二人だけの事務所はいつもと変わらない。隣のデスクではトオルがカタカタと一心不乱にキーボードを打ち込んでいる。
大きな窓から入る日差しはガラスシートのお陰で柔らかいものだ。先ほど淹れたコーヒーを口にして、未決済の書類を手に取った。
ふと、何かが聞こえてくる。
最初小さな声だったが、徐々にその声が近付いてくる。
——子どもの泣き声。
徐々に近づいてきた声に隣を見れば、そこに先ほどまでいたトオルの姿はない。
辺りを見回せば事務所の姿は消え、暗闇の中に子どもの声だけが響く。
これが夢だという自覚はある。目を閉じて深呼吸してから、再び瞼を上げた。その視界に飛び込んできたのは子どもの顔で————。
「つっっ!!」
上掛けを跳ね上げる勢いで飛び起きると辺りの様子を確認する。そこは事務所でもなく、先ほどのような暗闇でもない。
普段暮らしている自分の部屋で、逸る鼓動を抑えるように長くゆっくりと息を吐いた。
静かな部屋で自分も脈の音と、時計の針が進む音だけが響く。
眠る前にベッドサイドへ置いたミネラルウォーターを呷るようにして飲み干すと、薄暗い中ベッドから立ち上がる。
カーテンを開ければ既に外は闇色から藍色へと変化しようとしていた。時計は四時。まだ一眠りできる時間ではあったが、とても眠る気にはなれない。
大きな窓ガラスに身体を預け、色の変わる街並みを長い時間ぼんやりと眺めていた。
* * *
5 days ago…
「これで確証が取れたな」
「あーあ、結構好きなタイプだったんだけどなぁ」
ぼやく俺に対してコウが冷ややかな視線を投げてくる。既に慣れたものではあるが居心地は悪い。
「だって、ああいう女の人って、なんていうか守ってあげたくなるっていうかさぁ」
「全てまやかしだ。そうやって色々な男の間を渡り歩いて生きているんだからな」
「別にそういう生き方があってもいいじゃん。実際、詐欺になりそうな件ってコウが受けた依頼の一件だけだったんだろ?」
「でも、勝手に他人のクレジットカードを使うのは犯罪だ」
「それはわかってるけど……」
別に自分だって犯罪を許容するつもりはない。ただ、コウの言い分が余りにも拒絶反応が強すぎて、どうしても久世を庇うような言葉になってしまう。
実際、キャバクラで女性に貢いだってそれは貢いだ男の責任で、その女性に罪はない。確かに褒められた生き方ではないかもしれないが、それはそれでありだと思う。
まるで人の思考を読んだかのように、コウが鼻先で笑う。
「結局、一度罪を犯せば罪人は罪人だ。どうあってもそれが覆ることはない」
「いやいや、反省して改心することだってあるじゃん」
「それを期待して同じ罪を犯したらどうする?」
「どうするって……」
正直言えば、余り深くは考えたことなんてない。ただ、悪いことして反省してより良いことを行えばそれでいい、という気がしないでもないが、恐らくコウはそんな答えは望んでいないだろう。
「あー、宿題ってことで」
「ガキか」
呆れたようなコウの声に情けなくもたははと笑うしかない。
「だって、ここでコウとやり合っても意味ないだろ。正直、仕事とは関係ない話しで揉めたくもないしさ」
「それは同感だな。書類は全て揃ったのか?」
その問い掛けに手にしていた書類を応接セットのテーブルの上に並べていく。
「これが今までの経歴、こっちが銀行に残ってた分の入出金、それでこっちが今まで住んでた場所。住所は移さないで転々としてたみたいだね。一応、ネットから拾える分だけ拾ったけど、ネットに繋いでいない不動産関係はお手上げ」
軽く両手をホールドアップしてみたが、既にコウの視線は書類に向けられている。まぁ、コウにノリは期待していない。
「で、こっちが今まで貢がせたであろう男の経歴。こっちももしかしたら抜けがある可能性はあるけど、まぁ、貢いだお金はお遊び代として納得している人の方が多そうな雰囲気かな。少なくとも久世さんを探した形跡は見つけられなかった」
どうやらコウにとって一番の興味はこれまでの男の遍歴だったらしく、その書類を手に取ると次々と捲っていく。
「……中々のメンバーだな」
「まぁ、財界有名人の二世狙いってところだね。ついでにこの書類が彼女と連絡を取り合っている相手。こっちは携帯からとった番号だから漏れもあると思う。でも、こっちも中々派手なメンバーだったよ」
そう言って持っていた最後の書類をテーブルに滑らせると、それを受け取ったコウは上から下まで眺めて目を細めた。
「……知ってる名前が幾つかあるな」
「マジか」
「うちのパーティーにも何人か入り込んでる」
「うわー、やっぱりそれなりに繋ぎがないとパーティーだって勝手には入れないもんなぁ」
少なくとも一般人の俺だと出入り口でお断りされるレベルのパーティーは数多く存在する。それでも中に入れるのはコウの名前、正確に言えばコウの祖父の名前が大きい。
「それで、当日彼女の様子はどうだった」
「んー、別に普通じゃない? ただ、本当に別れたかったのか微妙なレベルだけど」
「というと?」
「これは俺の勘だから確証はないんだけど、久世さんは敷島さんを侮っていたんじゃないかな。今回会ったけど、本当に人がよさそうなタイプなんだよ。まさに騙されちゃいそうなタイプ。で、それに全く気づいてなさそうなタイプっていうか……」
久世と恋人だった敷島だが、最後は本当に幸せを願うような切ない目で見ていた。俺が仕事として久世をエスコートしているなんて微塵も疑っている様子はなかった。
だから、色々な仕事をこなしてきたけど、敷島に対しては久しぶりに良心が咎めた。
「だから、敷島さんが実は親よりも金持ってるって知らなかったんじゃないかと思ってさ。実際、特許の話しとかしたら久世さん固まってたし」
「相手を調べもしないなんて随分馬鹿だな」
「まぁ、こうして男の遍歴見てると完全に二世狙いだから、そこに金の卵があるなんて考えなかったんだろうな」
久世は基本的に下に見た相手は侮る傾向が強く、俺に対しても随分脇が甘かった。勿論、嫌いなタイプじゃないから俺自身デレデレしてはいたけど、携帯を置いてテーブルを離れたりしていたのだから迂闊だ。
「で、その依頼主はこれで満足しそう?」
「あぁ、満足させるさ。元々ごり押ししてきたんだ。これ以上面倒見られるか。面倒くさい」
「まぁね。でも、タイミングよく久世さんもうちに飛び込んできたよね。コウが何かした訳?」
「別にこちらから何か動いた訳じゃない。ただの偶然だろ」
「ウン百億分の一くらいの偶然なんだけどね」
あっさりと偶然と言い放つコウに言い捨てれば、予想していなかったのかその顔がようやく書類から上がる。
「だってさ、都内にどれだけ何でも屋がいると思ってるんだよ。久世さんの家を考えれば、もっと近い場所に有名所の何でも屋だってあったんだからうちに来るのは不自然だろ。うちはチラシ配りしてる訳でもないし、広告を頼んでる訳でもない。ネットと月に一度の新聞しか名前出してないんだからさ」
「……そうだな。そこら辺についての調べは?」
「お手上げ」
両手を挙げてヒラヒラと振れば、コウは少し考える様子を見せる。
気づいたことは言及するが、基本的に分からないことはコウに丸投げしてしまう。残念ながら俺の頭ではここまで考えるのが精一杯なんだから仕方ない。
何か気づけばコウから調べ事を頼まれるだろうし、それで構わないと思っている。
そして、久世の不自然さに言及した途端、もう一つの不自然さに気づく。
「そういえば、俺がコウと一緒に仕事してるのって家族以外に誰が知ってる?」
「家族以外……一応、祖父には話しを通してある」
「いやいや、もっと外部の人間」
「誰にも言っていないが……調べられている可能性はあるだろうな。何かあったのか?」
僅かに身を乗り出してきたコウにヒラヒラと手を振ると、大したことはないを伝える。
「そんな大げさなことじゃない。この間、久世さんを同伴したパーティーでさ、お前の知り合いって人に声を掛けられた」
「……誰だ」
「新しいって書いてシンだって。新さんって知ってる?」
「それは名字か?」
「じゃないの? 普通他人に名を名乗る時に名前教える奴はいないだろう」
「そうだが……チャイナ系か?」
「いや、多分日本人だと思う。少なくとも日本語におかしなこともなかったし、顔立ちはいたって日本人だったと思う。やっぱり知り合いじゃないか」
デスクに置きっぱなしになっていたカップを手にすると、再び応接セットに戻り今度こそソファに腰を下ろした。
「どうしてそう思った」
「だって、お前の仕事の内容知ってたら幾ら知人だからって話し掛けてきたりしないだろ。仕事中かもしれないのに。まぁ、実際仕事中だった訳だし」
「何を聞かれた」
「別になにも。ただ、お前に宜しく言ってくれってさ。俺がお前が会社を立ち上げたことも、俺の名前も知ってた」
「どんな感じだ」
「年は四十から五十の間で、これといった特徴はないんだよな。身なりはかなりいい感じで、少し堀りが深い感じ」
思い出しつつ特徴を言ってみるが、言葉にするとどうにも特徴らしい特徴がない。だからと言って、誰に似ていると言える顔立ちでもない。
「少なくとも、パーティー参列者に新などという名前の人間はいなかった」
デスクから書類を持ってきたコウは並べられた書類の上に二枚の紙をのせる。そこに並ぶのはどうやらパーティーの出席者らしい。
「じゃあ、偽名の可能性もあるしこの名前全部照合してみるか? さすがに顔見たら分かるし」
「いや、ここに名前が載ってるのはあくまで招待された人間だけだ。トオルたちみたいに招待された人間に誘われた場合には名前が載っていない」
「まぁ、そうだよな。俺も入口で名前書いた訳じゃないし。よく考えれば、あの手のパーティーにしては随分杜撰だな」
「そうじゃないと裏社会の人間は入りこめないだろ」
「あー……」
どうやらああいうパーティーで裏取引がなされることがあると聞いてさすがにげんなりとした気分になる。
残念ながら一般人の俺としては財界やらお偉いさんの裏の裏を知りたい訳じゃない。
「んじゃ、誰かのお供って可能性が高い訳だ。一層、ホテルの監視カメラ映像に潜りこむか? 恐らくセキュリティー会社には映像が残ってると思うけど」
「やめとけ。仕事でもないことで足が着いても馬鹿らしい」
「気にしてる癖に」
「気にならないと言えば嘘になるが、向こうに目的があるなら再び接触してくるだろうしな。今は放っておけ」
確かにコウの言う通り、何かあった訳じゃない。ただ見知らぬ名前を名乗っただけで、何かをされた訳でもない。
「まぁ、でもちょっとビビったかな。まさかあの会場で名前を呼ばれることは考えてなかったからさ。絶対、笑顔引き攣ってたと思う」
「トオルの場合、笑っていれば全て隠れるから困った時ほどヘラヘラ笑ってろ」
「うわぁ、酷ぇ言い草」
「間違えてないだろう。とにかく、この書類を送って今回の仕事は終了だ。あとは向こうが勝手にするだろう」
パーティー招待客の書類以外をまとめたコウは、それをさっさとファイリングしていく。俺もソファに座っているのも何だからデスクに戻るとスケジュール帳を開いた。
「明日、朝から檜垣さんのところで恒例の草むしり。ついでに生け垣も剪定してくれってさ」
「他には?」
「昼過ぎから新規で遺品整理。あー、これはトラック必要になるな」
「なら手配しておけ」
「了解」
返事をしつつ横目でコウを見れば、ファイリングした書類を封筒に入れている。どうやら今日中に封筒を送るつもりらしい。
今回は思っていた以上にトントン拍子で進んだ仕事だったが、その調子のよさが腑に落ちない。
でも、既にコウには伝えたからコウが何かしら考えるだろう。そう考えると俺はモニターに再び視線を戻した。