Chapter.IV:選びとる未来 Act.04

久しぶりにすっきりした気分で家に戻れば、小川ではなく母親が出迎える。その形相からも、かなり機嫌が悪いことだけは分かる。
「ただいま戻りました」
「お帰りなさい、秋生さん。お話があります」
「やらなければならないことがあるので、手短にお願いします」
「これからのことを手短に話せる筈はないでしょ」
頭ごなしなのはいつものことだが、今日は本格的に機嫌が悪いらしい。面倒だとは思うものの、ここではっきりさせておくのは悪くない気がした。
「僕は自分で決めたことを翻すつもりはありません」
「秋生さん、あなたは医者の家系に生まれたのだから、医者になることは決まっています」
「別に医者の息子が医者になるとは限りません」
「あなたは生まれた時から医者になる運命だったのよ!」
怒りの形相で詰め寄ってくる母親からは鬼気迫るものがあった。だがそれを見ているだけで、秋生の気持ちは冷えていく一方だ。
もし、母親が子どもの幸せを考えて、とか普通にありうる理由を言い募るのであれば、秋生だって多少なりともその気持ちに考慮したに違いない。けれども、今までの言動を見ていれば、結局、秋生自身を母親が満足するための道具としか思っていないように感じる。
やはりこの母親と会話を成り立たせることは難しかったらしい。
「運命なんてものを本気で信じているんですか? そんな馬鹿げたもので将来を語るなんて、いつからあなたは占い師になったんですか?」
「秋生さん! 人を馬鹿にするのも大概にしなさい!」
「馬鹿にはしてません。呆れてはいますけど。あなたと話をしても平行線にしかならない。これ以上話すことはありません」
「私はあなたの将来を考えて」
ようやく出てきたその言葉に、らしくもなく鼻で笑ってしまった。そんな言葉を今更投げられても、感情に響くものは何もない。
「違うんじゃありませんか。僕のためではなく、あなたのためでしょ? あなたの見栄のために僕は医者にならなければならない。そんなことはごめんです。僕はあなたの人形ではありません」
そんな言葉を返されるとは思ってもいなかったのだろう。愕然とした顔をする母親に、秋生は冷めた視線を向ける。視線同様、気持ちも酷く冷め切っていた。
言葉もなく立ち尽くす母親は、そんな言葉を言われるとは露程も考えていなかったらしい。靴を脱ぎ用意されていたスリッパを履くと、母親にそれ以上声を掛けることもなく横をすり抜ける。
恐らく秋生が母親を疎ましく思っていることは伝わっていたに違いない。けれども、ここまでの拒絶を受けることは考えていなかったのだろう。いい加減、母親の見栄のために、出来のいい息子を演じることにうんざりした。
自室へ戻るために階段を上がる。その頃になってようやく我に返ったのか、背後から「秋生さん」と金切り声で呼ぶ母親の声が聞こえる。
声を掛けても追いかけてくることはない。プライドの高い母親は、人に追い縋るような真似はしない。追い縋るという行為を嫌悪していたが、何よりも追い縋るほど大切なものは無いのだろう。そういう部分にも嫌悪を覚える。
呼び声に足を止めることなく二階に上がると、自室の扉を開けた。いつもと変わらない部屋が秋生を迎え入れてくれることにホッとする。
母親の言動は腹立たしい。けれども、今はやるべきことがあるから、感情は切り捨てて鞄からノートパソコンを取り出すと机の上に置いた。修正途中のプリントアウトしたシナリオも机の上に置き、椅子に座ると机に向かう。
そのまま集中して一時間ほど過ぎると、扉をノックする音が聞こえて我に返る。秋生がいる時に母親が部屋を訪れてきたことはここ何年もない。軽く返事をすれば扉を開けたのはやはり小川だった。
「コーヒーをお持ちしました」
こういう所は母親よりも小川の方がより母親らしい。正直、母親よりも小川に好意を持つのは、こういう優しさがあるからに違いない。
「ありがとう。丁度のどが乾いていたところだから助かります」
「そう言って貰えると、私も嬉しいです。奥様は会合に出かけられたのですが、今晩は旦那様が秋生さんとご一緒に食事を取りたいと申しております」
「何時に戻るって言ってました?」
「八時には食事の支度をしておいて欲しいと言っておりましたので、恐らく七時半にはお戻りになるかと」
どちらにしても、父親とは一度進路について話し合わないとならない。恐らく父親の方もそれが目的に違いない。
「分かった。八時には下に降りるよ」
「それでは二人分の食事をご用意して八時にはお待ちしていますね」
「お願いします。それよりも、いつも本当にごめん。母さんの機嫌を悪くして小川さんが大変でしょ」
「大丈夫ですよ。奥様は私に当たるようなこともなさりませんし」
単にプライドが高いから、そういう真似ができないだけだよ。そう言いたかったが、実際八つ当たりするような真似をしないのは、褒めるべきところのような気がしてそのまま言葉を飲み込んだ。
「それならいいけど。しばらくは家の空気が悪くなると思う。僕の進路が決まるまではどうしてもね」
「でも、秋生さんはもうお決めになられたみたいですね」
「もしかして、玄関の騒動聞こえちゃった?」
「いえ、家を出られた時よりもすっきりした顔をなされているので」
「ちょっと迷っていたんだよね。将来とか考えると。でも遣りたいことを遣りたいと思って何がいけないって年下の子に諭されちゃってね」
二つ年下の光は、どこか幼くて秋生は子ども扱いしていた。ゲームについて話をする時にはあくまで対等ではあったけど、どうしても言動の幼さから年下、という枠を作っていた。
けれども、幼いからこそ持っている直線的な意志に射貫かれた気がした。いや、どちらかというと「あてられた」というのが正しいのかもしれない。
「年下相手だからって学ぶべきことがない、と思うのは危険だね」
「人はどんなことからでも学ぶべき生き物だと思いますよ。秋生さんの選択した未来が、後悔ないものであれば私は嬉しいですよ」
「この家でそう言ってくれるのは小川さんだけだよ。あぁ、夕食の準備があるのに引き留めてすみませんでした」
「いえ、少しでも気晴らしになったのであれば、私は嬉しいです。ただ、奥様の言葉も秋生さんを心配してのものだとは思いますよ。子どもに幸せになって欲しいと思うのは親として共通した感覚ですから」
確かに小川であれば、子どもの将来も心配するし、幸せになって欲しいと願うに違いない。けれども、秋生の母親は違う。基本は自分の幸せのために、子どもを言いなりにしたいだけだ。
「母の所有物扱いですけど」
「所有物だって、不当な扱いされたら持ち主は不快なものです。もし秋生さんが誰かに差し上げた物を、大切にされなかったら不快に思いませんか?」
「物にもよるかな……でも、小川さんの言うことには一理あるかもしれません。全く心配してないし、幸せを願ってもいない、という考えは少し改めます」
「そうして下さい。私は秋生さんが必要とされていないと思っていることが、とても悲しいですから」
さすがに長年の付き合いは伊達じゃない。そこまで見抜かれているとは思ってもいなくて、苦く笑えば小川は穏やかにほほ笑む。
「少なくとも私は秋生さんを大切に思っていますよ」
「うん、ありがとう。少し救われる気がするよ」
「差し出がましいことを言ってしまってすみません。またお食事の時には内線を入れますので」
「お願いします」
一礼すると小川は部屋を出て行ってしまい、秋生は椅子の背凭れに身体を預けると大きく溜息をついた。
まるで小川に心の奥底を見透かされた気がした。誰もこの家で今の秋生を必要としていない。必要なのは医者を目指す秋生であって、今の自分ではない。
誰からも必要とされない。それは少し恐怖にも似ている。いや、もしかしたら恐怖そのものなのかもしれない。誰からも必要とされない、それは生きる意味がないことに等しい。
考えても意味のない考えを、軽く頭を振って捨て去ると小川の持ってきてくれたコーヒーに口をつける。温かいコーヒーは強張った心もほぐしてくれて、ようやく秋生は再びシナリオと向き合った。
八時前になると小川から内線が入り、机の上に広げてあったシナリオを一旦片付けてから部屋を出た。ダイニングに入れば、すでに父親は席についており、秋生は少し緊張しながら椅子に腰掛けた。
「元気にしていたか?」
「えぇ、風邪をひくこともなく元気ですよ。父さんはどうですか?」
「いつも通りだな」
二人だけの会話はいつもここから始まる。普段会話しないこともあるのだろうが、父親は会話の引き出しが余り多くないのだろう。比べることは馬鹿げているが、修平の父親とは全く違う。
それからは最近の近況などを語りながら本題には触れない、どこか上滑りな会話を交わしながら食事を取る。そして最後に小川がコーヒーを運んできたところで、秋生が口にするよりも父親の方が本題をテーブルに乗せた。
「医学部に進まないと聞いた」
「はい、文学部に行きたいと思っています」
「そうか……母さんがから理由は聞いているが、秋生の口から聞きたい」
「小説家になりたいんです」
「それは医者になるよりも確率の低い話だな」
どこか素っ気ないのはいつものことだ。母親のように食って掛かってくるよりも、興味がなさそうなところがヒヤリとする。
「親の敷くレールに乗るのが嫌になったのか。それとも、本気で目指したいと思っているのか」
「どちらもです」
「そうか」
そのまま口を閉ざした父親はコーヒーに口をつけた。母親が何と言おうと、父親を説得できれば勝負はある。結局、母親が何を言ってもこの家で最終的な決定権があるのは父親だ。
「夢がないより夢がある方がいい。だが二十五までに結果を出せないなら、違う道を探しなさい。いつまでも夢を追いかけているような大人は、現実が見えないただの馬鹿だ」
「それでは進学を認めてくれるんですか?」
「学費か生活費、どちらかは出そう。だが私としては全面協力するつもりはない。本気であるなら、その本気を見せるだけの努力を示すべきだ」
それは半端すぎる言葉で、秋生としては複雑だ。小説家になる夢を捨てろとは言われなかった。だが求められたのは努力と結果だ。
「秋生が言うように文学部へ行くのであれば、家を出なさい。家を出て、一人で暮らしてみて、生活の大変さを学ぶことも大切だろう。そして、本当に小説家として自分の生活を支えられるのか、きちんと考えて将来を決めなさい」
「反対はしないけど、賛成はしない、ってことですか?」
「そういうことだ。一人で暮らしてみて、今どれだけ自分の環境が甘やかされた上に成り立つのか、そのことをよく考えなさい。もし、生活費か学費のどちらかしか出さないことに不満があるなら、母さんの言う通り医大に進むことだ。勿論、その時には生活費も学費も全面的に負担しよう」
「結局、医者にしたいということですか?」
「文学部を卒業してお前に何が残る?」
秋生の質問に父親は答えず、質問で返してきた。だが、その質問に秋生は口を噤む。実際、何度か考えたのだ。大学卒業時までに物になっていなければ就職だってしなければならない。その時、文学部卒業というのは果たしてどれだけ自分のためになるのか分からない。
「私はお前が物心ついてからは、自分で決めたことに反対したことはない。私学に行きたくないというのも聞き入れたし、今回も反対するつもりはない。だが、将来を考えれば諸手を挙げて賛成できるものでもない。自分でも難しいことだということは分かっているのだろう」
今回、ゲームを作るに当たってどれだけ自分に足りないものがあるのか、それはケイや光を見て肌で感じた。だからこそ、短く返事をすれば父親は小さく溜息をついた。
「進んで苦労を背負わせたい親はいない。秋生が言う道は恐らく簡単なものではないだろう。恐らく努力だけではどうにもならない、時には運すら必要になる」
それは秋生にも分かる。確かに小説家というものは努力だけでなれるものではない。運もあるだろうし、タイミングもある。
「いきなり苦労させるよりも、段階を作って苦労する意味を教えるのは親の勤めだと私は考えている。私の言葉で選択を変更するならそれで構わない。だが恐らく小説家というものは水物だ。医者になるよりも難しいことだろう。少なくとも、私は文筆業だけで食べていける人間を片手で足りるほどしか知らない」
父親がこれだけ話すことは珍しい。けれども、それは確かに秋生を考えての言葉のように思える。
「泣き言は聞かない。物になるまで家には戻るな。だが夢を諦めたなら、どういう選択をしたのか報告するために一度家に戻りなさい」
賛成はしないといった父親なりの妥協点なのだろう。それが分かっているからこそ、秋生は覚悟を決めて頷いた。
父親もすでに秋生が決意を翻すとは思っていないのだろう。認められてはいない。けれども、頭ごなしに反対することはない。
「母さんには何て」
「普通に話す。だが、お互いに精神の平穏を取るためにも大学に入学したら離れた方がいいだろう。母さんは秋生に対して病的だ。恐らくお前の選択を受け入れられないだろう。私の一族がよってたかって、お前が生まれた時に呪いのように医者にするべきだと言われ続けたからな」
それは秋生が今まで聞いたことのない、両親の、そして一族の過去だった。両親と話す機会が少なかったこともあるが、余り両親は親族について話をしたがらない。そういうことがあったから、余計話したくなかったのだろう。
「しばらく母さんも納得しないだろうが、無理に何かをしてくるようなことはないだろう。秋生は自分が決めた道を進みなさい」
それだけ言うと、父親は最後に残っていたコーヒーを飲み干すと椅子を立ち上がった。
「そういえば、今何やらしているらしいな」
恐らく母親から出かけたりしていることは聞いているのだろう。少し悩んだ末に秋生は素直に質問に答えた。
「友人たちとゲームを作っています」
「そうか。好きなことをするのは構わない。だが秋生自身のためにも成績は維持しなさい」
「分かりました」
言いたいことを全て言い終えたのか、父親はそのままダイニングを出て行ってしまう。残された秋生は、ようやく緊張を解くと大きく溜息をついた。
進路について反対されない。それは秋生にとって充分すぎるほどの結果だった。そして心底軽蔑していた母親について知れたことは大きかった。確かに母親自身の見栄もあるだろう。だが母親も一種の被害者だった。
それを知った今なら秋生も譲歩はできる。少なくとも、母親に向ける軽蔑じみた眼差しを隠すくらいのことはできるに違いない。勿論、これからも母親とは進路が決まるまで揉めるだろう。けれども、賛成はしないが反対もしないという父親の立場が秋生を守ることになる。
賛成してくれるとは最初から思っていなかったから落胆も少ない。だが父親が出した課題は小さくない。現時点で秋生にどれだけの能力があり、どれだけのレベルにあるのかは分からない。だが、父親の言う現実の見えない大人にはなりたくない。
とにかく夢を諦めないラインが見えた。それは秋生にとって大きなことでもあった。そして進路についての心配事が減ったこともあり、秋生が今考えるべきことは一つだ。
だからこそ勢いよく椅子から立ち上がると、シナリオを薦めるべく足早に秋生は自室へと向かった。

* * *

いつものように朝早くから教室に入れば、そこには修平がいる。机の上に紙を広げて集中しているのはいつものことだ。けれども、その風景に安堵する自分がいる。
「おはよう」
「はよ」
いつもであればそのまま紙に視線を落としたままの修平が、珍しいことに顔を上げた。
「親に殴られなかったか?」
「うちの親が手を上げると思う?」
「……ないな。で、結果は?」
昨日の今日だというのに、秋生の決意は修平まで伝わっていたらしい。勿論、結果を修平に隠す必要はない。だからこそ、父親と話したこと、母親からの理解は得られないだろうこと、それらを伝えれば、修平はやっぱり笑った。
「じゃあ、まず第一歩だな。父親だけでも説得できたなら担任もすぐに陥落するだろ」
修平のそういうポジティブさは秋生にない部分だ。だからこそ、修平の前向きさに秋生は何度も救われている。修平は考えすぎだというが、これが秋生だから今更どうにもならない。
「そう願うよ」
「おう願っとけ。願うのはタダだしな。けど、大学で生活費か学費しか出さないって結構究極の選択だよな」
「まぁね。でも、僕にとってはチャンスだ」
「何はともあれ良かったな」
そう言って修平が笑ったところで、廊下からパタパタと足音が聞こえてくる。この時間から校舎にいる生徒は珍しい。思わず修平とともに扉を注視していれば、そこから現れたのはケイだ。
「本当に早い時間に来てるんだ」
「まぁな。つか、ケイの方こそ珍しいだろ。どうした」
「ちょっと問題発生。早朝にメール送ったんだけど、昨日ロープレのラスボス、光が操作したらフラグがおかしなことになってるって。音楽入れ替える時に何かしたんじゃない?」
「げっ、マジか。家に帰ったら速攻見てみる」
「それから、今朝送ってきたアニメ、コマ落ちしてる。そっちも確認お願い」
「マジかよ……分かった、見ておく」
本気でうんざりしたような顔をした修平だったが、大きく溜息をつくと丸めていた背筋を伸ばした。
「丁度良い。ちょっと二人に聞きたいことがあったんだ。ケイも時間あるなら混じれ」
修平の言葉でケイは近くの椅子を引き寄せると輪を作る。三人で顔を付き合わせて、修平が紙面で説明する問題点についてお互いに議論を交わす。
ゲームを作り始めた時、もっと簡単に考えていた。気持ちも軽いものだったし、今とは全く違う。
こうして顔を付き合わせて議論を交わすことは、お互いに本気だからこそ正直疲れる。ただ、ここまでお互いに譲り合いなく意見を交わしてできたゲームは、果たしてどんな評価を受けるのか。少し先にある未来を考えると、秋生はそれだけで楽しい気持ちになれた。

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