年が明ける前々日、夕飯を終えた恵が話しがあると切り出したのは伯母のことだった。元々両親は生命保険に入っており、恵が二十歳になった時に弁護士から支払われることになっていた。恵もそこまでは話しを聞いていたらしい。
けれども、その話しには続きがあり、まだ恵たちが二十歳未満だった時には、保険金から月々二十万、引き取った人間に支払われる約束になっていたらしい。
勿論、そんな話しは恵も光も知らない。伯母は二人を面倒見ていると弁護士に報告しながらも、二十万を毎月せしめていた。
それは川越の母親が伯母から聞き出し、伯母を入れて担当弁護士を挟み話したことで発覚した。川越の母親は過去の分も取り戻すべきだと言ったが、恵はそれを断った。
その代わり、今後保護者が必要な場合、名義を借りることを約束し、光の学費は伯母が支払うことになった。国公立であれば二年分の着服金額をほぼ同額、けれども光が私立に入れば間違いなく足が出る金額だ。
それでも、警察沙汰になるよりかは、ということで伯母はこの条件を呑んで誓約書にサインした。
勿論、今まで伯母が受け取っていた二十万は年明けから恵に入ることになったらしい。確かに川越の母親が言った通り、生活はかなり楽になるに違いない。
保護者として名義を借りるが、伯母と今後会うことは極端に減る。全ては弁護士を挟んで遣り取りすることになり、会う必要が無くなったということだった。
それは光にとって安堵できることだった。あの伯母のことだ、会えばチクチクと文句を言うのは目に見えている。そして、恵は会うことになっても光には言わずに会いに行く。それを阻止できたことは素直に嬉しい。
本来であれば未成年者の二人暮らしは大々的に認められるものではない。けれども、既に二人で生活する基盤ができていること、今までの生活、それらを含めた上で検討して未成年である恵と光の二人暮らしが持続できることになった。
保護者の名義を借りる以上、迷惑は掛けられないということで恵は誓約書を作成して渡し、光が二十歳になるまで金銭的、社会的に迷惑を掛けないことを伝えた。
「まぁ、そんな訳でもめ事はNG」
「もめ事なんて起こさないよ」
「その辺は信用してるけどね。とにかくこれで問題解決。だから憂いなく光は受験に向けて頑張りなさい。絶対来年はいい年にするよ」
そう言い切った恵の顔は晴れ晴れとしたもので、本当に色々なことが解決したことが分かる。よく考えてみれば、ここまですっきりした恵の顔を見たのは久しぶりのことかもしれない。
「姉さんばかりにさせてごめんね」
「何で謝るの。光は受験生なんだからこれくらい当たり前でしょ。感謝するならシュウの母親に感謝しなさい。年明けたらきちんとお礼の電話入れて、そして本命受験頑張らないと」
恵の言葉に光は感謝とともに頷くことしかできなかった。とにかく今は目の前にある受験に向けて、光はただ頑張ることしかできない。
年が明けてから恵に誘われて一緒に初詣に行った。そこには川越と坂戸の姿もあり、四人でお参りをする。振る舞われた甘酒を飲みながら、どんな願い事をしたのか、そんな話題を出したのは川越だった気がする。
それに恵が悪ノリして、四人が同じタイミングで願い事を暴露することになった。そしたら誰もが光の合格祈願をしていてくれて、嬉しくて泣いたのは初めてのことだった。
てっきり三人はゲームでの成功を願うと思っていた。それなのに光の受験を本当に心配してくれる。
「でも、ゲームのことは良かったんですか?」
問い掛けた光を笑い飛ばしたのは川越だ。
「いいんだよ。そっちは自分たちの手で掴むもんだからな。でも光の受験は俺たちじゃ何もしてやれないからな。それこそ祈るくらいだ」
「シュウの意見に賛成かな。光くん、これだけお願いしたから合格するよ」
「っていうか、合格しなさい」
三者三様の励ましを貰い、泣きながら笑って返事をした。照れくさくて、でもそれが本当に嬉しかった。
そして二日には年賀状ならぬ手紙が自宅に送られてきた。それは田舎に行くと言っていた竹沢からのもので、中には学業成就のお守りだけが入っていて、その優しさを嬉しく思った。
一月半ばになるといよいよ入試が始まる。既に出願時点で自由作品は提出している。縛りはきつかったけど、久しぶりに曲を作ることは楽しかった。初日は副科のピアノ実技があり、これが一番緊張した。それから数日間が空くのは、他の実技試験を行うからだ。勿論、その間は学校に通わないといけない。
学校に行けば推薦で高校が決まった組と、受験組で少し空気が違う。それでも、ギスギスした雰囲気が全くないのは、担任と竹沢の存在が大きい。推薦組は受験組を気遣って、問題を出したりしてどこかほのぼのとした空気さえ漂う。
桜散る可能性もあったが、光も落ち着いた気持ちだった。それはある程度、腹を決めたからなのかもしれない。もし、今回がダメだったとしても大学受験でリベンジはするつもりだった。
本命の音高は一月半ばに入試があり、数日後にある面接の翌日には発表になる。もしこれでダメだった場合、二月末にある公立普通高校の入試を受けなければならない。だから、光もクラスでは問題を出して貰う側だった。
そして、最終日である二日目は学科試験、そして音楽理論、聴音、面接と続く。学科試験や音楽理論、聴音を終えると、最後の面接に挑むべくパイプ椅子に座り順番を待つ。
周りにいた誰もが応援してくれる。その期待に応えるために今日まで頑張ってきた。ポケットの中にある四つのお守りを握り締めると、扉が開き面接を終えた生徒が出てくる。そして光の名前が呼ばれて立ち上がった。
先日終えた実技は緊張したものの、落ち着いて演奏ができた。学科試験にも不安はない。楽典は不安箇所もあるが、聴音で失敗した記憶はない。残るは面接ばかりで、光は小さなビニール袋を手に面接に挑んだ。
志木からの提案で、販売用のCDではなくミックスダウン前のデータをCDに焼いた。いくつかの受け答えの後、CDを提出して面接は滞りなく終わった。緊張はした。後は結果を待つしかない。
家に帰れば恵は試験については何も聞いてこなかった。それは信頼なのか、気を遣った結果なのか光には分からなかった。ただ、変につつかれるよりも気は楽で、久しぶりに問題集を開くことなくその日は眠りに落ちた。
そして面接のあった翌日、光は一人で音高に向かった。一応、夕方まで待てば合格発表の封書が届くことにはなっていたけど、それを待つほど心の余裕がない。担任から休みの許可を取り一人で向かった音高は、募集人数より遙に多い中学生が多くいた。
昼十二時になると、先生らしき大人が掲示板に紙を貼り出す。受験番号の書かれた掲示板の前に立つと、光も他の学生と一緒になって掲示板を見上げた。百番台半ばの番号を必死になって探していると、その中に光が探していた番号を見つける。
湧き上がる喜びを抑えて、手元にある番号をもう一度照らし合わせる。そこには確かに光の受験番号が書かれていて、ぶわっと身体中から何かが溢れ出すような感覚が湧き起こる。
どうしよう、早く、早く伝えないと 。
慌てて人混みの中から抜け出すと、携帯を片手に校門へと向かう。既に合格が分かったからこの場所に用はない。喜びで震えてしまう指先を叱咤しながら、どうにか電話帳を呼び出したところで「光」と名前を呼ばれた。
生まれた時から聞いていた声を聞き違える筈もない。携帯から顔を上げれば、校門のところには恵が立っていた。いや、恵だけじゃなくてそこには川越や坂戸までいた。驚きで携帯を落としそうになる光を三人は笑う。
「あの、僕」
「合格したんだよな」
「はい! 合格です」
「まぁ、あれだけの曲作れたら不合格の筈ないよ。でもよく頑張ったね」
「あの学校はどうしたんですか?」
「今日まで学年末テスト。だから来ちゃった」
そう言って笑うのは恵で、恵が他の二人を誘ったのは明白だった。少なくとも、合格発表日を川越や坂戸に光は教えていない。でもこうしてこの場所まで来てくれた三人の好意が嬉しい。
「凄い嬉しいです。最初に伝えたいと思ってたから!」
「そう言って貰えるとここまで来た甲斐があるよ。そうか、来年から光くんはここに通うことになるんだね」
坂戸の視線がゆっくりと光から、背後にある校舎へと移る。同じように振り返り光も穏やかな日差しに照らされる校舎を見上げる。
ここ最近、自分ではありえないほどの努力をした。恵や志木に頼み込んでレッスンをさらに増やし、ピアノも〇時まで弾かせて貰った。その結果に涙が止まらない。
「光、とにかく担任の先生と、志木先生には連絡入れないと」
「あ、そうか」
袖口で涙を拭うと、手にしていた携帯から学校の番号を探し出す。担任からも連絡を入れるように言われていた。少し緊張しながら電話を入れると、授業を受け持つ担任を捕まえることはできなかった。だから伝言を頼めば、顔も思い出せない先生がおめでとうと言ってくれる。そのことが嬉しい。
次に電話をしたのは志木だった。コール音が鳴ったか鳴らないかの間に志木は電話に出た。
「光、どうだった」
「合格しました! 先生、色々有難うございました」
「お前の努力の賜だろ。よく頑張ったよ」
「もう、凄く嬉しくて……本当に……有難うございます」
志木の嬉しそうな声を聞いていたら、再び色々なものが湧き上がってくる。志木には何度もしかられた。楽典については、わざわざ別の先生まで連れて来て面倒を見てくれた。それだけのことをしてくれた志木に応えられたことが嬉しい。
「馬鹿、泣くな。入学してからも大変だぞ。これからもっと頑張らないとな」
「頑張ります。絶対に頑張ります」
「おう、頑張れ。そして今回みたいに結果出せ」
「はい」
それから挨拶を交わしてから志木との電話を切った。それから携帯を操作して、竹沢のメールアドレスを探し出すと、合格したことを伝えるメールを送った。すると十秒もしない内に折り返し電話が掛かってきて、慌てて耳にあてる。
「おめでとー! 合格したって?」
「うん、合格できた!」
「今、担任と電話代わるから待ってろ」
竹沢の後ろから「おめでとー!」という声が幾つも聞こえてきて、それがまた涙腺を弱くする。まだこれから受験を控えているクラスメイトもいるのに、それでもおめでとうと言ってくれるその気持ちが本当に嬉しい。目尻を拭う間に、携帯から竹沢を怒る担任の声が聞こえる。けれども、すぐに担任が電話に出た。
「合格したのか?」
「しました。先生、色々有難うございました」
「頑張ったもんな。必要書類は後で郵送されてくる筈だから、必ず期限守って提出するように気をつけろ」
「はい、本当に色々……」
お礼を言いたい。けれども、迫り上がる涙で言葉にならない。言葉に詰まっていれば、電話の向こうから涙ぐんでる、とからかう声が聞こえる。その声で電話向こうの担任も涙ぐんでいるのが分かる。
努力はした。けれども、それは色々な人たちの助けがあってこそ成り立つものだ。そして担任の先生は本当に親身に協力してくれた。楽典は志木のところで習うだけでは間に合わず、担任の口利きで音楽の先生からも教わっていた。二学期まで学校に行かなかった自分のために本当に色々なことをしてくれた。そう思うと涙が止まらなくなる。
「明日……学校行きます……」
「おう、待ってるからな」
「ありがとう……ございました」
「あぁ」
それから短い挨拶をした後に電話を切ると、横から恵がハンカチを差し出してくる。それを受け取り、素直に涙を拭う。
本当に努力した結果が実ると、こんなに嬉しいとは思ってもいなかった。何よりも、誰もがおめでとうと言ってくれるこの状況に感謝したい。
「あとは連絡するところはない?」
「あとは大丈夫」
鼻声でどうにかそれだけ答えると、恵がにんまりと笑う。
「よし、じゃあ行こう」
「……どこに?」
「シュウの家」
もしかして……。そう思う光に川越が軽く肩を叩く。
「帰って打ち合わせするぞ」
「……普通、こういう日くらいお祝いして嬉しいって気持ちに浸るものじゃありませんか?」
「おう、お祝いはしてやるぞ。光の合格聞いたら、うちの親が奮発して料理作るだろうな」
「え? あの……僕、今もの凄く感動してる最中なんですけど」
「そうだな。だがこっちも切実だ。何せ合格したからには、光の作業は三月末までに終わらせないといけなくなった。ってことは、時間がない」
「ちょっと待って下さい。だからって今日なんですか?」
「光くんの担当分、かなり修正が上がっていてね。ごめんね、こんな日に」
もの凄く申し訳なさそうに坂戸に言われてしまい、光もそれ以上の文句は言えない。もしかして、そのためだけにこの人たちはここにいるんじゃないだろうか、とまで疑ってしまいそうだ。
でも、このメンバーであれば、今さら遠慮も何もない。分かっているだけに小さくため息をつくと、数歩先を歩く三人を慌てて追いかける。
電車を乗り継ぎ、一時間掛けて川越の家に到着すると、珍しく川越の母親に迎えられた。結果を報告すれば、本当に嬉しそうに喜んでくれて光としてもその反応がやっぱり嬉しい。
腕によりをかけるという母親の言葉に、川越は「言った通りだろ」と視線だけで訴えてきた。そんな川越に小さく笑うと、二階に上がる。こうして川越の家に来るのは数ヶ月ぶりのことだった。
部屋に入るなり川越はいくつかの書類を取り出した。一つは坂戸が仕上げたロープレとアドベンチャーのシナリオが入ったファイル。そしてもう一つはクリアーケースに入れられた数枚の紙だった。
「とりあえず、そのクリアーケース分が光の修正分」
「ちょっと待って下さい。何ですかこの量! 僕が聞いてたよりも凄く多いんですけど」
「んー、シナリオと合わせてみて、満場一致でダメ出しになった曲とか、シナリオ差し替えで変更や追加になった分だな」
「これ、三月末までに僕がやるんですか?」
「おう死ぬ気でやれよ」
「そんな簡単に言わないで下さい!」
「アキ、お前どこまでテスト終わった?」
既に光の文句なんて聞いていない川越は、坂戸と話しをしている。そして話している坂戸も、光の文句が聞こえている筈なのに全く耳を貸してくれる様子はない。
「光、頑張れ」
そう言って無責任に笑うのは恵で、光はクリアーファイルの中に入っている紙束を見て小さくため息をついた。
脇目もふらず、本気で真剣にやれば楽しいとか、嬉しいという気持ちはついてくる。何よりも光自身、結果が凄く嬉しいと思う気持ちを知ったばかりだ。
「絶対に仕上げる」
「よく言った。その調子でもう少し頑張って。私たちも光に負けないくらい頑張るから」
「とりあえず、シナリオ読んでもいい?」
「勿論。家に帰ったら機材も押入から出そうね」
「あれ接続するの大変なんだから、姉さんも手伝ってよ」
「任せなさい。それくらい幾らでも手伝うって」
胸を張って笑う恵は、ここしばらく見たことないくらい満面の笑顔だ。それだけ、光の合格を本気で喜んでいることが分かる。
「僕も絶対に三月までに全曲仕上げる。だから姉さんも必ず仕上げてよね」
「当たり前でしょ。私だけの物じゃないんだから」
その言葉で今回作るゲームは恵のものであり、川越のものであり、坂戸のものであり、そして光のものだということが分かる。その仲間に加えて貰えることが純粋に嬉しい。
そして、このメンバーで本当に良かったと思う。恐らくこのメンバーに会わなければ、光は今でも何をすればいいのか分からず、立ち止まったままだったに違いない。
川越と坂戸が、ゲームの進行について小競り合いしている。それに恵が加わり、ちょっとした論争が起きているけど、殺気立つのとは少し違う。本気でお互いの意見を交わしていて、その仲間である自分がいる。
色々と溢れてくる感情に再び涙腺が弱くなり、光は袖口で再び目尻を拭う。そして、先ほど川越から渡されたファイルに視線を落とす。仕上がったという坂戸のアドベンチャー用シナリオを、期待とともに表紙を捲る。それは光にとって、新たなる一歩だった。