諦めた甘い恋

隣の家に住む知哉と私は幼なじみだ。八歳違いを幼なじみと言っていいのかはよく分からない。私が物心ついた時から、知哉は落ち着いていて、頭が良かった。だからといってスポーツもそれなりにこなすし、よく女の子と歩いている姿も見掛けた。勿論、家が隣だから女の子が知哉の家に出入りしているところも見掛けた。
お隣の格好好いお兄ちゃんから、恋になったのはいつのことか自分でもよく分からない。ただ、高校生の時に見掛けた知哉の彼女に嫉妬したことで、ようやく自分の恋に気づいた。
高校受験の時には無理を言って勉強を見て貰らい、大学受験の時にも宜しくなんて軽く言い、知哉は笑いながら了承してくれた。けれども、高校入学と共に知哉は家を出て一人暮らしを初めてしまい、それからしばらく会うことはなかった。それでも、知哉は約束を忘れることはなく、高校三年になると私の家に現れて家庭教師いるのか? と聞かれ、二つ返事で頷いた。

「ねぇ、髪切らないの?」
勉強の合間に取った休憩時間、何気なく聞いたのはすっかり視線が隠れるくらいまで伸びきった知哉の前髪が気になったからだ。でも、見ていた参考書から顔を上げると前髪を軽く掻き上げた。指の隙間からサラサラと流れ落ちる髪が細くて綺麗で、つい見とれてしまう。
「切りに行く暇がないだけだ。そのプリントは終わったのか?」
「あと一問」
「早くやれ」
その言葉で慌ててプリントに視線を落とすと、問題を読み込む。知哉が見てくれるようになってから、成績はうなぎ登りで親はもの凄く知哉に感謝している。勿論、私自身も成績が上がって嬉しい。でも、ここ最近の知哉は少しだけ疲れているようにも見える。
最後の問題を解き終えて知哉にプリントを渡すと、一旦立ち上がって机の引き出しにある小箱を開けた。和紙の貼られた小箱は、知哉が中学の修学旅行で行った京都のおみやげだ。おみやげを買ってきてくれたのは、後にもさきにもこの一度だけで、今でも大切に使っている。とはいっても、最近は勉強中の息抜き用の飴玉入れになっている。
その中から飴を一つ取り出すと、採点していた知哉の手元に一つ落とした。採点中だったこともあり、眉根を寄せてからカラフルな包装紙にくるまれた飴玉を指先で摘む。私からしたらそれなりの大きさの飴玉だというのに、知哉が持つと小さい飴玉に見えるから不思議だ。
「何だこれは」
「疲れてるみたいだからお裾分け」
「……余り甘いものは好きじゃない」
そう言いながらも知哉は包装紙を剥がすと、爪先まできれに整った指先でミルク色の飴を摘む。しばらくその飴を眺めていたけど、小さく溜息をついた知哉は持っていた飴を口に入れた。
甘いものが好きじゃないことは知ってる。でも、甘さは疲れにいいと聞いたことがあるから、ミント系の飴をよけてミルク味を選んだ。
そして、好きじゃないと言いつつ食べてくれる優しさはちょっと嬉しい。もしかしたら、本当に疲れているから食べただけかもしれないから、余計な期待はしない。だって、下手に期待して傷つくのは自分で、やっぱり自分が可愛いから傷つきたくない。だったら、期待しないという方向で防ぐしかない。
「ガキが気を遣うな」
「もうガキって言われる年齢じゃないんだけど」
「否定するところがガキだっての」
そう言われると返す言葉も無くて、ムッと口を噤めば笑われた。でも、その顔が楽しそうで、しかも左頬に飴玉を入れているのか、その部分だけがプクッと膨れているのがちょっと可愛くて、何だか笑ってしまう。八歳も年上の知哉に可愛いというのは変かもしれないけど、時々、そういう可愛いことをする。いや、もしかしたら惚れた欲目で可愛く見えるだけなのかもしれない、と思わなくもない。
いや、それ以前に二十六にもなる男を捕まえて可愛い、というのは色々な意味で間違えているのか?
そんなことを考えていれば、採点の終わった知哉が頭の上にプリントをのせてきて、二度、三度と軽くはたく。
「間違えてたぞ。お前は何で最初の五問は必ず間違えるんだ」
「緊張するのかなぁ。いつも最初の五問、必ず間違えるんだよね」
「注意力が足りないだけだろ、馬鹿。まぁ、最初の問題なんて大抵点数が低いからいいけど、受験の時にやったら人生変わるぞ」
「はーい」
間延びした返事をすれば、知哉は呆れた顔を隠さずに私を見てから赤ペンを筆箱にしまった。赤い布タイプの筆箱は、知哉が高校生の時から使っている。基本的に物持ちは良く見えるのに、女性に対する扱いだけが長続きしないのはどういう訳なんだか。
「さてと、今日の分は終わりだ。明日から期末テストなんだろ。ちっとは根性見せろ」
「まぁ、それなりに頑張るよ。あぁ、でも、成績良かったら何かプレゼントが欲しいなぁ」
上目遣いに言えば、もの凄く嫌そうな顔をした知哉がいる。そして、片付けようとして手にしていた筆箱で額を軽く小突かれた。
「勉強はお前自身のためだろ」
「それはそうかもしれないけどさぁ、でも、勉強が本当に自分のためになるかなんて今すぐ分かるもんじゃないし、ご褒美頂戴」
「お前なぁ……俺が教えてる教科九十点以上だったら一つだけ願い事聞いてやる。でも、高いのは無理だぞ」
「やったー! さすが、話が分かる~」
「まぁ、実際に取れるかどうか分からんがな。さてと、俺は帰るぞ」
そのまま鞄に荷物を詰め込んだ知哉は立ち上がり、私も同じように立ち上がる。部屋を出てまっすぐ玄関に向かう知哉を見送るために、玄関先に立つ。
「今日はお母さんの夕飯がなくて残念でした」
「そうだな、おばさんのご飯は美味しいから」
「隣には寄っていかないの?」
「寄らないよ。どうせいないからな。でも、せめておばさんがいないなら、私が作ってごちそうするくらい言ってみろよ。大学入ったら一人暮らしだろ」
「あー……まぁ、正直、下宿とかも考えてる。じゃないと生活できないし。でも、いざとなればコンビニ弁当とか何でもあるから余り心配はしてないかな。確かに知哉に夕飯の一つも作れないのは情けないけどさ」
肩を竦めて見せれば、呆れた顔をした知哉に見下ろされてしまい、情けなく笑うしかない。実際、できないものはできないから仕方ないし、作れたとしてもコンビニの弁当の方がはるかに美味しいご飯なんて知哉に食べさせる訳にもいかない。
「情けないのは確かだな。お前の場合、ただ単に抜けてて危ないからおばさんもキッチン使わせたくなんだろ」
「酷いなぁ。まぁ、当たらずとも遠からずだから文句も言えないし」
「テスト問題と一緒だ。最初に集中力が足りないんだよ」
「そうなの?」
よく分からずに問い掛ければ、それに返事はしなかったけど、知哉は小さく笑みを浮かべた。
「テストの結果楽しみにしてるぞ」
軽く頭を小突くと手を上げて知哉は玄関の扉から出て行ってしまう。隙間から見えなくなるまで知哉の背中を見送ったあと、自分の部屋に戻ってベッドに腰掛けた。
今回九十点以上取れば一つおねだりができる。こうして甘やかされるのは嬉しくて仕方ない。もしかしたら、それだけ子ども扱いされているのかもしれないけど、それでも、知哉から何かを貰えるというのは本当に嬉しい。
あの店にあったミニスカートも気になるし、ピアスも気になる。そういえば、最近出た薄手のコートも凄く気になるし、ブーツだって欲しい。
でも、一緒に買い物に行くのは嫌がられるかもしれない。前に聞いた時、知哉の恋人は二駅先に住んでいるようなことを言っていた。欲しい物が沢山あるのもファッションビルが建ち並ぶ二駅先で、一緒にいる時に彼女に会うかもしれない。それを考えたら一緒に歩くのは断られるかもしれない。
それ以前に、もし彼女と会って、従姉妹だと紹介されて笑っていられる自信もない。そんな状況、想像しただけでも胸が痛いのに、もし現実に起きたらしばらくは再起不能になる。
一層のこと、もっと遠くまで買い物に付き合わせてしまうことも考えた。でも、知哉なら二駅先で全てを済まそうとするに違いない。
どちらにしても、結局は明日からの期末テストの結果によってだ。確かに教えて貰っている数学や英語や化学は九十点以上取れたとしても、古典や現文が悪ければお願いは聞いて貰えないに違いない。
だからこそ、約束した数学や英語ばかりでなく、試験のある全ての科目をできるかぎり終えて期末テストを終えた。そして、試験から一週間後、テストは返ってきて、家庭教師に来た知哉の前にずらりと並べる。
「見て、完璧だと思わない?」
「……完璧ってのは百点取ってから言え。まぁ、でも、頑張ったんじゃないの」
どの科目も八十点を切ることはなく、教えて貰っているものについてはばっちり九十点以上。どうだ見たか! という気持ちだったけれども、余りにも嬉しそうに知哉が笑うから、一人張り合っているのが馬鹿らしくなってきた。
「約束だし、多佳子は何が欲しいんだ」
今日、テストを返して貰ってからずっとどうしようかと悩んでいた。だから、どうしようか悩んだ末に出した結論は一つ。
「デートして」
「…………あぁ?」
「だからデートしてって言ってるの。前に付き合ってた彼氏に、お前とデートしてもつまらないって振られたから」
「お前、それは相手が悪かったんだろ。大抵、男がリードしてなんぼだろ」
「でも、女がリードしてもおかしくはないでしょ?」
「どうだろうな。男のプライドの高さにもよるんじゃねぇのか。どうせ彼氏作るなら開いて選べ」
けんもほろろ、完全に断りモードだけど、ここで引く訳にはいかない。知哉に彼女がいることは知ってるけど、子供をたてにしてデートできるのは今しかない。多分、大学生になればこんなこと聞き入れて貰えない。
「いいじゃん、実験。結局、普通のデートってできなかったんだし」
「普通ねぇ……何をもって普通って言うんだか分からんけどな。まぁ、次の彼氏に期待しろ」
「だって、約束したじゃん」
こういう時は強気で押す。とにかく押す。そしたら、絶対に知哉が引いてくれることは知ってる。
そして案の定、知哉は大きく溜息をつくと呆れた顔のまま視線を向けてきた。別にここまできたら、呆れられるくらい何でもない。
「彼氏とデートした方が楽しいと思うぞ。失敗もいい思い出になる」
「……知哉はそういう思い出があるんだ」
「まぁ、無いとは言わないな。失敗の連続だって、何年かすれば楽しい思い出になるもんだ」
「でも、私は今知りたい。それに受験でもう彼氏作るところじゃないし、ちょっとした疑似体験くらい楽しませてくれたっていいじゃん。それに、次の彼氏は絶対に私がリード握ってやる! という訳で実験にお付き合い宜しく」
呆れた顔のままマジマジと知哉が見ているけど、そこで表情を変えることはない。ただ、純粋に興味あるだけのふりをして知哉を見ていれば、やっぱり溜息をついた。
「分かった。車でいいか?」
「やった! 車デートって大人みたい」
「何が悲しくてガキとデートごっこしないといけないんだ」
「いいでしょ! どんなデートになるのかもの凄く楽しみ」
ヘラヘラと笑う私に、渋い顔をした知哉は筆箱から取り出したシャーペンでテスト用紙をコンコンと二回つついた。
「とりあえず、勉強するぞ。俺も休みが不定期だから後でメールする」
「はーい」
子供っぽく警戒されないように間延びした返事をしながら、シャーペンを手にした。
もの凄く浮かれてる自分がいるけど、そんな顔は絶対に知哉には見せない。ただ、興味津々という顔だけ見せて、そのまま勉強に集中するべくプリントに視線を落とした。

* * *

メールがくるよりも先に家庭教師の時間がきて、その時に二週間後に家まで迎えに来ると知哉は約束してくれた。もう、そこからは毎日クローゼットと睨めっこの日々。その日はデートでこれを着ようと思っても、翌日にはやっぱりこっちと全然落ち着かない。
何よりも緊張したのは家庭教師をして貰っている時間で、にやけないように、うきうきしないように、気持ちを抑えるのが本当に大変だった。でも、一週間が過ぎ、二週間が過ぎ、約束の日になると前日は遠足前の子どもみたいに眠れない。これが本当に子どもみたいで、もの凄く恥ずかしかった。
朝九時には家に来るという約束だったので、六時には起きてお風呂に入り、用意されていた朝ご飯も食べて、それからやっぱり着ていく服で悩む。二着も三着も着てはダメ出しをして、しばらく悩んだ末に決めたのはノースリーブのシンプルワンピースに決めた。
既にその時点で八時を回っていて、慌てて化粧をしてみるけど、何だか気に入らない。結局、一度顔を洗ってからもう一度化粧をしなおす。それから肩胛骨あたりまで伸びた髪をアップにしてまとめるとバレッタで留めた。
それから決めたワンピースに着替えて鏡の前に立てば、いつもより少しだけ大人びた自分がいる。
「よし、完璧」
一人納得しながら放置していた携帯を手にすれば、何通かメールが届いている。友達からの頑張れメールが一通、携帯サイトのメルマガが一通、そして知哉からのメールが一つあり、慌てて中を確認する。
『家のまえについた』
慌てて部屋の窓から外を見れば、通りに車を停めて外でぼんやりと立っている。その姿を見て慌ててバッグを掴むと、階下に駆け下りる。
「多佳子ー、ともくんに迷惑掛けるんじゃないわよー」
「え? 何で」
「昨日、ともくんから連絡きたわよ。今日は多佳子と一緒に出かけますって」
まさか、そんなことをしているとは思ってもいなくて照れくさいような、恥ずかしいような、苦々しいような、複雑な気持ちになる。
「……いってきます!」
「いってらっしゃい」
母親に見送られて外に出れば、すぐに気づいたのか知哉はこちらを向くと少しだけ片眉を上げた。
「ごめん、メールに気づかなくて」
「約束にはあと十五分ある。だから気にするな。それに随分と頑張ったみたいだしな」
どこかからかうような笑みを浮かべながらも、知哉は助手席の扉を開けてくれた。勿論、こんな扱いを受けたことがないから照れくさい。でも嬉しい。少しだけ緊張しながら車に乗り込むと、そのまま扉も閉めてくれる。
運転席側に回り込んだ知哉は車のエンジンを掛けると、ハンドルを握った。
「それで、今日はどういうルートなの?」
「そういうことは聞くもんじゃない」
そのまま手が伸びたかと思うとステレオを操作してスピーカーから音楽が鳴り出す。二ヶ月くらい前にみた映画のサントラで、気に入っていた映画でもあった。
「あれ、このサントラ」
「映画見た。お勧めだと言っていたからな。面白かったし、音が良かったからサントラも買った」
正直、もの凄く意外だった。だって、話をした時には全然乗り気じゃなかったし、人の話を聞いてるのかと思うくらいあの時は流された。それなのに、まさかあの話を聞いて映画まで見に行っているなんて思ってもみなかった。
でも、話を聞いて見に行ってくれたことが嬉しくもある。何よりも同じ映画を見たという事実だけでも嬉しい。
「朝飯は食ったか?」
「しっかり食べた」
「なら、このまま高速に乗るぞ」
短く返事をすると、そのまま会話は途切れた。本当は色々話したいけど、口を開けば浮かれポンチになってる自分を暴露することになりそうで、そのまま窓の外を眺めながら音楽を聴く。流れる音楽は映画のシーンを一つ、一つ思い出させてくれる。
折角のデートにも関わらず天気はいまいちで、空は一面雲に覆われている。でも、そのお陰で夏の暑さも感じることがないから、今日は過ごしやすい一日になるに違いない。
途中、パーキングに寄り休憩を取りつつ連れて行かれた先は、草原の広がる牧場だった。
「……馬鹿にしてる?」
「お前ミルクアイス好きだろ」
「それは好きだけど……まさか」
「こっちだ」
先に歩き出した知哉を追いかけて隣に並ぶ。前髪を切った知哉を見上げれば、その目はまっすぐ先を見ている。
「知ってたの?」
「あれだけ部屋のゴミ箱にミルク飴のゴミやら、ミルクアイスのゴミがあれば普通は分かるだろ」
「そ……そんなところ見たの!」
「見たくなくても見えるんだ。お前なぁ、見られたくないなら、もう少し考えてゴミ箱置け。そもそも部屋の入り口近くにゴミ箱置くな」
言われてみれば、確かに部屋の入り口にゴミ箱を置いてある。だからそれ以上文句も言えずに口を尖らせば、その唇をつままれた。
「そういう顔してるとブスになるぞ」
慌てて唇をつまむ知哉の手首を掴んで引きはがすと、勢いよく知哉を睨み付ける。でも、顔が赤くなってるのは隠せそうにない。
「人の唇に触らないでよ。大事なところなんだから」
途端におやっと顔をした知哉は、次の瞬間に意地悪く笑う。
「大事な人に触れて貰う場所だから、か?」
「当たり前でしょ!」
「ふーん……思ってたよりもお子様だな」
「お……お子様って! お子様じゃなくたって唇は大事! 恋人が沢山いる友達だって、キスは一人としかしないって言うし!」
途端に足を止めた知哉につられて、私も足を止める。
「な、何よ……」
「お前、もう少し友達選べ」
「私の友達にケチつけないでよ!」
「大方、お前、そのお友達に焚きつけられたんだろ。エッチもしてないとか何とか」
思い当たることがあるだけに、一瞬言葉に詰まる。でも、恋人とエッチができると聞いて、好きな人がいたら羨ましいと思わない訳がない。
「そんなこと言われてないし」
「お前、嘘が下手すぎ」
先ほどの忠告を一応聞いてくれたのか、今度は軽く鼻をつままれた。でも、それはそれで面白くない。
「ちょっと!」
「ほら、ついたぞ」
駐車場は閑散としていたら客なんていないのかと思っていたけど、店の前には行列までできていて予想以上に混雑していた。
「駐車場、あんなに空いてたのに」
「あそこは中央ゲートからは離れてるからな」
その言葉で近くにある案内図を見れば、この店から近いのは知哉が車を止めた駐車場だ。本当にミルクアイスだけが目的で知哉がここを選んだことが分かる。
行列に並び、目の前でミルクアイスもといミルクジェラードがコーンの上にのせられると、思わずそれだけで顔がにやける。渡されて受け取れば、手早く横では知哉が精算しているのが見える。
「いっただきまーす」
ごちそうして貰った手前、知哉に一言断りを入れてからジェラードに噛みつく。途端に口の中に濃厚なミルクの味が広がって、その嬉しさに自然と口元が緩む。
「……お前、本気でガキだな」
「何よ、美味しそうな物目の前にしたら、誰だって浮かれるもんでしょ」
「そうか?」
「お母さんのご飯は美味しそうに食べる癖に」
「俺は甘いの好きじゃないからな、それを食べて美味いという感覚は分からないな」
「美味しいのに可哀相……」
思わず同情混じりの視線で見上げれば、知哉は呆れたように視線を投げてきた。
「……何がいいんだか」
「いいものは人それぞれだし」
「まぁ、その言い分は一理あるな」
肩を竦めながらも同意した知哉は、近くのベンチに腰を下ろした。少し悩んでから、遠慮無く知哉の隣に座り手にしたジェラードを堪能する。
時間を掛けて食べ終わった時、自分の座る場所が日陰だということに初めて気づいた。横に座る知哉の場所は日差しが強く、私と反対隣には私の鞄が置かれている。自然と知哉の隣に座ったけど、もしかしたら知哉の気遣いだったのかもしれない。
気づいてしまえば、どうしても嬉しくて顔が赤くなる。事あるごとにそんな顔をしていたら、絶対に秘めてた気持ちがバレる。だからこそ、うつむいたまましばらく穏やかに吹く風に目を閉じた。
草のにおい、土のにおい、そして風向きが変わるたびにする知哉がつけてるコロンのにおい。その全てが普段であれば気にしないものだ。でも気づいてしまえば、時折香る知哉の香りが心拍数を上げる。
少し身じろぐだけでも分かる距離。そんなものにいつまでも耐えられず、勢いよく立ち上がった。
「次どこ行くの?」
「多佳子、少しは落ち着け」
いつもならお前とか言うのに、久しぶりに名前を呼ばれて落ち着かない。そもそも、知哉と二人だけという状況に落ち着ける筈なんかない。
「だって気になるし」
「そういう落ち着きのなさが振られる原因じゃないのか?」
「うっ……」
それは落ち着きのない女は、知哉にとって願い下げと言われているようで、少しばかり心に刺さる。でも耐久性はあるから立ち直るのは早い。
「いいの。こういう私でも好きって言ってくれる人が地球上のどこかにいるはずだし」
「地球上って広すぎだろ。出会う前に死ぬぞ」
「ちょっと、少しくらいは夢見させてくれたっていいじゃない!」
向きになって食って掛かれば笑いながら知哉が歩き出す。その後を追うように歩き出すと、数歩先で知哉は立ち止まり待っていてくれる。それが嬉しくて、少しだけくすぐったい。
「とにかく、今日は俺に任せろ」
「……分かってるもん」
「だったらこれ以上聞くな」
「はーい」
子どもじみた返事だとした後に気づいたけど後の祭りだ。でも、そんな返事にも慣れてる知哉は全然気にした様子がない。それが少し、ほんの少しだけ面白くない。
いいんだ、私が勝手に好きなだけだし……。
心の中で独りごちながら知哉の隣を歩く。広がる草原を眺めながらのんびり歩く。でも、知哉との距離は離れない。そこでようやく知哉が自分に合わせて歩いてくれているのだと気づく。
いつもの知哉とは全然違う。それは私がデートだと言ったから合わせてくれていることは分かるけど、ちょっとした夢見心地ち気分で足下までふわふわしてくる。
視線は周りを見ながら知哉ばかりを気にしていたから失敗した。土の盛り上がりで蹴つまずき、身体をかばうために地面に向かって手を伸ばす。けれども、一瞬にしてウエストに苦しいほどの締め付け感があり、地面につく筈だった手はぷらりと揺れた。
「あれ?」
「お前……さきも言っただろ。少しは落ち着け」
「落ち着いてるつもりだったんだけど」
「つもりは意味がないだろ。折角可愛く頑張ったなら汚さない努力くらいしろ」
「……うん、気をつける」
少し呆れ気味に怒られた内容よりも、可愛く頑張った事実を認めて貰えたことが嬉しい。知哉がこうして可愛いなど言ってくれたことは、少なくとも記憶にない。
「放すぞ」
「うん」
きちんと足下を確認してから、知哉がゆっくりとウエストに回した腕を放す。急接近したこと、何よりも少し気になる太さのウエストに腕を回されたことで、心臓が口から飛び出しそうな勢いで高鳴っている。
「ほら」
唐突に掛けられた言葉の意味が分からず、知哉を振り返れば手を差し出していた。思わずその手を見て、それから知哉を見上げればやっぱり呆れた顔をした知哉がいる。
「手を繋げって言ってるんだ。ったく、一人で普通に歩くこともできないとはな」
「あ、歩けるから!」
手なんか繋いだら、絶対に顔が赤くなる。既に今だって凄く顔が赤いに違いない。しかも手に触れたら、それだけで知哉にドキドキまで伝わってしまいそうで、それが嫌だ。
「いいから繋いでろ。俺が落ち着かない」
後ろに隠した腕を強引に掴むと、そのまま知哉が歩き出す。けれども、その歩みはゆっくりとしたもので焦る必要はない。しかも、先を歩く知哉に顔を見られる心配もない。
だから握られた手を振り解くことなく、その優しさに甘えてしまうことにした。
勢いよく風が吹く。前から吹いた風が髪を揺らすと同時に知哉の香りが届いて、心臓がドキドキうるさい。でも嬉しい。
嬉しくて、でも恥ずかしくて、複雑な心境のまま、今度こそ転ばないように慎重に歩く。もしここで転べば知哉を巻き込むことになるから、それは避けたい。
おっかなびっくりで駐車場まで戻ると、再び知哉は助手席の扉を開けてくれて車へ乗り込む。扉に挟まないように注意されてワンピースの裾を車の中へと引き込むと、知哉が扉まで閉めてくれる。至れり尽くせりという状況は初めてのことで、馴染みがないから照れくさい。
運転席に乗り込んだ知哉は、エンジンを掛けると車を発進させる。ゆっくりと走り出す車は、ちょっとだけ意外に思えた。
ステレオから流れる曲は映画のサントラや、ドラマのサントラが多く、耳馴染みあるものが多い。けれども、これらも私の好みを把握した上で用意されたことは分かる。少なくとも、洋楽を好む知哉の趣味とは思えない。
「早まったかなぁ」
「何がだ?」
「デートをお願いする相手を間違えたかもしれない」
「そりゃあ悪かったな」
「そうじゃなくて、ここまで至れり尽くせりだと、普通のデートができなくなりそう」
「これも普通のデートだろ。それとも今から予定変更して帰るか?」
「訳ないじゃん。こうなったらとことん楽しむでしょ」
「まぁ、そういう性格だよな、多佳子は」
また名前を呼ばれた。これもデート仕様ということなのかもしれない。そう思うのに、名前を呼ばれると、どうしてもドキドキする。誰が名前を呼んでも意味がない。知哉が呼ぶからこそ、自分の名前に意義を見いだせる。
大げさかもしれないけど、それだけ知哉が呼ぶ自分の名前は特別だと思える。名前を呼ばれてこんなにドキドキする相手なんて絶対にいない。
ちらりと横顔を覗けば、まっすぐ前を向いて知哉は運転している。少し色素の薄い茶色の目、通った鼻筋と薄い唇。そのどれもが知哉を形作るパーツで、見ているだけで落ち着かない。でも、目が離せない。
「……多佳子」
「は、はい!」
唐突に呼ばれた名前に返事をしたけど、声が裏返ってしまう。車の中に微妙な沈黙が落ち、恥ずかしさで顔が上げられない。まるでこれじゃあ……。
どうしようと迷いながら少しだけ知哉を見れば、知哉はこちらを見ていない。でも、肩先が小刻みに震えていて、口元に力が入っているのが分かる。その表情は何かといえば、笑いを堪えている以外の何物でもない。
「……笑うなら笑えばいいのに」
「いや……くっ……まさかそんな反応されるとは思わなくてな。何か考え事でもしてたのか?」
「してた」
「人の顔凝視したまま考え事するな。お前、普通の男ならその時点で誤解するぞ。車の中で押し倒されても文句は言えない」
「それくらいで誤解する方がどうかしてる!」
「男ってのは単純だからな。美味しく頂けるなら頂きたいものだし」
「普通はもう少し理性があるから大丈夫」
「大丈夫なんて、そんなものは都市伝説なみだな」
「えー、そこまで無い訳ないじゃん」
正直、男の人の理性なんてどこまであるかは知らない。でも、せめてそんなことはしないと思いたい。
「まぁ、もう少し気をつけろってことだ」
まだ笑いを滲ませながらもそれだけ言われて、納得いかないまでも小さく返事をした。
一層のこと、知哉の理性が無くなればいいのに。
そんなことを思ってしまったのは勿論秘密だ。
小さく鼻歌を歌いながら、流れる風景を楽しむ。両親は車を持っていないから、こうしてドライブするのは楽しい。
ぽつぽつと会話を交わしながらついた先は海だった。夏の日差しにも関わらず、その海岸には人気がない。
「穴場とか?」
「違う。遊泳禁止区域だから人がいないだけだ。でも、足を水につけるくらいなら文句言われないぞ」
それだけ言うと知哉は車を降りてしまい、慌てて私も車を降りる。車のトランクに回った知哉は、そこから大きめのバスタオルを取り出した。
「ほら、これ持って行け。足浸すくらいならできるから」
確かに素足だから海に少し入るくらいのことはできる。素直に知哉からバスタオルを受け取ると、砂浜へ続く階段を二人で下りる。砂浜を歩くと、少しだけ踵のあるミュールは砂浜にめり込んで歩きにくい。
一旦立ち止まり、振り返った知哉にバスタオルを軽く投げると、その場でミュールを脱いで両手に持った。足裏にあたる砂浜は熱かったけど、煩わしさが消える。
「貝殻とかあるから気をつけろよ」
「分かってる」
答えながらも知哉を追い越すと、砂浜を通り越えて足下を水につける。ぬるい海水で足首まで浸かるけど、この暑さだから気持ちがいい。
「知哉も入れば?」
「俺はいい。飽きたら呼べ。そこら辺にいるから」
勿体ないと思いつつ、波打ち際ギリギリを素足で歩く。時折立ち止まって、波と共に足裏にある砂が移動していくのを楽しむ。
砂浜で恋人と追いかけっこ、それは小説の世界だったけど、少しだけ羨ましい。そんな思いで、少し離れた場所にいる知哉を見れば、こちらを見ている視線とぶつかり思わず視線を逸らした。
だって、まさか知哉がこっちを見てるなんて思ってもいなかった。ポケットから携帯を取り出し、水に浸かる足を撮ってみたり、砂浜を歩く蟹を撮ってみたりした。最後によそ見をしている知哉を携帯に納めてから、ようやく知哉に声を掛けた。
すぐに近づいてきた知哉は、砂だらけになった私の足下にかがみ込む。
「足上げろ」
「え、いいよ。自分でやるし」
「デートなんだろ?」
「うっ……」
確かにデートだと言ったのは私だ。でも、こんなことまでされたら、さすがに夜まで心臓が持たない気がする。
「ほら、肩に掴まってろ」
言われるままに知哉の肩に手を置けば、知哉の手が私の足に触れる。少し熱い手が、より一層身体の熱を上げていく。足を持ち上げられて、すっかり砂まみれになった私の足を、大きなバスタオルで拭っていく。
「別にいいよ。バスタオル汚れるから。砂だから歩いている内に乾いて落ちるし」
「そろそろ移動しないと食事に間に合わないからな」
「えー、そんな遠くに行くの?」
「違う家の方に戻るんだよ。お前ここまで既に県を跨いできてるんだぞ。帰りが遅くなる」
「別に少しくらい遅くなっても、お母さん怒ったりしないけど」
「馬鹿言うな。ご近所様という手前、きちんと早い時間に送り届けないと、俺が色々疑われるだろ。ご近所さんで信用なくすのも困るしな」
少なくとも私はそんなこと全く考えてもいなかった。信用、それを考えたから知哉はうちに連絡を入れて、わざわざ母親に断りを入れたに違いない。けれども、それは同時に子どもを預かる兄のようで面白い気分ではない。
「別にもう子どもじゃないんだし」
「そういうことは成人してから言え」
「大人ぶってる」
「俺は大人だ。ほら、ミュール貸せ」
言われるままにミュールを渡せば、知哉はしっかりミュールまで履かせてくれる。反対側の足も同じように拭われると、靴を履かされて知哉は汚れたバスタオルを大きく広げた。そのままばさりと振れば、途端に砂が散らばる。それが少しだけ物悲しく思ったのは、気持ちが沈んだせいかもしれない。
「ほら行くぞ」
言われて差し出された手に、少し迷ってから手を重ねた。
分かってはいる。知哉にとって自分は近所の子どもで、今日はその子どもの我が儘に付き合っただけだ。期待はしちゃいけない。そう思っているのに、少しでも知哉の特別なんだと探したがる自分がいる。
再び車に乗り込み走り出すと、車内に沈黙が落ちる。
「疲れたか?」
「大丈夫。でもご飯食べたら夢の時間も終わりだと思ったら、もったいない気がしてさ」
「彼氏できたらして貰えばいいだろ」
「正直、ここまでして貰えるとは思えないんだよねぇ。夢見せすぎ」
「何だよ、夢見せろって言ったのは多佳子だろ?」
「いや、まぁ、そうだけどさ……」
もしかして、知哉は彼女にいつもこんな風に甘いのかもしれない。そう思ったら落ち込むと同時に嫉妬心が湧いてきて、知哉の特別じゃない自分に悲しくなる。
夢を思い描く時、夢の中、その時はとても楽しいけど、夢の出口が見えると途端に寂しくなるのと一緒だ。当たり前だけど、今回は特別付き合ってくれただけで、知哉だって何回も付き合ってくれるとは思えない。
それに、これ以上知哉に甘えるようなことは、彼女の手前したくない。何よりも知哉の特別になれないのに、これ以上夢を見続けるのはちょっとつらい。
「何だよ、世界中のどこかにいるんだろ? 多佳子を好きになってくれる男」
「……いる。絶対にいるはず!」
そう信じたい。だからこそ力説すれば、運転席で知哉が笑う。知哉が笑ってくれたらそれでいい。そう思っていたのに、どんどん恋心というのは欲張りになっていくのが本当に困る。
「なら、そう信じてろ」
ハンドルから離れた手が私の頭に乗せられて、そのままくしゃりと撫でられる。その優しさだけで、これ以上好きになったらダメだと思う壁が崩壊してくる。半端な優しさほどたちが悪いものはない。
それなのに、やっぱり優しい知哉が好きだからどうしようもない。優しいからこそ知哉が好きになった。だからどうしようもない袋小路にいるのだと、いまさらながら分かってしまった。
一方通行で叶うことのない思いは、これからどうやって抱えていくのか。それを考えると気が思い。でも、折角二人だけのデートなんだから、これはこれで楽しまないと勿体ない。それこそ、もう二度と無い思い出となるのかもしれないのだから。
だから気合いを入れ直すと、知哉に色々なことを聞いた。会社のこと、大学時代のこと、受験のこと。けれども、どうしても彼女のことだけは聞くことができなかった。
まだ紫色が残る空の時間、目的地であるレストランに到着した。車から降りた知哉が、助手席に回り込み扉を開けると、手を差し出してきた。
「ここで最後だ」
そう、ここで最後。だから最後まで楽しむために差し出された手に、自分の手を重ねて僅かに残された時間を楽しんでしまうことにする。
遠慮無く手を繋ぐだけじゃなく、歩き出した知哉の腕に自分の腕を絡ませる。少し驚いた顔をした知哉だったけど、かすかに笑うと扉の前で立ち止まった。
目の前にある扉は大きなもので、横三人並んでも通り抜けられそうな大きな木戸だ。西洋風な木を組み合わせた扉の上は丸く形作られていて、かなりしゃれている。少なくとも、私一人では絶対に来るような場所じゃない。
扉横に立っていた男性が扉に手を掛けて開いてくれた。仰々しい感じが酷く緊張する。
「私、ナイフとフォークの使い方に自信がない」
「個室だから気にするな」
確かに周りの目も気になるけど、一番気になるのは知哉の目だ。好きな人の前だから失敗だけはしたくない。中に入れば黒服を着た店員に促されるまま、長い廊下を抜けて一つの扉を開けられた。
扉の大きさに比べたら中は思っていたよりも狭く、テーブルの大きさからも二人用の部屋なのだと分かる。窓の外に広がる庭は花々が咲き誇り、夏の暑さにくたびれた様子は全くない。水を蒔いた後なのか、元気な花たちは外にある照明に照らされて花や葉を光らせている。
「綺麗……」
「お気になられたご様子で幸いです」
立ち止まる私よりも早く店員が椅子を引いてくれる。知哉に脇を小突かれて、おずおずと近づくと引いてくれた椅子に腰掛けた。もう、ここまでくると世界が違いすぎて、どうしていいのか分からない。
知哉が正面の椅子に座ると、徐々に照明が落とされてテーブルの上に灯してあるいくつものロウソクが浮かび上がる。ボウルよりも少し広い口をしたガラスの中には水が張ってあり、その中ではカラフルなロウソクが辺りを照らす。外にある照明もあり、薄暗いというほどの暗さはない。
ワイングラスの中に、定員さんが注いでくれたのは赤い色した液体だ。もしかしてワインという期待をしたが、帰り時間まで気にしている知哉がアルコールの類を飲ませてくれるとは思えない。
知哉の方には口の広いグラスに茶色の液体が注がれ、飲み物を用意すると店員は部屋の外に出て行ってしまう。途端に肩の力が抜けて、思わず長い溜息をついた。
「うー、緊張する。こんな店初めて来たから、頭パニック」
「別に誰が見る訳でもない。好きなようにしていればいいだろ」
「そうは言うけどさ、店員さんがお皿下げる時に食べ方が汚いとか思われたら嫌だし、色々使い方間違っていたら凄い恥ずかしいじゃん」
「どうせお前がここへ来る時には、数年後だ。その時にはお前の顔なんて忘れられてる」
「そういう問題じゃなくて」
「変に格好良くしようとするから失敗するんだ。美味しく食べられたらそれでいいんだよ。俺しかいないんだから、別にそれ以上の人目を気にする必要はないだろ」
「でもさ……」
いや、この緊張はどれだけ言っても大人である知哉には分からないに違いない。いかにも高級そうな店で場違いだと思っているのに、これ以上笑われたくない。何よりも、知哉に子どもだから仕方ないと思われたくない、そんな気持ちは分からない。分かって欲しいと望む方が間違えている。
それから知哉はこういう場所での失敗談なども話してくれたけど、全然緊張なんて解れない。店員さんが運んできてくれた料理の名前は長くてよく分からない。説明を受けながら、フォークとナイフは一番外側から、などと何度も頭の中で繰り返す。
二人だけの食事が始まると、もうそこからは緊張の連続だった。お皿とフォークがあたる音は気になるし、指先は徐々に緊張で冷えてくる。勿論、味なんて全然分からなくて、自分でも何を食べているのか分からない。
どうにかこうにか食事を終えた時には、もう本当に疲れ切っていて楽しむどころの話じゃなかった。最後のデザートだけは美味しかった記憶があるけど、その前までに出された料理は名前も味も覚えていない。
でも知哉はこういう場所でも余裕があって、それだけこういう場所に来慣れていることが分かる。それだけ自分と知哉は釣り合わないことを突きつけられているようで、涙が出てきそうになる。
どんなに背伸びしても追いつかない。年の差だけは埋められない。そのことが本気で悔しい。
車に戻り、再び助手席に落ち着くと知哉が運転席に乗り込むよりも早く溜息をついた。解放されたという安堵感が広がり、そして追いつかない悲しさを知った。
「……多佳子?」
呼びかけられて顔を上げた途端、涙がぼろりと零れた。慌ててうつむいたけど見られてしまったに違いない。
「美味くなかったか?」
美味いも何も、緊張してて味なんて分からなかった。折角だから楽しもうと思っていたのに、それを感じることができなかったことが勿体なく思う。
それでも首を横に振ると、運転席に乗り込んだ知哉の手が頭を撫でる。優しい手で、でも、それは他の誰かのものだと思うとやっぱり涙が零れた。
「やっぱりファミレスにしておくべきだったか」
溜息混じりの声に、落胆されたことだけは分かる。それはそうだろう。どれだけ言い募っても自分は子どもで、絶対的にああいう場所への経験値が低い。似合わないのはどうしようもない。
「俺らしくもなく気合い入れすぎたのが悪かったか」
「気合い……入ってたの?」
「そりゃあ入れるだろ。俺が空回りしすぎて悪かった」
「別に謝ることじゃ……」
「いや、気合い入れすぎてたんだよ。好きな女とのデートで」
ぽつりと呟かれたその言葉が理解できなかった。一瞬の空白の後、ゆっくりと頭の中に言葉が染み込んでくる。
「そういう冗談は受け付けてないから」
「冗談でここまで付き合うと思うか?」
少し低くなった知哉の声に目尻の涙を拭ってから顔を上げれば、真剣な顔をした知哉と視線が交わる。
「近所の妹みたいな女の子から勝手に豹変しやがって」
「豹変って、私が悪いみたいな言い方じゃない」
「お前が悪い。お前が可愛くなったりするから、俺は彼女と別れる羽目になった」
「それは私の責任じゃないし」
「本当にそうか? あれだけ好きオーラ出しておいて、本当に多佳子の責任はない?」
「……気づいてたの?」
「あれで気づかなければ馬鹿だろ。最初から多佳子は特別だったよ。最初はたった一人の幼なじみとして。次は守るべき唯一の女の子として。そして可愛い妹として。それから特別な女の子として」
「だって全然そんな素振りなかったじゃん」
「俺、これでも大人だからな。余りギラギラしてせまる訳にもいかないだろ。怖がらせたい訳じゃないし」
「怖くない」
「本当に?」
意味深な言葉だと思う。真剣な目が少しだけ怖い。でも、それを言ったらすぐに知哉は冗談にしてしまいそうな気がする。だから頷けば、膝の上に乗せていた右手を取られた。そのまま知哉に持ち上げられると、手の甲にキスをされる。
「多佳子が好きだ」
知哉の声で言われたその言葉は特別な意味を持つ。その言葉だけで心拍数が上がり、息が上手くできない。
「……どうしよう」
「何だよ」
「夢見てる?」
「抓るか?」
「ヤダ……」
「嬉しいなら名前呼べよ。俺の名前」
何度も心の中では呼んできた。数年前までは兄ちゃんとか、知哉兄さんとか呼んでいたけど、そう呼びたくなくて避けてきた。私が呼びたかったのはずっと名前だけど、いざとなったら上手く言葉が紡げない。
「……と……知哉」
「これからそう呼べ。ついでに心狭いからはっきり言っとくが、俺の代わりにしようとしていた他の男はキャンセルしろ」
「言われなくてもするし」
「そうしろ。ただし一つ言っておく。大学は卒業しろ。浮気はするな。そしたら卒業と同時に指輪くらい用意してやる」
「指輪くらい……誕生日にくれたっていいじゃん」
途端に知哉は呆れた顔をして手を上げると、そのまま指先で額を小突かれた。
「お前は指輪の意味が分からないくらい馬鹿か?」
「指輪って……え? それって」
唇の端に笑みを乗せた知哉に、わき上がる感情がついていかない。思わず衝動的に腕を伸ばして知哉に抱きつく。
「多佳子、お前のその先読みできない行動パターンをどうにかしろ」
「だって、絶対無理だと思ってた。恋人なんて望まないって、ずっと思ってた」
「フラフラしてて悪かった」
「本当に悪いよ!」
「お前なぁ」
呆れたように呟くけど、その声が甘い気がする。背中に回された手が、まるで感情を鎮めるかのように何度も撫でる。
「多佳子、少し力緩めろ。苦しい」
「だって、緩めたら逃げられそうな気がする」
「このままじゃあキスもできないぞ」
どこかからかい含みの声だったけど、それでもその言葉に心惹かれて知哉に抱きついた腕から力を抜く。今まで見たこともない距離で知哉と視線を合わせると、ゆっくりと近づいてくる知哉に目を閉じた。

The End.

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