大学を卒業してから一年、久しぶりに戻ってきた日本は余り代わり映えがしないようで、少しずつ変化していた。
時計を見れば昼を過ぎたところで、小さなトランクケースを片手に都内へ向かうバスへ乗り込む。ここ数日忙しくて目を通すことができなかった本を、修平はトランクケースのポケットから取り出すと表紙を捲る。
ゲームコンテストが終了した後、タカイの指導で秋生のシナリオ、そして光の音楽はかなり大きく変更させられた。
そして翌年春「ゲームコンテストにて特別賞」というあおりつきで発売された。元々、同人で人気があったケイとライトの組み合わせは、タカイが思っていたよりも大きな反響を呼んだらしい。
発売二ヶ月後、タカイ主導で「クロニクル」の第二弾が作成されることになった。修平以外の三人にオファーがあり、秋生とケイはその依頼を受けた。けれども、光は学業優先ということで、その依頼を断った。
作られた第二弾「クロニクル」は、タカイ主導だったこともあり、タカイの手が入りすぎたらしい。修平たちの求めていたゲームとは違うものになっていた。
それに対して、秋生やケイは酷く不満そうだったが、相手はプロということもあり強くも言えなかったらしい。別物になった「クロニクル」は修平の目から見ても売れてはいなかった。
それでも漫画が売れていたのは、そちらは秋生とケイが主導ということが大きい。実際、タカイと出版社側で多少揉めたらしいが、そこら辺のことは修平も知らない。ただ、タカイは漫画人気に乗っかった部分もあるから、大きく揉めたりはしなかったに違いない。
そして修平が今手にしているのは、ケイが描いて秋生が原作をした第二弾「クロニクル」の最終巻だった。
あれから五年、外資に就職の決まった修平は半年の研修を経て海外へ出向となった。実際、まだ出向中で、今日帰ってきたのは十一月二日、あのコンテストがあった日だからだ。
あの年から十二月二日は、四人揃って必ず顔を合わせることにしている。それに合わせて修平も休みを取り、日本に戻ってきた。
バスの中で最終巻である漫画を最後まで読み終えると、修平は背凭れに身体を預けて小さく溜息をついた。
あれから五年経つにも関わらず、この漫画を読むだけで、あの頃の無謀さ、馬鹿らしさ、何よりも楽しさを思い出すことができる。
色々と思い出に浸っている間にバスは東京駅へと到着し、修平は手にしていた漫画を再びトランクケースの中へとしまった。
バスを降りれば、余り代わり映えのない風景がそこにあり、駅からほど近いホテルにチェックインする。部屋に入るなり修平はスーツから手早くラフな服装に着替えると、すぐに携帯で秋生に連絡を入れた。
一ヶ月に一回は連絡を取り合う秋生は、すぐに電話に出た。これから東京に向かうという秋生にホテル名を告げて電話を切った。
それからすぐにケイへと連絡を入れると、ケイと光は夕方にしか合流できそうにないと言われ、後で店をメールする約束をしえ電話を切った。
鞄からノートパソコンを取り出すと、メールのチェックを行い、それから必要分のメールは全て返信してから電源を切れば丁度三十分。財布をポケットにしまったところで、携帯が鳴りメールを確認すれば着いたという短いメールが秋生から来ていた。
足早に部屋を後にしてロビーへ降りれば、一年前と変わらない秋生がそこにいた。
「久しぶりだな」
「そうだね。そっちはどう?」
「寒くて死にそう。仕事は順調。アキは?」
「クロニクルの原作終わって、これからどうしようかと迷ってるところ」
「迷ってる?」
「まぁ、そこら辺の話はあっちでしよう」
秋生に促されてラウンジのカフェに向かう。五年前のあの頃であれば、間違いなく敷居が高かったホテルのカフェに、普通に入れる年になった。それは少しだけ感慨深いものがある。
二人してコーヒーを頼むと、修平は先ほどの続きを促した。
「迷ってるって、どうかしたのか?」
「正直、一つでも表舞台に出る仕事をすれば、次々と仕事はくるものだと思ってたけど、現状は厳しくてね」
「今は何も仕事してないのか?」
「依頼は一応あるけど、エッセイとかそういうものが多いかな。その合間に小説を書いて賞に贈送ってる感じだね。まだ蓄えはあるけど、正直一年くらいで結果を出さないとちょっとまずいことになるかな」
「やっぱり、あの時、タカイに五百万ぽっちでゲームを売ったのは失敗だったよな。よく考えてみれば、アキや光は無償で修正作業させられた訳だし。正直、あの修正分はきちんとタカイから貰っておくべきだった」
実際、クロニクルは第一弾はゲーム雑誌などでも大きく取り上げられ、かなりの売れ行きだったに違いない。それを考えれば、人件費が余り掛かっていないのだからタカイとしてはぼろ儲けだった筈だ。
「うーん、でも、僕としてはあれがあったから、名前が表舞台に出たから余り文句も言えないかな。そういう意味合いでは光くんの方が被害者かも。光くんの修正はかなりのものだったし」
「あと三年、いや五年待てば俺が上手く売ってやったのに」
「そんなこと言ってたら、ゲーム自体が時代遅れになるよ。三年とか五年とか、もしかして本気で会社を作るつもり?」
「当たり前だろ。そのために今の会社に入ったし、それについては社長から了承済み」
「随分太っ腹な会社だね」
「最初から独立を目標にしてることは面接の時点で公言してたしな」
「……それで、よく就職できたね」
「奇跡だな」
偉そうにふんぞり返れば、どこか呆れた顔で秋生が溜息をついた。
正直、就職活動中はかなり無茶な条件だと自分でも思っていた。だから大学にくる求人では落ちまくりで、戦略を変えるか迷った時、求人情報誌で見つけたマーケティング会社に心惹かれた。
担任を通さず、一人で見学に行った。色々と質問して、案内役である男に口八丁で会社の良いところ、悪いところを聞いた。新卒よりも経験者の求人だったけれども、修平はそれに申し込み面接までこぎ着けた。
面接官として現れた社長が社内を案内してくれた男だと知った時には、詐欺だと思ったが無事に内定が決まり肩をなで下ろしたのは懐かしい思い出だ。
「それにしても、修平は一年で本当に社会人らしくなったよね」
「ビジネスマンっぽいか?」
「うん、スーツ着たら凄く似合いそうな気がする」
「そりゃあ嬉しいな。そういう秋生は余り代わり映えしないな」
「それはそうだよ。僕の場合卒業しても自由業みたいなものだしね。スーツなんて卒業式以来、袖も通してないよ」
改めて秋生を見れば、確かに大学時代と何も変わらないように見える。あの頃と変わらず、しっかりしているように見えてどこか危うい。
「なぁ、原作したなら編集部に原稿見せたりしなかったのか?」
「僕はケイのおまけ的なところだから、そこまでのことはできないよ。それに僕が動けばケイの立場が悪くなる」
「悪くなるも何も、今更ケイの立場がなくなるとは思えない。既にケイはケイの立場を確立してるから、アキが多少動いたところでどうにもならないだろ」
「ケイもそう言ってくれたんだけどね」
「何でそこで自分を売らないんだよ」
「余り押しつけがましいと引かれそうな気がするし」
「馬鹿、そこで押さないでいつ押すんだよ! 原作として名前が売れてる今だろ、今!」
ホテルのラウンジにはそぐわない大きな声を出してしまったこともあり、修平は取り繕うようにコーヒーカップに口をつけた。
高校時代、秋生はしっかりして堅実な性格なんだと思っていた。けれども、大学に入りしっかりしているように見えた秋生は、修平が思っているよりも世間離れしていた。何折茂家柄の良さもあってか、あからさまなハングリーさに欠けていた。
「なぁ、アキは小説家になりたいんだろ? そのためにはもっとがむしゃらにならないといけないんじゃないのか?」
「僕自身はこれでも結構必死なつもりなんだけど」
「もっと人の物を奪い取るぐらいの勢いがないと」
「そういうことは余りしたくない」
「でも小説家になるってことはそういうことじゃないのか? 売れない小説家を蹴落として、そして自分が小説家になる。ある程度、小説家だって限られた枠があるんじゃないのか?」
「そう……かもしれないね」
その言葉でアキも多少自覚している部分はあるらしい。でも、分かっていてあえてそのステージに上がらないのだとしたら、少しばかり人が良すぎる気がする。
「なぁ、本気で小説家になりたいのか?」
「……そういう意味でも迷ってる。正直、クロニクルが僕の作った全てで、あれ以上の物は書けないんじゃないか、と最近思い始めたんだ」
「伝えたいことがあるから書くんじゃないのか?」
「それはそうだけど……あれ以上に熱意を注げるものが今は書けない。それに、あのシナリオを読み返すと、あの頃だから書けたものが沢山詰まっていて、あの頃の自分を羨ましく思う」
「でも、それ以上にアキだって成長してるだろ」
「そうだと思いたいけどね」
緩く笑う秋生の表情に自信というものはない。もしかしたら、秋生はクロニクルで燃え尽きてしまった感があるのかもしれない。
「なぁ、シナリオ書いてる時って楽しかったか?」
「あれだけ熱中して書いたものは他にないよ」
「だったら、目先を変えて小説じゃなくてシナリオの公募に応募してみたらどうだ? ほら、俺も余り詳しくないけどドラマとかのシナリオ募集とかしてるじゃん。ああいうものを書いてみてもいいんじゃないのか?」
修平の言葉に秋生は何も答えない。ただ、何かを思案するかのように、視線がテーブルの一点を見つめたまま動かない。
クロニクルは修平にとっても原点であり、返るべきところでもある。いつでも修平は、あの時の努力を土台にして頑張ってきた。そしてあの時のプレッシャーを考えると、何事もこなすことができた。
それでも、あの時の自分をいつでも超えたいと思っている。まだ社会人一年目、正直あの時を超えたとは思えないからこそ、超えたいと思っている。けれども、秋生は端から超えられないと思っているのかもしれない。
それは口で説明してどうにかなる問題でもない。秋生自身が考えて、自分でどうにかしていかないといけない問題だ。
だからこそ修平はそれ以上何も言わず、沈黙の中で大きな背凭れがついた椅子に身体を預けながらコーヒーに口をつけた。
そのタイミングで携帯が鳴り出し、慌てて携帯をポケットから取り出した。そこに表示されている名前は懐かしいもので、すぐに通話ボタンを押した。
「もしもし、光です」
「おう、久しぶりだな。どうした?」
「実は今大阪から戻ってきたところで、東京駅にいるんです。川越さんは東京駅付近にいるんですか?」
「あぁ、いるぞ。何だ今から合流するか?」
「ぜひともさせて貰いたいんですが」
明るい声で答える光にホテルの場所を教えて電話を切れば、ようやく思考の底から浮かび上がった秋生と視線が合った。
「光くん?」
「何か大阪に行ってたらしくてさ。今東京駅だっていうからすぐに来るかもしれない」
「そっか。光くんと会うのも一年ぶりだけど、変わってるかな」
「俺たちの中であいつが一番成長目覚ましいだろ。まぁ、光が年下だから余計にそう思うのかもしれないけどな」
「かもしれないね。でも大学三年生か。そろそろ卒業に向けて色々考えてる頃かな」
「かもな。でも、光の場合そういう意味で余り心配してないっていうか、将来設計がしっかりできてるっていうか」
「そうだね。正直、クロニクルの第二弾で断ると思わなかったし」
「あれは意外だったよなぁ。言葉濁してたけど今なら理由聞けば教えてくれると思うか?」
「もう時効という気もするから教えてくれるかもしれないね」
先ほどよりも明るくなった雰囲気で話していれば、見通しのよいカフェから光の姿が見えた。あの頃よりも成長はしたものの、まだ学生らしさが抜けない光はホテルの雰囲気に完全に飲まれているらしい。
あちらこちらを見ている光に軽く手を上げれば、ホッとした様子でカフェに入ってきた。
「お久しぶりです」
「久しぶりだね。何だかまた身長が伸びてるみたいだけど」
「伸びてます。でも、最近はあちこち頭ぶつけて馬鹿になりそうです」
秋生に勧められて二人の間の椅子に腰を下ろした光は、やたらと重そうな鞄を肩から下ろし床に置いた。
「凄い荷物だな。大阪に何しに行ってたんだ?」
「教授のお供です。顔の広い教授なので、自分の顔も売りに」
「ほら、こういうしたたかさが何事にも必要なんだよ」
そう言って修平が秋生の方へと視線を向ければ、秋生は苦く笑うばかりだ。
「そういえば、今なら時効だろうから聞くけど、クロニクルの第二弾、何で断ったんだ?」
「それは……まぁ、確かに時効ですよね。正直言うと割に合わないと思ったからです。タカイって第一弾の時から結構注文が多かったんですよ。町のシーンはこんな曲で、って既存曲を渡してきたりして全然こっちを信用していない雰囲気だったんです。確かにプロの目から見ても僕なんて子どもだから仕方ないんですけど。確かにお金にはなるけど、基本的に学業に支障をきたしてまでやるべきものかと思ったら、全然その気になれませんでした」
「お前……結構えげつないな」
「そうですか? だって、僕が聞いて欲しいのは、誰かの手が入った曲じゃないですし」
さらりとした言葉ではあったが、修平から見ても強い意志を感じる言葉だった。ケイといい、光といい、自分にとって譲れない一線があり、それを越えるものは容赦なく切り落としていく。そういう強さがある。
そして、その感覚は今の修平なら分かる。恐らく高校時代の自分では絶対に分からなかったことだ。
「姉さんには坂戸さんのテンションも下がるし、声を掛けられなかった川越さんも気を悪くするかもしれないから黙ってろって言われてたんです」
「いや、別に気を悪くしたりしない。そもそも、あのゲームで俺はツール使っていただけで、プログラムを組んだ訳でもない。そりゃあ、タカイとしてもお呼びじゃないことぐらは分かってたし」
「でも、僕は結構居心地悪い気分でした。あの時取りまとめしてくれたのって、川越さんが中心でしたし」
「別にそういうもんじゃないだろ。あれは全員で作ったもので」
「正直言うとあの第一弾だって、絶対に元の方が良かったと今でも思ってます」
真面目な顔で言い切った光に、修平としては苦く笑うしかない。そうやって言い切れるのはやはり光の素直さ故の強さだと思う。そして、それを支える自信があるからなのだろう。
「お前のくさい台詞は年取っても変わらないな」
「え、そうですか? 僕、これでも結構ずるくなりましたよ。もうあの頃みたいに純粋にはなれませんし」
「や、腹黒いとは思うけど」
「何だか腹黒いまで言われると、納得できないんですけど……」
途端に情けない顔になる光に、つい修平は秋生と一緒に笑ってしまう。こういう反応はやっぱり素直だ。
けれども、こうしてこのメンバーで会うと、あの頃に時間が逆戻りしてしまうのかもしれない。修平自身もどこか気楽に思っている部分もあるし、いつもよりも学生時代のように言葉も荒れる。
「そういえば光くんは卒業したらどうするつもりなの?」
「実はアメリカに師事して欲しいジャズの先生がいるので、教授の伝で来年から留学することになりました。ニューヨークなんで、休みの日には食事くらい一緒にして貰えたら嬉しいです」
現在、修平が出向している先はニューヨークだ。だからこそ修平は二つ返事で頷いた。既に来年から編入することは決まっているらしく、光は現在大学の課題をこなしながら英会話も習いにいっているとのことだった。
やっぱり、光はかなりハングリーな方だと改めて思う。せめてそのハングリーさを秋生に分けて欲しいところだが、秋生は秋生なりの考えもあるに違いない。いつまでもフラフラした生活をしていられないことは分かっているだろうから、あえて修平はそれについて何も言わない。
すっかり冷めてしまったコーヒーを一口飲んだところで、二人の視線が背後にあることに気づく。だからつられるように振り返れば、修平の後ろには昔とは違い身奇麗にしたケイが立っていた。
「ちょっと、私を仲間はずれにするのは酷くない?」
「お前酷くないって、仕事あったんだろ。もしかしてサボりとか?」
「違うわよ。今まで神田で打ち合わせだったの」
「打ち合わせって、新作か?」
「そう。クロニクルの売り上げ良かったから、次回も連載貰えることになったの。ついでに言えば、五ページの連載も貰った」
「何だよ、その半端なページ数」
「クロニクル作った時のドキュメンタリー漫画描けって」
「……は? 何だそれ」
「だからそのまんま。出版社の方に要望が多かったらしくて、編集部は超乗り気。仕事だから受けるけど、色々記憶が抜け落ちてるんだよね。色々聞くこともあると思うから、協力宜しく」
「それは、あれか。既に決定なのか?」
「私が聞いた段階で既に決定済みでした。新人に選択権なんてありません。まぁ、記録として残しておくのは楽しそうではあるよね。通り過ぎたことだからなのか、結構苦しかったこと忘れてるし」
「お前の脳みそに乾杯だ。お前、あれだけ切羽詰まってたのを忘れたのか?」
「当たり前でしょ。私の脳みそは都合のいいことしか覚えない仕様なの」
こうして話をしていると本当にケイは変わらない。けれども、プロとしての自覚が出てきたのか、所々にプロとしての心意気みたいなものを感じる。
「最初五話連載してみて、不評だったら打ち切り。シビアな世界だとつくづく思うわ」
「そりゃあ、仕方ないだろ。本なんてもんは全てランキングが出る時代だし」
「まぁね。でも、あれが自分の頑張りにも繋がるから一長一短ってところかな。今度はアキの原作もないから、気合い入れて頑張らないと」
「別に原作なくてもケイなら大丈夫だよ」
「大丈夫だと野田さんに私を認めさせたいかな。不安はあるけど、とにかく受けた仕事をこなしていくしかないからね」
そう言って笑うケイは、夢を叶えたからなのか自信に満ちあふれているように見える。そんなケイを修平は少し眩しく思いながら、ケイのテンションに乗せられる。
「タイトルはクロニクルか?」
「英語でgame.com。とにかくゲームを作ろうみたいな感じだったし、タイトルは後付けだったから。それに出版社からクロニクルはタイトルに使わないで欲しいって言われてるから」
「シンプルだな」
「でも分かりやすいでしょ?」
確かに分かりやすいタイトルではあると思う。そして修平や恐らくここにいる全員の原点となる漫画。それをプロになったケイが描く。
夢を叶えたいと強く願っている。そして近くで一歩先に夢を叶えた仲間がいることは、非常に心強く思える。
それだけに秋生の不安定さだけが、酷く気に掛かる。誰もが夢を叶えるためにひた走る中、秋生がどんな選択をするのか他人事ながら少しだけ心配でもあった。