
笑ってはいる。だが、その目が笑っていないことに気づいて、これは俺の経歴がバレたんだな、と悟った。
挨拶もなく立ち去るのかと思えば、すぐ近くにある自動販売機にお金を入れるとガコンガコンと派手な音が鳴り響く。
振り返った西垣はコーヒーとお茶を差し出してきて、俺は素直に礼を言ってコーヒーを受け取った。
そして予想通り、西垣は俺の隣に腰掛けた。
「捕まりましたよ、あなた方が見つけた遺体の犯人」
「そうなんですか! 良かったです」
態とらしすぎたかとも思ったが後の祭りだ。まぁ、やってしまったものは仕方ない。
ごまかすこともなく渡されたコーヒーのプルタブを開けると、それに口をつけた。冷たさと苦味が少しだけ鈍い頭を復活させてくれる。
「それでですね、篠崎さんにご連絡をしようと思ったんですけど不在みたいでね。どこにいるか知りませんか?」
「いえ、俺たちもあれ以来篠崎さんとは連絡を取ってないんで。あー、でも、折角ですから伝えたいですよねぇ。彼女の婚約者ですし、少しでも犯人逮捕で癒えるといいんですけど」
途端に隣に座る西垣が笑う気配がある。ちらりと見た横顔は少々意地の悪さが伺える笑みで、俺はそれを見ないことにした。
「……逃がしたんですか?」
「何のことですか?」
「嘘はもう少し上手くついた方がいい」
今回、篠崎を逃がした程度のことで処罰が下ることはない。そして、篠崎を逃がした尻尾を掴まれたつもりもない。
証拠はNシステムにも残ってはいるが、罪のない人間を探すのに上の許可なくNシステムの監視をできる筈もないから、西垣は確証を持っている訳ではない。
「何のことですか?」
「……まぁ、いいでしょう。今回は無実な人間を逃がしただけだから見逃しますよ。ただ、少しでも法に触れるようなことをすれば、今度は悪戯ではすまないことになる。覚えておいた方がいいだろうな」
「重々承知してますよ」
お互いに笑顔を浮かべてはいる。周りから見ればとても良好な関係に見えるだろう。
だが違う。恐らく自分は西垣にマークされた。下手なことをすれば、西垣は容赦なく捕らえにくるだろう。
「ご忠告、有難うございます」
「どういたしまして。……どうやら食えないのは社長だけじゃなかったんだな」
「褒め言葉として受け取っておきます」
誰が見ても人好きする笑顔を浮かべれば、西垣は僅かに目を細めた。その眼光の鋭さにヒヤリと背筋は冷えたが、それくらいで負けるつもりはない。
「それで、捕まった犯人は」
「三下だよ。所詮鉄砲玉だ」
「お疲れ様です。でも、これで彼女も浮かばれますね。酷い状態でしたし……」
篠崎に言っていないことがもう一つある。彼女の遺体はレイプこそされていなかったが、血まみれだった。見ただけで拷問されたものだと分かるものだった。
爪は全て剥がされ、身体中の至る所に切り傷があり、足の甲には釘が打たれていた。見るも無惨な姿だった。
恐らく顔しか確認しなかった篠崎は気づいていないだろう。でも、コウが言うようにそれでいいんだと思う。
「それには同感だ……」
呟いた西垣の声はきちんと気持ちのこもった深いものだった。
背中に当たる日差しが床に二つの影を落とす。いかつい体型をした西垣に対して、俺の影はひょろりとしている。
もう少しどうにかしたいとは思っているけど、元々食が細いからこれ以上どうにもなりようがない。
「馬鹿をしてないなら余り派手に動くな。目をつけられるぞ」
それだけぼそりと言うと西垣は立ち上がる。
どうやら気づいたけど、本気で忠告をしてくれたらしい。そのことに気づいて思わず西垣を呼び止めた。
「まだ何かあるのか?」
「いえ、その有難うございます」
「別に礼を言われるようなことはしてない」
照れているのか通常よりもぶっきらぼうにそれだけ言うと、西垣は背中を向け軽く手を上げてその場を立ち去ってしまう。
忠告はされた。恐らく、多少の心配もされている。でも、西垣は黒と決まれば間違いなく俺を追ってくる、そういうタイプだ。
「気をつけないとなぁ……」
一人ぼやくと日向から逃げるように柱の陰に入り、俺は手にしていたコーヒーに口をつけた。