学食でテーブルにつくと、学生である身分証明書のカードを取り出す。津守圭とフルネームの書かれたそれをテーブル上に翳せば、テーブルに文字が表示される。
メニュー一覧が表示されたテーブルから、人差し指できつねうどんを選べば、十秒ほどでスライドしたテーブルの中からきつねうどんが現れた。
添えられた箸を割ると、圭はポケットPC片手にうどんを食べ始める。できたての温かいうどんだが、既に半年前に作られたうどんと表示されている。
実際、この表示をどこまで信じていいのか分からないが、腹が壊れないのであれば圭にとってはどうでもいい。
「オイシイ? オイシイ?」
機械的音声で声を掛けてくるのは、圭の頭上を飛び回るグラビティだ。そんなグラビティに視線を向けて「美味しいよ」と声を掛けると、楽しそうにクスクスと笑う。でも、機械的な音声だからある意味不気味だ。
妹の雪は、せめて人工音声に切り替えて欲しいというけど、既に十年を越えるだけに、この声にも愛着がある。
グラビティはAIを乗せた機械だ。圭が五歳の誕生日、亡き父親が誕生日プレゼントとして渡してきたのがグラビティだ。
ただ貰った当時は、鉛色のボールでしかなかった。鉛色にも関わらず、柔らかな素材でできたグラビティは、今でもどんな素材でできているのか分からない。調べれば分かるのかもしれないが、圭は素材に興味はない。
その日の内に、父親と一緒になって浮遊チップをつけて、グラビティはふよふよと浮かぶようになった。その時に父親は追跡機能もつけたらしく、グラビティは圭の後を追いかけるようになっていた。
父親の死語、引越が多かったこともあり、グラビティはしばらく充電されず放置されていた。父親が亡くなったことも、子供心に痛手だったのかもしれない。
そんなグラビティが再び起動することになったのは、圭が十歳になってからだ。四つ離れた妹の雪ができた時、音声チップとカメラを入れた。
ついでに、雪のお気に入りであるピンクに塗り直し、パタパタと動く子どもが喜びそうな可愛らしい羽をつけた。
正直、妹になったばかりで緊張する雪の機嫌を取りたかっただけだが、それは成功したらしい。六歳になる雪は、当時大はしゃぎし、喜んでいたことを今でも覚えている。
雪が中学になる頃、雪の手によってグラビティはまん丸な目とニコニコの口をマジックが描かれた。結局、その顔は消されることなく、圭が大学生になる今に至る。
可愛らしい見た目なので女性受けは悪くない。ただ、男の圭が連れているには微妙だ。だが、大学にいれば、そんなペットじみたものを連れている人間は多い。特に圭がいる学部には、ほとんどの人間が何かしら連れて歩いている。
グラビティも例に漏れず、すっかり構内では馴染んでしまい、グラビティと圭をセットだと思われている。
いや、実際には圭とグラビティ、そしてもう一人がセットだと思われている。
「圭、ここにいたのか」
うどんをすすった状態で箸を止め、正面に立つ男を見上げる。そこにいるのは、長い付き合いがある五十嵐鋭司だ。
この鋭司と圭とグラビティ、大学内ではこれでセットと思われている節がある。だから、鋭司が居ない時には圭に声が掛かるし、圭が見つからない時には鋭司を探せと言われているらしい。
実際、教授に鋭司の居場所を聞かれたこともあるので、教授たちにも浸透しているのかもしれない。
とはいっても、大学では学部が違うのだから、それほど多くの時間一緒にいる訳ではない。けれども、休み時間になる度、こうして顔を合わせているのだから、他人から見れば一セットと思われても仕方ないところはある。
圭は二十歳、鋭司は十八歳。けれども、鋭司は高校をスキップしているために、大学では同じ学年だ。
「エイジガキタヨ、エイジガキタヨ」
圭の上でフワフワと飛んでいたグラビティが、今度は鋭司の上でぐるぐると回る。けれども、鋭司は気にした様子もなく圭の正面へと腰掛けた。
「こんな時間に珍しいな」
「んー、寝坊しちゃってさ」
「何かしてたのか?」
「ちょっとデータ収集に。前期試験用のアンドロイドがまだ仕上がってなくて、どうしようかなと思って」
「圭なら簡単だろ」
「どうせなら高い点貰っておきたいから、意外性あるものが作りたかったんだよね。家事用アンドロイドなんて作っても今さらだし、子守りとかそういうのもありきたりだしさ」
それに対して鋭司からの答えはない。圭も余り答えを期待していた訳じゃないから、再びうどんに口をつける。
目に前に座る鋭司は、コーヒーを頼み難しい顔で中空を見ている。この難しい顔で周りを敬遠させているが、鋭司と付き合いの長い圭にとって、これが普段の鋭司だ。
中空を睨んでいるように見える鋭司だが、ポケットPCから表示されているモニターを見ているだけだ。けれども、モニターをオープンにされていないと何もない所を見ているように見える。しかも難しい顔だから周りが誰も声を掛けない。
実際、共通の知り合いであるアナウンサーサークルの子たちが鋭司の背後を通っても、圭には手を振ったりしてくれるが、鋭司にはチラリと視線を向けただけだ。
対する鋭司も気にした様子がないから、周りにいる人たちの存在自体、全く気にしていないのかもしれない。
感情が表に現れることは少なく、基本的に言葉も少ない。それでも言葉に行き違いがないのは、単純にお互いの性格が分かっていることと、周りが寡黙な鋭司になれてしまったからだ。
短くカットされた黒髪を軽く分け、眼鏡を掛けた鋭司は、表情だけでなく視線の鋭さもあって、近くに寄ってくる人間が少ない。
そして着ているものは、いつでも堅苦しいスーツと決まっている。
ただ、鋭司の兄である遼も、大学へ入ってからはスーツ姿しか見たことがなかった。なので、親から厳命されているのかもしれない。
親が政治家のお偉いさんっていうのも大変そうだよな。窮屈そうで。
そんなことを思ってしまうのは、鋭司が品行方正から外れたことがないからだ。
それでも、昔は圭や雪と一緒になって、ささやかな悪戯程度のことはしていた。でも中学に上がってきた時には、すでに今と余り変わらなかったように思う。
大人びた顔立ちとスマートな動作。それだけで鋭司は実年齢よりも五歳は上に見える。
対する圭は、生まれつき色素の薄い茶色の髪を、整えることもしない。寝癖がついていても跳ねたままだし、直そうという気もない。何よりも悲しいことに、圭は童顔だった。それこそ、妹の雪と同じくらいの年齢に見られることも少なくない。
着ている服は大抵Tシャツにジーンズという格好だ。今日はパーカーを着ているが、この格好には理由がある。
圭の学部は機械工学部なので、何かと物を作ることが多い。油で汚れることも多いので、機械工学部の人間はラフな服装をする者が多い。
そんな二人だから、大抵の場合、二人並んでいると鋭司の方が年上に見える。実際、鋭司の方が落ち着いて見えるし、圭の童顔もあって仕方ないことなのかもしれない。
「引越」
ぼそりと言った鋭司の言葉に、圭は食べ終わったばかりの箸を置いた。
「鋭司?」
「引越アンドロイドというのはどうだ。荷造りして、引越先に自動で運ぶ。ついでに荷ほどきまでしてくれたら、こんな楽なことはない」
言われてみれば、確かにそれはいいアイデアかもしれない。圭は子どもの頃、母親と共に随分と転々としてきた。転々とするから荷物は少なかったものの、引越というのは大変なものだった。
今現在、引越をしようと思えば、荷造り用アンドロイド、運搬ロボット、そして輸送ロボットと三機必要になる。新居に入れば今度は片付け用アンドロイドが必要になるから、引越は業者に頼めばかなり高額になる。
それを考えれば引越を一手に引き受けてくれる引越アンドロイドは、かなり楽かもしれない。上手くいけば企業にも売り込めるし、特許をまた一つ増やすチャンスだ。
「そのアイデア、貰っていいか?」
「別に構わない。こちらからも、一つお願いがある」
「なに?」
問い掛けながらも、思考は思いついたアイデアをポケットPCへ流し込むことに集中していた。
けれども、見つめていたモニターに鋭司から送られてきたメールが表示される。
開いて中身を見れば、そこに書かれていたのはたった一行だ。
『大学内の不正入試を曝くから、調べろ』
「……おい、マジか」
「本気だ。うちで取り上げる」
「取り上げるって、誰がだ。アナウンサーサークルの子たちに原稿作って読ませるのか? こんな危ない内容を?」
つい圭が言い募ってしまうのは、前に大学構内でまかり取っていた教授による生徒へのセクハラ情報をニュースとしてテレビで流した時のことを思い出したからだ。
あの時はまだ人工音声を使っておらず、そのニュースを読み上げたのは圭だった。圭の姿がテレビに映ることはなかったが、構内で話題になったこともあり、圭はすぐに特定されてしまった。
そして逆恨みの事件が起きた。
あれ以来、根深い事件を扱う時には人工音声を使うようにしていた。勿論、逆恨みがない訳ではなかったが、あの時のような大事にはなっていない。
ただ、前回事件を流した時と状況は変化している。今現在、テレビ局として契約している中にアナウンサーサークルというものがある。大学内のサークルだが、レベルは高く、卒業後にキャスターとなった人もいる。
前の事件を思えば、彼女たちに危険なことはさせられない。あくまで彼女たちが放送しているのは、地域に密着した些細なニュースばかりで、自分たちのように危険を顧みない程の覚悟はない。
だからこそ、鋭司に向ける圭の視線は咎めるようなものになってしまう。
けれども、その辺りのことは鋭司にも織り込み済みだったらしい。
「いや、今回も人工音声に読ませる。そして調べるのは圭だ」
「……分かったけど、そんなことして大学の在籍、保証してくれるんだろうな」
「その話しをつけるのは俺の役目だ」
言い切るところをみると、既に大学の理事長辺りとは話しがついているのかもしれない。むしろ、理事長辺りの依頼、ということもあるのかもしれない。
色々あって、今、鋭司と圭は共同出資でテレビ局を一つ開設している。基本的には、大学内で活動しているサークルに時間幾らで貸し出している。
最初の時点で声を掛けたが、思っていたよりも番組は集まった。アニメや音楽紹介番組、料理や茶道、華道、予想以上のラインナップが集まった。
そこから更に加熱したのは、例のセクハラ事件を放送してからだ。
視聴率は上がり、大学内で見ている人間も増えていった。それに伴って、さらにサークルが番組契約をしてくれて、今は朝の八時から夜の八時までの十二時間は放送できるようになった。
今現在、テレビというものは娯楽の一つでしかない。情報は全てポケットPCでまかなえる。だから、情報が垂れ流しとなるテレビが見られることは少ない。
昔は情報ツールとしてテレビが利用されていたらしい。だが、今は電波法も改正され、テレビ局だけでも千局近くある。それこそ、誰でも電波使用料さえ払えばテレビ局を開設できる状況だ。
圭自身、テレビは余り見ない。それこそ、自分たちの局を監視するために見る程度で、他の局は見ない。
正直いえば、テレビを見ているよりも心惹かれるものは沢山あるし、企業の提供する番組を見ても何も面白みがない。
中には企業として徹しているものもあり、通販番組というものはそのもっともたる番組だと思う。
その他にも企業としてコマーシャル代わりに利用しているところも多いが、実際その企業を調べたければ、絶対的にPCの方が便利だ。
報道機関は今現在、ほぼネットに移行している。昔は情報ツールだったテレビで扱われていたらしいが、テレビ局というのは営利企業であってボランティアではない。
そのことから、スポンサーの意向などで偏向報道が多く見られるようになった。そのため視聴者からそっぽを向かれ、偏向報道が少ないネットに移行していった。
インターネットを使えば通信料を払うだけで配信することができる。けれども、テレビ局を維持するには、それなりのお金を払わなければならない。
実際、ネットで偏向報道がない訳ではない。けれども、真実を伝える、ということに重点を置くネットニュースも多くあり、そういうニュースは支持される。
けれども、それによってスポンサーがつき、スポンサーと戦うことになる。取り上げて欲しくない内容をニュースとしてネットに上げれば、スポンサーにそっぽを向かれることは少なくない。
潤沢な資金があるところは問題ないが、スポンサー同士で横の繋がりもあり、一斉にスポンサーに降板されてしまい潰れるニュースサイトも多い。
基本的に報道機関というものは、物事一つ取材に行くにもお金が掛かる。そこを安く上げるためにはどこを削るか。そう考えた時、多くの企業はネットへ流れてしまった。
それにも関わらず、既に放送機関としては廃れたテレビで、鋭司はニュースをやりたいと圭を誘ってきた。
正直、話しを聞いた時には唖然としたものだが、圭自身、面白そうだから話しに乗った。けれども、鋭司と圭がテレビ局を開設したことを誰よりも喜んだのは、妹である雪だ。
元々、身寄りのなかった雪は、圭の家に引き取られるまでポケットPCすら持ったことがなかった。娯楽性の強いテレビなど、雪にとってはもってのほかだったらしい。
実際、テレビはカードタイプなら二千円も出せば買える代物だ。PCモニターのように表示することもできるし、壁に大きく映し出して共有することも可能だ。
価格を考えると、雪の生活は決して楽なものではなかったに違いない。それこそ、二千円なら少し貯めれば子どもの小遣いでも買えるものだ。
初めて圭が雪にテレビを見せた時、雪は驚いた顔でテレビを見ていた。そして、会う度に圭や鋭司がテレビを見せれば、とても楽しそうにテレビを見ていた。
今でも雪にとって、テレビというものは大切なものらしい。何度か雪からそんな話しを聞いていた。それは一緒にいた鋭司も聞いていたに違いない。
もしかしたら、鋭司はそんな雪のためにテレビ局を開設したのかもしれない。
そう思ってしまうのは、鋭司と雪が付き合うようになればいい、と思っているからだ。雪は昔から鋭司が好きだと公言して憚らない。そんな雪に対する兄馬鹿精神の上に成り立った思考だ。
雪が鋭司に惚れているのは出会った最初の頃からだった。だが、鋭司の方に恋愛感情は微かにも見えない。それでも救いなのは、鋭司の中で一応、雪が守るべき者として認識されているらしいことだ。
「圭、どうする」
「やるよ。別に調べるのは訳ないし」
そう答えた圭の頭上では、ご機嫌な機械音声でグラビティが「ヤルヨ、ヤルヨ」と繰り返している。何だか間抜けな光景だが、圭と鋭司は至って真面目だ。
「そうか」
鋭司の言葉と同時にPCに送られてきたのは、七人の名前だった。その中には圭でも知っている名前が二人ほどいる。
「関係者リスト」
「関係者って……もしかして、この人たちが」
「そうだ。洗い出し頼む」
「了解。んじゃ、今日からあっちに詰めてるから」
「講義はどうした」
「今日はあと四コマ目だったんだけど、さき休講になる連絡きた。だから、今日はこれで帰るよ」
「後から俺も行く」
既に目の前にあるうどんの器はテーブルの中に片付けられてしまって、テーブル上には何もない。少し汁が跳ねてしまった部分は、台ふきんタイプの機械が綺麗に拭き取ってある。
だから、圭はポケットPC片手に食堂を後にした。
その足で大学を出ると、向かうさきはテレビ局として登録してあるアンダーグラウンドだ。大学を出たすぐにある地階行きエレベーターに多くの人たちと共に乗り込む。
急激な重力を感じることはないが、もの凄い早さでアンダーグラウンドに降りている。その証拠に圭の耳が微かに痛む。
アンダーグラウンドは、歴史から見ると百年ほど前、増えすぎた人口を分散させるために作られた場所だ。地上に対して地階ともいえるアンダーグラウンドには、太陽は届かない。
植物は適度に栽培されているが、酸素を補えるほどの量はない。そのため、地上に比べて若干酸素が薄い。
昔、母親と共に一度だけアンダーグラウンドに住んだことがある。けれども、圭に頭痛と食欲不振、立ちくらみなどの症状が出たため、その生活は一ヶ月ほどで幕を閉じた。
それ以来、アンダーグラウンドには余り立ち入ったことがない。それこそ、鋭司がテレビ局を開設するようになってから、ようやく足を運ぶようになったくらいだ。
あとから聞いた話しだと、鋭司がテレビ局として登録するのにアンダーグラウンドを選んだことに、親からかなり反発があったらしい。
それはそうだろう。アンダーグラウンドは太陽が届かないこともあり、どこか薄暗く地価が安い。地価が安いということは、治安もそれなりということで、親とは随分やりあった様子だ。
けれども、鋭司の兄である遼が鋭司についたため、どうにか地価の安いアンダーグラウンドに住所を持つことができた。
勿論、地上で住所を持つことも可能であったが、それは財政的に厳しい。それほど地上とアンダーグラウンドでは地価が違う。同じ場所でも、上と下では五十倍ほど価格が違う。
幾ら鋭司と圭に株の配当やら、特許使用料があると言っても、毎月の電波使用量やら、年に一度くる税金、それら支出を考えると、事務所は安くすんだ方がいい。
エレベーターがアンダーグラウンドに到着すると、人波に揉まれながらエレベーターを降りる。軽い頭痛を覚えつつ圭は事務所に向かって歩き出した。
大学前の地階エレベーターから徒歩五分。そこがテレビ局、チャンネル307(スリー・オー・セブン)の届け出住所であり、事務所兼スタジオだ。
平屋建ての建物は、一見住宅のように見える。だが、ここは鋭司と圭の共同出資で作り上げたテレビ局だ。屋根に発信用アンテナもついているのだが、小さなものだから見た目からはテレビ局とは思えない。
昔はテレビ局というと、大きなアンテナがゴテゴテとついていたらしいが、今は拡散アンテナがあるので、大きなアンテナは必要としない。
実際、テレビ局とはいっても、スタジオ施設はまだ作っていない。キャスターがいないのにスタジオを作っても意味がない、というのが圭と鋭司の同一見解だ。
扉の横にあるディスプレイに近づけば、すぐに網膜スキャンが始まる。一秒と待たずにカチリと鍵の開く音がして、圭は扉の取っ手に指を絡ませる。
それと同時に指紋認証されもう一つの鍵が開く。二つの鍵が施されているが、今、ほとんどの家や事務所はこのタイプの鍵だ。
中に入ればまっすぐに廊下があり、両サイドには全てで六つの扉がある。その一つに宿泊用ベッドなども運び込まれているが、実際に圭が使ったのは一度だけだ。
そのまま歩いて一番正面の扉に手を掛けると、そこでも指紋認証が行われ鍵が開く。扉を開ければ、笑顔で振り返る雪がいた。そして目が合った途端、あからさまにがっかりとした顔をする妹の雪がいた。
「なぁんだ、圭ちゃんか」
ため息混じり呟いた雪は、少し乱暴にソファへと座り込む。そこまでがっかりされると、さすがに圭としても面白くない。
「悪かったな、僕で」
「鋭司くんだと思ったのに」
「あいつはまだ講義が残ってるよ」
「タダイマ、タダイマ」
圭と雪の頭上を飛び回るグラビティに、雪は「グラちゃん、おかえりなさい」と声を掛けている。雪が手を差し出せば、グラビティは雪の腕の中に収まった。
会話をしながらも、圭は着ていたパーカーを脱ぐと雪が座っていたソファへ放り投げた。
「もう、圭ちゃん、きちんとロッカーに片付けてよ」
「別にいいだろ、そこに置いても邪魔じゃないし。雪、悪いけどコーヒーお願い」
「はーい」
文句を言いつつも返事した雪は、圭が放置したパーカーをコートハンガーに掛けると、隣のキッチンに姿を消した。
正直、片付けることが苦手な圭は、大抵この細やかな妹に敵わない。四つ離れた雪は十六歳で、今は高校に通う。しばらく夏休みということもあり、ここで掃除をしていたらしい。
圭の妹、ということではあるが、実際、雪との間に血のつながりはない。お互いに兄と妹、それ以上の感情は芽生えないし、芽生える気配すらない。
圭の中では雪は既に守るべき妹と認識されているから、母親と雪と圭の三人暮らしは何事も問題なく続いていた。
ソファに座り込んだ圭は、早速テーブル下からPCを取り出す。PCは人の好みによって大きさが違う。圭がここに持ち込んでいるPCは、薄型でキーボードタイプのものだ。
鋭司はアナログな物だと呆れた様子だったが、圭にとって慣れ親しんだ物だから使い込み易い。何よりも、細かな作業をする時にはアナログが一番使い勝手がいい。
脳内にある埋め込みチップから神経網を通って、指先経由で思考が伝わるポケットPCタイプの物も、持ち運びに特化しているので嫌いではない。
何よりも考えるだけでPCに記録が残るのだから、こんなに楽なことはない。
ただ、集中している時に話し掛けられたり、驚いたりすると、誤作動するのが難点だ。失敗が許されない、そんな時はアナログに頼ることが多々ある。
実際、圭のいる学部ではアナログPCを持っている者が大半だ。
電源を入れると、微かな稼働音と共にPCが動き出す。キーボード横にある小さな窓に指を乗せれば、指紋認証されて中空にモニターが浮かび上がる。
でも、実際に浮かび上がっている訳ではなく、脳内チップで作り出される映像でしかない。だから、他人から見ることはできない。
勿論、脳内チップとPCのリンク回線をオープンにすれば他人から見ることもできる。そして、リンク回線をハッキングすればモニターを見ることができる。
でも、ハッキングするにはファイアーウォールが強固なもので、簡単にできるものではない。下手にハッキングすれば、相手の脳内にあるチップを壊すことになる。
別に脳内チップを壊したからといって死ぬ訳ではない。ただ、この世界に多くあるリンク機能が使えず、不便になるだけだ。
実際、アンダーグラウンドに住む人たちの中にはチップを埋め込まない人もいるらしい。一応、法でチップの埋め込みは強制されているのだが、アンダーグラウンドにおいては法に見逃されている人たちも多い。
だからこそ、治安が悪いと思うのだが、ここまでくれば卵がさきか鶏がさきか、という理論になるのかもしれない。
「はい、コーヒー」
そう言って雪から渡されたコーヒーをお礼とともに受け取ると、圭はモニターから雪へと視線を移す。
「今日は帰っていいよ」
「何でよ」
「これから仕事」
実際、ここで雑務は雪が担当している。放っておけば男二人、足の踏み場がなくなるのは目に見えている。それでも、そうならずにいるのは雪の功績だ。
けれども、雪には実務に関わらせることはしない。それは鋭司との間にある暗黙の了承だ。
別に雪を信頼していない訳ではない。ただ、年齢的に雪の耳には入れたくない会話が交わされることもあるからだ。
別に今回のような不正入試程度のものであれば、雪の耳に入ろうと問題ない。けれども、どちらとも取れないような仕事の時には、判断に迷う。迷うことをするくらいであれば、最初から耳に入れない、というのが圭と鋭司が出した結論だった。
元々、寡黙なタイプの鋭司は無駄なことを話さない。だから、実際に雪の対応に追われるのは圭だ。圭の妹なのだから、圭が対応するのは当たり前だ。だから、鋭司に文句を言える筋ではない。
「ねぇ、あたしもう十六になったんだけど」
「でも、ダメなものはダメ。余り我が儘言うと鋭司と相談して出入り禁止にするよ」
「……圭ちゃんのケチ! カップくらい洗っておいてよね!」
それだけ言うと、雪はエプロンをロッカーに投げつけるようにして片付けると、足音高らかに部屋を出て行こうとする。
「グラビティ、雪と一緒に帰れ」
「リョウカイデス、リョウカイデス」
それだけ言うと、圭の上をふよふよと飛んでいたグラビティは雪の上へと移動する。念のためにグラビティには警報装置と、通信装置が組み込まれている。
ついている人間に状態異常があれば、ただに警察へ連絡し状況音声を繋げる。そしてどういう危険が迫っているのか、メッセージを送るようにプログラムしている。
「別にいいよ。まだ昼間だし」
「一応、雪も女の子だし念のためだよ」
「女の子なんて思ったことない癖に!」
尖った口調でそれだけ言うと、振り返った雪は盛大なあっかんべーをしてからグラビティと一緒に部屋を出て行った。
勿論、出て行く際に閉めた扉はかなり派手な音を立てていたが、圭は小さく肩を竦めるだけだ。
しばらくすると、事務所の扉を開閉した時に鳴る電子音が部屋にピピッと小さく響く。どうやら言われた通り、雪は素直に帰ったらしい。
口をつけていたカップをテーブルに置くと、圭は改めてモニターへと向き直る。キーボードを叩いていくつかのウインドを開いていく。
雪を部屋から追い出したのは、実際に仕事があるからそこに嘘はない。ただ、ハッキングを行う圭自身を見せたくないという、圭の我が儘もあった。
鋭司から受け取った名前は全部で七名。その名前を大学名簿から探しだし、IDをメモすると、そのIDで学生が使った端末情報を呼び出す。
その時点で、鋭司にのみモニター回線をオープンにし、鋭司の使うポケットPCに表示させるようにした。恐らく鋭司は講義中だろうけど、恐らく状況を見ているに違いない。
鋭司は基本的に思考がマルチタスク、二つや三つのことを同時に考えられるタイプの人間だ。だから、仕事に関するハッキングについては、鋭司にも状況を送ることにしている。
何をしているのか詳しいことまでは分からないだろうが、オープンされた情報から鋭司も必要な情報を頭の片隅にメモするに違いない。
今度はそれぞれの学生が使った端末に入り込み、ログを漁る。学生IDの次に入力されたキーを探し出せば、IDに付随したパスも分かる。
そこまで分かれば、今度は学生が使った端末経由で、学生の履歴を全てモニター上に表示させた。
そこには誕生日から現在の連絡先、保護者の連絡先、そして学歴などを見ることができる。
まず圭が確認したのは、両親の職業や就職先だ。それを七人分全てチェックすると、一旦端末から経由ログを消して回線を切断した。
端末のログは残るが、大学は端末ログに関してはかなりアバウトだから、気にする必要はない。
続いて海外から中継しながら、先ほどメモした企業内にネット回線から進入する。大手企業になればなるほど、セキュリティーは強固なものになる。
企業セキュリティーに比べたら、国のセキュリティーなんて紙っぺらの如く薄い。本当にそれで大丈夫なのかと思うが、既に脳内チップを入れてID管理されている自分たちに選択肢はない。
いいところ、圭たちができるのは国の税金支払いなどに金融系のカードを使わないことぐらいだ。
企業セキュリティーの網を抜け、それぞれ両親の役職や給与、必要事項をコピーして次々と回線を閉じていく。勿論、企業からも経由地からもログを消すことは忘れない。
七名分の両親情報を引き出した圭は、そこまでの作業を終えるとようやく一息ついた。
もしかしたら、祖父母のデータも必要になるかもしれない。けれども、今現在、調べ上げた両親のデータを精査することが圭にとっての仕事でもあった。