Chapter.IV:選びとる未来 Act.01

制服を身につけネクタイの結び目を鏡で確認すると、鞄を持って部屋を出た。階段を下りれば「おはようございます」と声を掛けられて、秋生も同じように挨拶を返す。挨拶したのは、秋生が子どもの頃からいる家政婦の小川だ。今年六十になるということで、秋生も先月プレゼントを渡したばかりだ。
「奥様がダイニングルームでお待ちです」
「父さんは?」
「今日は昼から海外で会議があるそうで、早朝に出発なされました」
「そう、ありがとう」
正直、母親と二人だけの食事は気が重い。父親がいれば、母親の気が父親に向いているから、秋生は何も話す必要がない。恐らく今日の話題も、秋生の進路についてだろう。
中学の頃から、成績維持と進路についてはうるさいくらいに言われてきた。家庭教師などつけて貰っている手前、成績はそれなりに維持しているつもりだ。ただ、進路については自分が医学部に入ることを母親は疑っていなかったらしい。
だから二年の終わりに、文学部と進路希望用紙に書いてから母親との折り合いは酷く悪い。元々、母親との折り合いが良かった訳ではないから、さらに面倒なことになっただけだ。
代々医者だった父親とは進路について話したことがない。ただ、やはり母親と同じく秋生が医者になることを望んでいることは話しの端々から分かる。父親は秋生が文学部を希望したことにどう思っているのか一度も触れない。いや、それ以前に母親は秋生が文学部を希望していることすら伝えていない可能性もある。
家族三人揃って毎日食事はしている。ただ、客人がいることも多く、基本的に三人で食事をしたのは今年の四月、進学祝いと称して外食した時くらいかもしれない。だから、父親が秋生についてどこまで知っているのか分からない。
ダイニングルームの扉を開ければ、朝の日差しが部屋一杯に広がっている。壁に飾られる絵画などが数点あるが、秋生としてはこんな日差しの強い場所に置くのは勿体ないと思ってしまう。
無駄に装飾されたシャンデリア、二十人近くが座れるダイニングテーブル、そして秋生以外見る物がいない飾りとしての絵画。母親の希望で作られたこの部屋全てが、成金くさくて秋生は嫌いだった。
「おはようございます」
「おはよう、今日は随分ゆっくりね」
嫌味な口調は今日も相変わらずらしい。昨日はゲームのテストをするために、つい夢中になりすぎて寝たのが三時過ぎだったため、いつもより起きるのが遅れた。それは秋生の都合だから遅れたことは確かに悪い。
けれども、何もここまで嫌味っぽく当て擦る必要があるとは思えない。三年になって出した進路希望用紙を見てから、母親が機嫌の良いところなど見た記憶がない。
持っていた鞄を隣の椅子に置くと、秋生は母親の正面にある椅子へと腰掛けた。一緒についてきた小川は一礼するとキッチンへと消えてしまう。途端に空気が緊張したものに変わるのを肌で感じる。
「秋生さん、あなたの担任の先生からお電話がありました」
「そうですか」
「あなた、本気で文学部を目指すつもりですか?」
「そのつもりです」
「あなたの成績なら医学部も難しくないでしょ。医学部を受験なさい」
「お断りします」
秋生としては冷静に対応したつもりだった。けれども、逆に母親を逆撫ですることになってしまったらしい。
「何かをしたいなら、まず手に職をつけてから言いなさい。文学部に行って小説家になる? 冗談じゃないわ。そのために秋生さんを育てた訳じゃないのよ!」
「育てて貰った恩は感じています。けれども、自分が進むべき道は自分で決めます」
「文学部なんて行っても学費は払わないわよ」
「どうぞ好きにして下さい」
「私はあなたのために言ってるのよ!」
「それはあなたの押し付けでしかありません。失礼します」
言い捨てるように立ち上がると、丁度秋生の食事を持ってきた小川にすれ違いざま小さく謝る。鞄を持った秋生は少し早い時間ではあるが、そのまま玄関先に向かう。慌てたように小川が追いかけてきて靴べらを差し出してきた。
「ごめん、機嫌損ねちゃった。しばらく機嫌悪いと思う」
「それは別に構いませんけど……お食事取らずに宜しいのですか?」
「別に一食抜いたくらいで死にはしないよ。それに、いざとなれば途中で買って食べるから。いつも迷惑掛けてごめん」
「そんな謝罪されることはありません。行ってらっしゃいませ」
少し心配そうな顔をする小川に笑顔で挨拶すると家を出た。玄関を出れば両サイドに作られた庭がある。その真ん中を煉瓦造りの小道が二十メートルほど続く。季節の花ではなく、薔薇ばかりが植えられた庭は母親の趣味だ。
正直、秋生としてはこの庭も余り好きではない。少女趣味といえば聞こえはまだいい。ただ、母親が金に任せて見栄えのいい庭が欲しいだけで、薔薇が好きな訳でもない。そういう周りへの見栄のためだけに作られた庭が本気で嫌だった。
母親の言う良い物というのは金の掛かるもので、その他を見ようとしない。それ以前に、母親にとって価値のないものは毛嫌いする傾向にあり、いつからか苦手になった。そして苦手意識が膨らみ、会えば小競り合いになる今は、できる限り顔を合わせたくない。だからこそ、顔を会わせなければならない朝食時間は心底面倒だった。
学校に到着した時にはまだ七時半で、この時間に来ているのは部活をしている生徒ぐらいだ。それにも関わらず教室に入れば修平がいる。
「おはよう」
「ん、はよ」
三年になってから進路によってクラス分けがされ、四月から修平とは同じクラスになった。おにぎり片手に視線は紙の上を追っている。
母親と上手くいかなくなってから秋生の登校時間は早くなった。それに気づいたシュウがいつからか、自分より早く学校に来るようになっていた。でも、そのことについて修平が何かを言うことはない。
「アキの方はテスト、どこまで進んだ?」
「一応ロープレの方は昨日で終わり。今日からアドベンチャーのテストに入る予定。まだまだ先は長いね」
「光が学校に慣れてきたから、土日だけでもテストに加わりたいって言ってる」
「それはとても助かるよ。正直、一人でやるにはちょっと辛いし」
「だよなぁ。ケイも頑張ってはいるけど、今がフル稼働状態だからテストなんて無理だし。一応、俺も少しアドベンチャーの方はテスト進めてる。被ると勿体ないから、あとでテスト範囲考えないとな」
ぼやきながらも紙から顔を上げた修平は、鞄の中から包みを二つ取り出すと秋生に差し出してきた。
「何これ」
「おにぎり。また飯食ってないだろ」
「……バレてる?」
「バレバレだっての。お前、あれだけ腹の虫豪快に鳴らしていて気づかなかったらおかしいだろ」
「そこは普通聞こえないふりしてくれる所じゃないの?」
「お前相手にそんな気遣いいらないだろ」
差し出されたおにぎりを素直に受け取れば、丸いおにぎりが手の中でわずかに転がる。
「シュウのお母さんにお礼言わないとね」
「別に必要ねぇよ。それ作ったの俺だし」
一瞬、聞き違いかと思った。思わずまじまじと修平の顔を見れば、もの凄く嫌そうな顔をされてしまう。
「食いたくないなら食うな」
「いや、そうじゃなくてさ、シュウってそういうキャラじゃないっていうか」
「光に偉そうなこと言った手前、少しは自分でできることからやってみようかと思ってな」
「光くんに? 一体何を言ったの?」
「教える訳ないだろ。光との秘密だからな」
そう言って笑う修平はどこか楽しそうで、いつもクラスメイトに見せるクールさなんてものは欠片もない。
どうやら秋生が知らないところで修平は光と仲良くなっていたらしい。面倒見のいい修平らしいとも言える。
秋生におにぎりを渡した修平は、再びシャーペン片手に手元の紙を覗いていて、そこには記号がちりばめられている。ゲーム進行用のフローチャートだと聞いたけど、先日見せて貰ったものよりも随分複雑なものになっている。
「何か凄いことになってるね」
「まぁな。アドベンチャーの方は色々フラグが必要だし、こういうのきちんと形にしておかないと、後で組み違えそうで怖い」
「大幅修正するには時間がないもんね」
「そういうことだ」
既に季節は四月末。コンテストの締切までに二ヶ月しかない。ミスができないことは秋生にも分かる。
「つか、こんな時期になって言うのも何だけど、アキのシナリオ、少し見直してみてくれないか?」
「見直し? それはどういう意味で?」
「ゲーム作り始めた頃に言ってただろ。ほら小説っぽいって。やっぱり、あれちょっと気になるんだよな。確かにアキは小説家希望だからそういう書き方になるのは分かるけど、どうにもおかしいところが多くて、文字打ち込んでも違和感あるんだよ」
確かに初期の頃にケイに指摘されたことがあるが、あれ以来何も言わないから改善されたものだとばかり思っていた。
「何で今さら言い出したの? もっと早く言ってくれたら良かったのに」
「気になってたけど、ケイや光も何も言わないからいいかと思ってたんだよ。でも、どうせここまで作り込むならヤバいところは出来るだけ潰したくなった」
気持ちとしては分からなくもない。誰もが本気でやっているのだから、修平も手抜きは認めない、といったところなのだろう。勿論、秋生としては手を抜いたつもりはないが、ゲームのシナリオとして余り上手くないということなんだろう。
「一応、シナリオの書き方本みたいなものは読んだけど、やっぱりそれだけじゃ足りないか。正直、言いたいことは分かるけど、これ以上どうすればいいのか分からない、っていうのが本心かな」
秋生は修平が作ったという丸いおにぎりのアルミホイルを剥がしながら、自分のレベルについて語る。すると紙面を追っていた修平も顔を上げると、手にしていたシャーペンを机に投げ出した。
「まぁ、難しいところだよな。小説とシナリオって根本的に違うもんだし。ただ話し自体は悪くないんだよ。だからもの凄く勿体ない気がするんだよな。何かいい案か……少しケイとも話してみるか、そこらへん。ケイなら同じ作り手として何かアイデアが浮かぶかもしれないし」
「そうだね。後でメールしてみるよ。でも、修正するにしてもテストが止まるよ? その分はどうするつもり?」
「俺がするよ。とりあえず、今はケイのイラスト上がり待ち状態だしな。それに土日光が手伝うならどうにかなるだろ。っていうかどうにかする」
こうして話していても、少し前の修平とは比べものにならないくらい本気になっていることが分かる。焚きつけたのは自分だけど、修平は随分と変わった気がする。あの投げやり感が全体的に影を潜めたように見える。
実際、授業中も真面目に授業を受けているし、前は嫌々やっていたテスト勉強も随分熱心になっている。
「ねぇ、シュウは進学先の希望あるの?」
「あるよ。二年の終わりになってようやく決まった状態だけどな」
「どこって聞いてもいい?」
「経済。できるだけ顔が利きそうな大学の経済に進もうと思ってる」
「随分予想外のところに決めたんだね。正直、シュウなら適当に進学しとけばいいや、くらいだと思ってた」
「うーん、まぁ、これ始めるまではそう思ってたな」
そう言って指先で叩いたのは、フローチャートの書かれた紙だ。今回のゲームがきっかけというのであれば、プログラマーならまだ分かる。けれども、何故経済希望になったのか、それがよく分からない。
「全然繋がらないんだけど」
「何かさ、今回これ作って思ったんだよな。正直、このゲーム面白いと思うんだよ。まぁ、多少自分かわいさとか、贔屓目もあるとは思うけど。でも、俺たちみたいな学生が作った面白いゲームって、まだ沢山世の中にはあるんじゃないかと思ってさ。そしたら、そういうのが発掘したくなった」
「それで、発掘したゲームを世に出す会社を作りたくなったってこと?」
「そういうこと。単純な理由かもしれないけど、どうせなら自分が楽しめることをしたいと思った」
「単純じゃないよ。きちんと考えていると思うよ。正直、ちょっと凄いと思った」
秋生がなりたいのは作り手だが、発掘する楽しみを見出した修平の気持ちも分からなくはない。けれども、修平はきちんと先を見据えて考えている。業績が絡む先の未来までは分からないが、恐らく今の修平であれば経営者になれる可能性は高い。
そういう意味では光も不安定さはあるものの、まだ高校一年生。これからどう化けるか分からない。それでも、自費制作CDをあれだけ売上られる技術はある。あれらの曲にさらに磨きが掛かれば、やはり業界が放っておかない気がする。実際にオファーはあったと聞いている。
それを考えれば自分はどうだろう。ケイのようにプロになることの確約は何もない。ただ小説家になりたいだけの人間であれば世の中にごまんと居る。文学部に入れば小説家になれる訳でもない。一番この中で足場が不安定なのは自分かもしれない。
投稿は一年の時からしているが、二次落ち、三次落ちが常で最終選考まで残ったことは、まだ一度もない。果たして自分が物になるのか。そう考えると、果たして自分の未来へ続く道は幾つあるのか考えてしまう。
確かに親がいう医学部へ進学すれば、間違いなく職にあぶれる危険はないだろう。なら文学部に進んだ場合の未来は、小説家以外に何があるのだろうか。それを考えると気が滅入る。
「とりあえず、週末打ち合わせするぞ。ケイにシナリオのことについて意見も聞きたいし、光のテストもどこをあてるか考えないといけないからな」
「分かった、週末は明けておくよ」
「そうしてくれ。何をするにもそろそろ時間との勝負になってきたしな」
「そうだね、頑張らないと」
母親を説得することは既に秋生の中で諦めている。だが、結果を出せば父親は何かしら考えてくれるのではないか、という気持ちがある。そのために今はとにかくこのゲームで結果を出すしかない。
勿論、その前に父親とはきちんと話しだけはしておかないとならないだろう。それは秋生にも分かっているが、どうにも母親と同じ意見しかないように思える父親にどこまで話せるのか、それを考えるとやはり気が重かった。
クラスメイトが数名入ってきたところで、修平は即座に机に広げていた紙を片付けると、最後に残っていたおにぎりを口に入れる。そして最近聞いたCDの話しなどを振ってきた。
別にゲームを作っていることを隠す必要はない。ただケイのこともあるから、必要以上にクラスメイトの前でゲームの話しをすることはない。そう言ったのは秋生自身だ。だが、本当の理由はまだ芽も出ていない自分がシナリオを書いていることを知られたくないだけだ。
そういう自分を卑怯だとは思う。けれども、それを胸張って言えない時点で自分の本気というのは甘いのかもしれない。
ケイのように何かを捨てることはできない。だからといって、胸を張れる訳でもない。中途半端な自分が嫌だと知りながら、秋生はいつものように机から読みかけの文庫本を取り出す。そして、修平がクールという仮面を被るのと同じようにクラスの風景に溶け込んだ。
授業が始まる直前、秋生はケイに週末の打ち合わせ、そしてシナリオについてメールをした。しかし意外なことに、ケイからは昼休みに音楽室へ来るようにメールが返ってきた。学校での接触を嫌うケイにしては珍しいことで、同じメールを受け取ったらしい修平と顔を見合わせる。
ケイにどういう意図があるのか分からない。ただ昼休みになると、クラスメイトの視線を避けるようにして、ひっそりと二人で教室を抜け出した。そして音楽室に入れば、そこには音楽教師である高坂がぼんやりと外を眺めていた。
「あれ?」
そこにケイの姿はなく、さも意外と言わんばかりの声を修平が上げれば、窓際にいた高坂がゆっくりと振り返る。
「あぁ、朝霞が言ってた二人か。あいつなら準備室にいるぞ」
のそのそと遣る気無さそうな高坂は、傍にある幾つもの穴が開いた防音扉を開けた。
「おい、朝霞、お前が言ってた客が来たらしいぞ」
「こっちに入って貰って下さい」
「おいおい、それは勘弁しろ」
「大丈夫です。楽器に触らせたりはしませんから」
ケイの声にバリバリと頭を掻いた高坂は渋々といった様子で、扉を大きく開けた。
「おら、お前ら朝霞に用があるんだろ。入れ」
言われるままに中へ入れば、最後に高坂も一緒に入ってきた。
「先生、だから楽器は」
「馬鹿そういう問題じゃないだろ。お前、男女で準備室にしけ込まれたとか言われたら後で俺が何言われるか分からないんだよ。ったく」
「……先生って結構大変なんですね」
どこか同情含みのケイの言葉に、面倒くさそうな様子で高坂は近くのパイプ椅子を引き寄せた。そして、そのままどっしりと座り込んでしまい、動く様子はない。
修平の視線が「いいのか?」と高坂へチラリと視線を向けたが、ケイは肩を竦めた。
「とりあえずメール読んだ。正直、シュウが言ってたこと、私もちょっと思ってた」
「僕もシュウが言う通り、今からでも直せるなら直したい。でも、三人には余裕ないから自分でどうにかしないといけないけど、ただその方法がね……」
「シナリオ本とかは?」
「一応目を通したけど、読んだ上であれなんだ」
「なぁ……」
話しに加わっていなかった修平が唐突に話を遮った。何かと思って視線を向ければ、修平の視線は高坂に向いている。思わず秋生もつられるように高坂を見つめる。
「な、何だよ。俺は別に他言したりしねぇぞ」
「いや、そうじゃなくて、高坂先生って確か現国の若葉先生と仲良しだったよな」
「あ……あぁ、そうだが……お前まさか、俺を利用しようと思ってるんじゃないだろうな」
「基本的に利用できるものは親でも利用するタイプなんで」
「お前、そんなんじゃ女の子にもてないぞ」
「充分間に合ってます」
「……可愛げねぇな」
もの凄く嫌そうな顔をした高坂は、面倒事に巻き込まないでくれとその顔が語っている。でも、秋生としては藁にでも縋りたい心境だ。だからこそ、秋生もそのまま修平の言葉に続く。
「高校生男子が可愛げなんて必要としていないと思いますよ。若葉先生紹介して下さい」
「お前らのプライベートに付き合うほどあいつだって暇じゃない」
「大丈夫ですよ。可愛い生徒に言うことじゃないですか。それに現にこうして私のプライベートに高坂先生は協力してくれている訳ですし」
口を挟んだのはケイで、その口調はどこか楽しげなものだ。
「それはお前の元担任から頼まれたからだろ。……ったく、断られたら素直に諦めろよ。教師だって給料外のことはしたくないんだ」
それだけ言うと、高坂はポケットから携帯を取り出すとどこかに掛け始めた。
「あぁ、高坂だけど……あぁ、いやお前に用事があるらしい生徒がここにいるんだが……あぁ、音楽準備室だ。悪いが助けると思って来てくれねぇ。俺このままだと袋にされそうな勢いなんで。おう悪いな、頼むわ」
こうして聞いていると、例え先生とはいえども会話の内容はまるで自分たちと変わらない。それでも、高坂は秋生が聞いている限り、かなり厳しい先生だと聞いている。だから、このどこか府抜けた雰囲気は意外だった。
「おら、これから若葉がここ来るってよ。交渉は自分たちでどうにかしろ」
「先生、やっぱり優しいじゃん」
「お前もその豹変ぶりどうにかしろ。ったく……この二重人格め」
「まぁ、お説教は初日にうるさいくらい聞いたので、説教用の耳は閉店しました」
「本当に、どいつもこいつも可愛げねぇ」
どうやら既にケイは高坂とは随分馴染んだ雰囲気がある。それだけここに多く通わせて貰っているらしい。
「そういえば、ケイはどうしてここに?」
「私は去年からここで高坂先生に頼んで楽器のスケッチさせて貰ってるの。楽器なんて見る機会滅多にないから、今の内にスケッチとか写真とか資料になるものは多く残しておきたいから」
「あぁ、そうだよね。確かにそういう意味では学校って資料の宝庫なんだ」
「そう。だからあっちこっちで先生に頼み込んでスケッチさせて貰ってる訳。まぁ、そんなことより友達作れって高坂先生みたいに、小うるさい先生もいるけど」
「小うるさくて悪かったな。先生に限らず、大人としての一般的な意見だ。つか、お前らは仲が良かったのか」
「友達っていうか……仲間かな。それがしっくりくる気がする。でも、学校内ではこうして口利くことはしない。ほら、二人に構うと他の女子がうるさいし」
「あー、まぁ、そうだな。つか、お前ら一体何をしてるんだ?」
その問い掛けに、ケイは途端に口を噤む。そして振り返った顔はどうする? 言う? と問い掛けている。
どちらにしても、若葉に頼む時点で全て言わなくてはならないのだから、今言っても、後で言っても同じことだ。だから秋生は肩を竦めて見せた。隣にいる修平も同じ気持ちらしく、仕方ないみたいな顔をしている。
「ゲーム、ここにいる三人ともう一人、四人でゲーム作ってる。コンテストに出すために」
「ゲームねぇ……だからシナリオか。ってことは、先の会話からしても坂戸がシナリオ担当、朝霞がイラスト……川越、お前一体なにやってるんだ?」
「プログラム組んでるんですよ。何か俺が何も出来ないような言い方しないで下さいよ」
「いや、悪い、悪い。正直、成績も下から数えた方が早い川越が何をするかと思ってな」
「今は中の上を維持してますよ」
「ふーん、まぁ、何か作ろうと思うことはいいんじゃねぇの。お、来たぞ」
高坂の言葉と同時に準備室の扉が開き、生真面目そうな顔をした若葉が入ってきた。
「……高坂先生、どういうことかしら」
「そりゃあ、お前、あいつらに聞けって」
高坂はパイプ椅子に座り仰け反った状態で、秋生たちの方へ顎をしゃくった。そして若葉がこちらへと顔を向ける。
「三年生、よね」
「はい、三年の坂戸と言います。すみません、呼び出しみたいな真似をしてしまって。先生にお願いがあって高坂先生に無理矢理頼みました。先生でも先生の知り合いでもいいので、シナリオを書ける方はいませんか? 僕のシナリオ、何がいけないのか見て欲しいんです」
「シナリオ? それは内容を評価して欲しいってこと?」
「いえ、できたら内容に手は入れないで欲しいんです。ただ書き方というか、基本的なことが分からなくて」
そのまま黙り込んだ若葉は、何かを見極めるかのように秋生を見ている。秋生もそんな若葉から目を逸らすことはしない。
「内容を見なくていいなら、私が見ても構わないわよ。どういう意味の評価が欲しいのかいまいち分かりづらいけど、原稿見ながらなら分かると思う。一応、シナリオは教職前に書いたことがあるから」
「有難うございます。あ、でも今日は原稿を持ってないので」
「俺、持ってるよ。ただ、俺の書き込みも酷いけど」
言葉を挟んだのは修平だ。確かにフローチャートを書いていたぐらいだから、原稿も持って歩いているのだろう。
「それで構わないわよ。放課後職員室に持っていらっしゃい」
その言葉に光明は見えた気がした。とにかく今はどんな意見でも欲しい。秋生には分からないが、ゲームを遣り慣れたシュウとケイが言うのであれば、恐らくシナリオは何かがおかしいに違いない。
「有難うございます。放課後職員室に伺います」
「だが坂戸のところの担任現国だろ。何で担任に持ち込まない」
頭を下げてお礼を言う秋生に声を掛けてきたのは高坂だ。確かにその疑問も分からなくはない。
「ちょっと今進路のことで揉めてるので、勉強以外のことはちょっと持ち込みにくいんです」
今の担任は母親と同じく、医学部への進学を強く勧めてくる。けれども、やっぱり自分がやりたいことのために大学には進学したい。ただ、確固たる自信はまだないけれども、それを曲げたくない。
「進路? お前医学部希望だろ」
「何で高坂先生まで知ってるんですか?」
「医学部進学となれば、学校としては名誉だからな。それなりに浮き足だって話題にも上がる」
「実は文学部希望なんです。確かに二年までは医学部希望してたんですけど、やりたいことやってみたくて」
「あー……そりゃあ、担任も必死だな。少なくとも俺が担任でも必死に説得したくなる」
「高坂先生」
少し厳しめの若葉の声に、高坂は小さく肩を竦めた。どうやら教員の内部を話しすぎたというところなのだろう。確かに学校だって名声を上げたい。医学部合格という進路先は一つでも増やしたい気持ちも分からなくはない。
ただ、そういう学歴重視的なところも秋生としては嫌悪を覚えるものだった。別に先生のために学校を選ぶ訳じゃない。母親のために学校を選ぶためじゃない。八つ当たり的なものではあることを自覚しながらも、嫌悪することは辞められなかった。
「とにかく放課後待ってるわ」
「分かりました。授業が終わって落ち着いた頃に伺います。ケイと光くんの予定は?」
「光は午後から合流になると思う。午前中はレッスン入ってるから」
「分かった。そしたら午後からで構わないよ」
「そう言って貰えると助かる。正直、こっちも結構切羽詰まっててね」
「それじゃあ、僕たちは行くから」
「アキも無理しないでね」
その言葉に頷くと、修平とともに音楽準備室を出た。
ケイは無理しないでと言っていたが、今無理しないといつ無理すればいいのか分からない。とにかく秋生が欲しいのは結果だ。
「良かったじゃん。これで何がおかしいのか分かるといいな」
「そうだね。色々聞いてみるよ」
「おう、頑張れよ」
笑顔で肩を叩く修平に、秋生は笑い返す。ただ、その顔が引き攣っていないといい。ケイは切羽詰まっていると言っていたけど、それは量的な意味で切羽詰まっているだけだ。
人と比べることが正しいとは思わない。ただ、このメンバーにいて今、一番足を引っ張っているのは秋生自身に違いない。
だからこそ窓の外を眺める修平の横で、秋生は小さく唇を噛んだ。

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