Chapter.III:進むべき道 Act.03

初めて顔を出した中学校は、当たり前だけど全てにおいてよそよそしいものだった。三年になって初めて登校した光を遠巻きに見ている人が多い中、竹沢が声を掛けてくれた。あれから時間が空けば竹沢と電話していたので、時間の隔たりが余りない。
そしてクラスでも竹沢は中心的な人物だったらしく、竹沢の友人たちとも話すようになり一ヶ月もすればよそよそしさも消えた。
むしろ大変だったのは学校側の対応の方で、既に光にとって通り過ぎてしまった授業を受けるのは眠気との戦いだった。
そして、二学期になっていきなり登校した光に、担任は困惑している様子だった。そんな担任に姉さんが用意した封筒を一式渡せば、中の書類を確認していく。その中で担任が手を止めたのは全国統一テストの結果で、その表情がホッとしたものになるのを見た。確かに入学式から一度も登校していないのだから、一番の心配はそこに違いない。
進路についても音高に行きたいことを伝え、志木の連絡先を渡す。これは志木に言われたことで、直接担任と連絡を取りたいから渡せと言われた。
学校へ行き、帰りにレッスンを受ける。レッスンが無い日は補講を受けるか進路相談で、光にとってはかなり濃密な一ヶ月となった。
十月になれば体育祭もあり、始めて目にする競技に目を白黒させていれば、クラスメイトに笑われた。光に気負いがなかったことも良かったのか、クラスメイトたちは概ね光を受けて入れてくれたようで、そのことに光はホッとした。
忙しい日々が続く。けれども、少しだけ寂しく思うのは、夏まではパソコン前にあった機材がシンセ以外片付けられてしまったことだ。引越の段階で恵が片付けてしまい、今、光の機材は全て押入の中へ押し込められている。
別にシンセと五線紙さえあれば曲は作れる。でも寂しいのはそれだけじゃなくて、夏まで必死になって作っていたゲームに混じれないからだ。
恵は余り家でゲームについて話しをしてくれない。確かに受験のことを考えてだということは分かる。でも、光としては何も見えないのは面白く無い。
だからといって、恵に食って掛かろうとは思わない。光にとって恵は、保護者代理のようなもので逆らおうと思ったことはない。ただ保護者代理というのは少しだけモヤモヤとして、光を落ち着かない気分にさせる。
竹沢にも姉がいるらしいが、今年大学生になったお姉さんは間違いなくお姉さんで保護者にはなりえないという。少なくともお姉さんと二人暮らしなんてなったら、竹沢は発狂すると言っていた。
確かに両親がいないこともあるから、必要以上に恵がしっかりしているのかもしれない。しかも、弟が頼りにならなければ当たり前のことだ。
でも、それが少し……面白くない?
少しだけモヤモヤの尻尾を掴んだところでチャイムがなり、ビクリと身体が反応する。持っていたシャーペンを問題集の上に置くと、慌てて玄関に駆け寄った。
「はい」
「俺、シュウ。ケイがすぐに帰れないから光と一緒に飯食ってこいって言われた」
慌てて扉を開ければ、そこには確かに川越がいて両手に紙袋を下げている。
「悪い、これ持ってくれるか」
差し出された紙袋の一つを受け取ると、川越は靴を脱いで家に入ってきた。そしてリビングのテーブルに広げた問題集を見て、バツの悪い顔をする。
「タイミング悪かったみたいだな、悪い」
「いえ、色々考えちゃって実はやってなかったんです。お茶でいいですか?」
「おう、それもきちんと買ってきた」
そう言って川越は持っていた紙袋からペットボトルのお茶を二本取り出す。
「ケイがうちの親とちょっと話しがあるらしくて、今日は遅くなるんだ」
「伯母のことですか?」
「そういうことだ。勉強はかどってないみたいだけど、どうした?」
川越は手際良く紙袋から重箱を取り出すと、テーブルの上に並べていく。慌てて光も広げていた問題集を片付けると、筆箱とともに机の上に置いた。
「色々考えちゃって。別に大したことじゃないんですけどね」
四段重ねの重箱には彩り鮮やかな食材が並び、さすがにその豪華さに驚く。
「凄いですね、これ」
「あぁ、うちの親が何だかの会合で貰ってきたらしい。ほら、光も食え。食べながらでも話しはできるしな」
川越は紙皿と割り箸まで持ってきたらしく、手渡されてお礼を言った。引越の時、川越や坂戸は勿論、川越の両親も手伝ってくれたので面識がある。そして、その時になって初めて川越の両親が弁護士だと知った。
母親の方は児童相談所や児童館などと連携して、児童虐待について動いている弁護士らしい。だからこそ、色々と光や恵のことに力を貸してくれるのだと思う。
二人で割り箸を手に「いただきます」と声を掛けてから、重箱をつつきだす。普段の光であれば口にすることのない食材もあり、美味しいものもあったが、正直ちょっと微妙というものもあった。
すぐに顔に出てしまうこともあって、川越には笑われ、恵とは違う食事の時間を過ごす。
「そういえば、受験終わって戻ってきた時、光はかなり大変だな」
「大変なんですか?」
「あぁ、シナリオ変更で曲のイメージが変わったり、イベントが増えて曲が増えたりしてる。ロープレだけでも直しが四曲、追加は二曲あるな」
「そうなんですか? そっか、シナリオあれから変更になってるんですね」
「ん? ケイは家でそういう話しはしないのか?」
「全然しません。故意に避けてるんだと思います」
「まぁ、受験生だしな」
川越の納得した様子に光としては納得できない。先ほど考えていたことが相まって再び胸の中にモヤモヤとしたものが広がっていく。
「でも姉さんだって受験する時、勉強しながら漫画も描いていたのに、僕だけ制限されてずるい気がします」
「それは仕方ないだろ。普通の学校受験するのと音高受験じゃ全然倍率が違う」
「けど、姉さんは好きなことをしてるのに……色々認められてずるいです」
よく分からないけどずるいと思う。何がずるいのか自分でもよく分からない。
「……光、お前、自分が無茶苦茶言ってるの分かるか?」
「分かってます。でも、姉さんは何でもできて、しかも好きなことだって仕事にできる」
「そりゃあ努力してきたからだろ。それくらい、最近知り合った俺だって分かる」
「でも、僕は姉さんがいないと生活できないけど、姉さんは僕がいなくても生活できる!」
自分で言い放った言葉だったけど、モヤモヤとしていた気持ちはその言葉に全て集約されていたかもしれない。自分の言葉が心の中にすとんと落ちてきた。
ずるいというよりかは羨ましい。頼りにしてくれない恵が妬ましい。何でもできる恵は、絶対に光の負担になるようなことはしない。
唖然としていた川越だったけど、次の瞬間に盛大に笑い出し息も切れ切れといった様子だ。見たこともないような笑い方に、光の方が呆然としてしまう。
「そうか、うん、そうだよな。光だって男だもんなぁ。確かに気持ちは分かる……くくっ」
まだ笑い足りないのか、川越は肩を震わせながら笑っている。情けないことを吐き出した自覚はある。でも、ここまで笑われるようなことだったのかと心配になってくる。
「まぁ、あいつ光の前じゃあ完璧っぽいからなぁ。それはあれだ『認められたい病』だ。そりゃあ守られるばっかりじゃ面白く無い気持ちにもなる。でも、ずるいって言葉は正しくないな」
「……そうかもしれません」
「俺はアキみたいに遠回しに優しいこと言えないけどさ、ケイの努力を見ないでそれを言うのは間違ってるんじゃないの?」
近くにいたからこそ、恵がどれだけ努力してきたのか光は知ってる。確かに川越が言うようにそれを見ないふりしてはいけないと思う。
「それにさ、あいつ中学一年の時から漫画家になるって努力してきた奴だぞ。到底、俺や光が努力したところで追いつかない。ありゃあ筋金入りだ。それは光の方が分かってるだろ。……なぁ、光は今学校に行って友達いるか?」
それは唐突ともいえる質問だった。けれども、すぐにクラスメイトの顔が思い浮かび、川越に頷いて見せる。
「そりゃあ良かった。俺は学生としてはそれが正しいと思う訳だ。だがケイは違う。あいつは友達と休み時間に無駄話をすることもない。その時間があれば教室を出て必ずどこかでスケッチをしてる。少なくとも、俺はあいつの女友達ってのを一人も知らない。一人もな」
「だって、姉さん友達は大切だって」
「そりゃあ言うだろ。実際、あいつだって余裕があれば友達くらい作ったんだろうしな。でも早くプロになりたいからこそ、そういう時間をケイは無駄だと切り捨てた。それだけプロになるということに真剣なんだよ。俺とか光みたいな生半可な気持ちじゃない」
「別に僕だって」
「なら学校にある全ての人間関係切れるか? 少なくとも俺は無理だ。何をするにも班に分かれろって言われるのに、それにあぶれる自分なんて想像したくない」
学校というところは、何かと班ごとに分かれてやることが多い。それはこの二ヶ月の間に何度も班分けされたから光にも分かる。
「でも川越さんとクラス一緒なんですよね?」
「学校ではあいつと話したことなんて一回しかねぇぞ。面倒ごとはごめんだから話し掛けるなって言われた。アキなんて一度も学校で話したことないらしいぞ」
そう言われても俄に信じがたい。だって、いつでも三人は仲よさそうに見える。だから、学校でもゲームのことに盛り上がったりしているのだとばかり思っていた。
「認めて欲しいなら、それなりのことするしかないんじゃないのか?」
「例えばどんなことですか?」
「そりゃあ、光の場合音高合格だろ。それから……家の手伝いとか?」
「手伝い、ですか?」
「ほら、洗濯とか皿洗いとか掃除とか色々あるだろ。そういうの全部ケイに任せっきりじゃないのか? まぁ、俺も人のことは言えないけど……」
「あ……」
「だからケイも光の保護者、という立場から降りられないんじゃないか?」
「やっぱり保護者に見えます?」
「少なくとも俺から見ればケイは立派な光の保護者だな。お前なぁ、俺の姉貴を見ろ。あいつ素足で蹴り入れるんだぞ。人の物は取り上げるわ、勝手に部屋に出入りするわ……でもさ、何かあれば守れたらいいとは思うよ。例えあんなクソ姉貴でもさ……あー、もう、俺はそういうキャラじゃねぇんだよ、くそっ」
途端に頭をガシガシと掻きだした川越の顔は真っ赤だ。光としては川越のそんな顔は初めて見る。だからつい遠慮なく見てしまえば「見るな」と一喝されてしまい、慌てて視線を反らした。
川越とお姉さんの年は五歳以上離れている。それでも、守りたいと思うことがあることに驚いた。そして、自分が守りたいと思うことは、思い上がりでも何でもなく普通のことだと知る。
「まぁ、同じ弟の立場だから分かるっちゃ分かる。でも今さら年齢逆転なんてしないから、弟は弟で努力するしかないだろ。うちは光の家ほど切羽詰まってなかったけど、ケイを見てるとちょっと姉貴の苦労みたいなものが分かる気がする」
「苦労って?」
「あいつ絶対に学校休まないだろ。多分、ケイは口にしないけど、それは光に学校に行って貰いたいと思っての行動じゃないのか? 学校は行くべき場所、そういうことをきちんと光に見せたいんだと思う」
確かに恵は余程具合が悪い時じゃなければ学校を休んだりすることはない。口では多く言わない。でも模範となるような態度で示す。そうやって恵はどれだけ光に見せてくれていたのだろう。そして、それに気づけなかった光は心底恥ずかしいと思った。
「僕は自分が頑張ればそれでいいんだと思ってました。何か、もの凄く恥ずかしいです」
「や、大丈夫。俺もケイを見ていて凄く恥ずかしくなったから。それに俺が光くらいの時って、もっと何も考えないで迷惑掛けまくったから。それこそ友達と殴り合って親が謝りに行ったりとか」
「川越さんはそういうタイプに見えませんけど」
「んー、まぁ、俺にも色々あったってことだ。でも、そういう黒歴史みたいなものって成長した証しなんじゃないかと思ったりもする」
「成長……してますか?」
「どうだろうな。でも、守られるばかりじゃ嫌だと思ったなら成長じゃねぇの。少なくとも俺は守られて当たり前ってよりかはずっといいと思うけど……つか、こんな話ししたなんて誰にも言うなよ」
真剣な顔で詰め寄ってくる川越に、光は慌てて大きく頷いた。途端にホッとした顔をする川越に光は少し笑ってしまう。
やっぱり、川越はいい人だと思う。光相手にこれだけ真剣に話しをしてくれるのだから、やっぱり凄く優しい人だ。
「色々有難うございます」
「別に礼はいらねぇよ。らしくないことしたって思ってるくらいだしな。でもケイの努力は認めてやれ。ずるいなんて簡単に人に言っていいことじゃない……って、俺もそんなことつい最近まで考えもしなかったけどな。実際アキのことずるいというか、羨ましいと思ってたくらいだし」
「川越さんが坂戸さんを、ですか?」
「俺はさ、結構どうでもいい奴だったんだよね。何て言うの、流されるままでいいや、みたいな感じでさ。だから本気で何かにのめり込めるアキが羨ましかった。でも、こうして一緒にゲーム作ることになったら、笑えるくらい自分がマジになっててさ」
そう言って笑う川越の顔には暗さは欠片もない。正直、光が会ってからの川越というのはいつでも真剣で、本気で話し合っているところしか見たことが無い。だから流されるままでいた、というのが信じられない。
でも、流されるままという状況が、どれだけ楽で、どれだけつまらないものかは知ってる。
「だから今は羨ましいとは思わない。結局、本気になるって何かに対してどれだけ真剣になれるかなんだろうな、って思った。だからさ、光もよそ見してないで真剣に受験に挑めよ。そしたらケイのこと羨ましいなんて思う暇もなくなる」
「そうですかね?」
「多分な」
「多分って、もう少し保証して下さいよ」
「お前なぁ、俺にそういうことを求めるな。そもそも、先から言ってるけどこういう話しをするキャラじゃないんだよ。こういうことはアキと話せ。あいつの方が適任だろ」
もの凄く嫌そうな顔をする川越に光は遠慮しない。もう遠慮を必要とする相手じゃないことは知っている。何よりも、川越の傍で光が答えを出せずにいれば、何かしら答えてくれると思う。それに甘えてばかりいてはいけないと思いつつも、心強いものがある。
「でも、気づいたのは川越さんです」
「それはそうだけど……まぁ、同じ弟同士だからな。でも、こういう人生相談じみたことは二度とごめんだからな」
「覚えておきます」
そう言って笑えば、やっぱりバツの悪そうな顔で川越は小さくため息をついた。
しばらくモヤモヤとしていた気持ちはすっきりしていて、ようやく宿題の答えが出た気がした。
羨ましいのは、自分が真剣じゃないから……そうかもしれない。真剣なつもりだったけど、結局つもりだけで本気だった訳じゃない気がする。
頑張るだけじゃなくて、色々なことと向き合わないといけないことも知った。どんなにモヤモヤした感情でも、きちんと考えないと見誤る。
川越が言ったようにずるいんじゃなくて、恵が羨ましいと思っていた。でも羨ましと思うだけでは何も進まない。何事にも真剣に向き合わないと人を羨ましがるばかりになってしまう。
ゲームは気になる。でも、受験が終われば待っていてくれる人たちがいる。だから大丈夫なのだと自分に言い聞かせると、改めて川越にお礼を言った。
「有難うございます。川越さんがいてくれて良かったです。じゃないと、いつか僕は姉さんにずるいって言ってたかもしれない」
「そりゃあ言ってみるのも一興かもしれないぞ。血の雨が降るに違いない」
「姉さんはそんなことしません」
「あぁ、そうだろうな。お前相手にはしないだろうよ。俺相手なら容赦なく仕掛けてきそうだがな」
どこか遠い目をする川越に笑ってしまい、脇腹を軽く小突かれた。

* * *

ピアノを弾く。ただその曲についてだけ考えながら鍵盤と向き合う。まだ光の指では奏でるとはいえない。それでも、指先一つにも注意を払って音の響きを耳で聞く。そして一曲弾き終えた途端、ため息が零れた。
「何か吹っ切れた?」
「色々と吹っ切れたというか、ずっと抱えていた気持ちの宿題が終わったのですっきりしてます」
「よく音に出てる。それに曲に対して考察が深くなったな。これなら実技も大丈夫だろ。まだ拙いところはあるが、それは学科で取り戻せばいい」
志木は譜面立てにおいてある楽譜を手に取ると、そこに日付を書き入れる。どうやら、この曲はこれで仕上がったということらしい。
「年が明けたら、毎日ピアノを弾きに来なさい。平日は八時以降であればレッスンもないから構わない。土日は前日に連絡を入れて」
「そんな申し訳ないです」
「遠慮はいらない。俺も光が合格すれば旨みがあるからな」
「そういうもんですか?」
「まぁ、そういうもんだ。シンセで幾ら練習してもどうにもならない。受験まではシンセには触らずピアノを使え。担任の先生とも連絡取って、受験までは音楽準備室のピアノを借りられるように手配した。アップライトだがシンセよりマシだろ」
時折、担任からも志木からもお互い連絡を取り合っているらしいことは、言葉の端々から知っていた。それと同時に、音高を受験することの大変さも知った。
正直、受験のために体育の授業を休むことになるとは思ってもいなかった。もっとも、この時期では体育など真面目に受けるものもいないから、半ば遊びの延長のようなものだ。でも、球技類に全く参加できないのは少しつまらない。
「助かりますけど……あのレンタル代とかは」
「そんなものはいらない。別に空いてる時間に使わせてやるだけだから、好きに使えばいい。だが十一時には帰れ。さすがにお前の姉さんが心配するだろ。それから指に熱があったり、痛みがあった場合には即中止。まだ光の指はピアノを弾くには不完全だから、練習のしすぎは指を痛める可能性もある。ほどほどにしておけ」
「分かりました。有難うございます」
差し出された楽譜を手に取り、そのまま頭を下げた。
最近ピアノを弾いていて凄く気持ちがいいのは、集中している証拠なのかもしれない。指が回らなくて焦りはするけど、少し前に比べたら全然楽しさが違う。それにピアノの音がとても綺麗に聞こえるようになった気がする。
「受験まであと三ヶ月切った。本気でやらないと色々後悔することになる。悔いのないよう、頑張りなさい」
「はい、有難うございました」
レッスンを終えて志木に挨拶した後、志木の家を出ると買ったばかりの自転車に跨がった。元々レッスンには電車で通っていたけど、恵に頼んで自転車を買って貰ったのはレッスンが増えて電車代が勿体なく感じたからだった。
それに自転車に乗ることで頭がすっきりして、家に帰った時にきっちりと切り替えできることは嬉しい誤算だった。レッスンが遅くなったりすると電車を待つ時間が長くなる。その時間を勿体なく感じていたこともあり、光は自転車での移動が楽しく感じる。
鼻歌を歌いながら自転車を漕いでいれば、見慣れた後ろ姿があり声を掛けた。
「竹沢くん」
光の声で竹刀を持った後ろ姿が振り返る。予想通り竹沢で、そのすぐ近くで光は自転車を降りた。毎週この時間だけは、道場から帰る竹沢と、レッスンから帰る光が鉢合わせする。
「何だか道場に行く度に傷が増えるね」
「夏の全中がボロボロだったから仕方ないな。それでも推薦決まったから気楽なもんだよ。朝霞の方はどうだ?」
「色々本気でやらないと大変って感じかな。まぁ、ここまできたら頑張るしかないけどね」
「何かお前ならさらりとやっちまう気がするよ。先月の中間試験、予想外にもトップで貼り出されてるし」
「別に学校行かなくても、勉強は必要だと思ってたからやってただけだよ」
「お前のさ、そういうことを簡単に言い切るところが怖いよ。そうだ、今度ピアノ聞かせろよ」
唐突ともいえる竹沢の言葉に、思わず驚いてマジマジと見つめてしまう。少なくとも、竹沢がピアノを好きだという話しは一度も聞いたことがない。それどころか、先日音楽の授業中、クラシックを聴きながら舟を漕いでいたのを光は見ている。
「僕、今は受験用の課題曲くらいしか聴かせられないんだけど」
「朝霞がどんな顔でピアノ弾いてるのかちょっと興味が出た」
「えー、見るの顔なの? やだよ、そんなの」
「だって、男でピアノ弾く奴っていないから、ちょっと興味があってさ」
「僕は見世物じゃないんだけど」
それでも竹沢相手であれば練習している所を見せても構わない気がする。けれども、そうなれば竹沢だけでは済まず、クラスの半数くらいは面白半分でついてきそうな気がする。さすがにそれは勘弁して欲しい。それは無しだと思いながら「ダメ」と答えれば竹沢から「ケチ」と短く返ってくる。
お互いに軽口を叩きながら二人で夜道を歩く。学校でも話しはするけど、幾らでも話すことが出てくるのが不思議な感じだ。数ヶ月前までは恵としか話しをしない日の方が多かったくらいなのに、今はクラスメイトたちと色々な話をする。
恵はこういう時間すら削って絵を描いていた、と川越は言っていた。でも、光に同じことは無理な気がした。少なくとも、この楽しさを自分から遮断することはできそうにない。
「ねぇ、竹沢くんだったら自分がしたいことの為に、学校で友達作らないとかできる?」
「何だそれは。っていうか、そういう恐ろしい質問をさらりとするなよ」
「そうだよね、やっぱり怖いよねぇ、想像すると」
「おい、一体誰の話だよ」
「うちの姉さんの話」
「……俺はつくづく思うんだが、お前の姉ちゃん、色々と超越してないか? 俺の中ではスーパー高校生なんだけど」
夏休みに再会してから、竹沢が心配していたこともあってある程度の話しはしてある。勿論、その中で恵が漫画を描いて、イベントで売って生活を支えてくれていたことも言った。さすがにデビュー云々までは言わなかったけど、ある程度の事情は竹沢も知っている。
「僕もね、学校行くようになってからそう思った。もしかして、ちょっと凄い人なんじゃないかって」
「ちょっとじゃなく凄いと思うけど」
「だよねぇ。でも、僕も姉さんに負けてられないって思うんだよね」
「そりゃあ、また随分強大なライバルだなぁ。でも、弟なんてものは姉という存在に勝てないもんだと、つくづく思うぞ」
「別に勝たなくてもいいんだ。ただ並べるようになりたい。いざって時に支えられるようになれたらいいなって思うんだよね」
途端に隣を歩いている竹沢が黙り込んでしまい、しばらくすると小さくため息をついた。
「何かさ、朝霞は変わったよな。少し前まではぽやっとしてて、こいつ大丈夫かな、みたいなところがあったけど」
「大丈夫って、酷いなぁ」
「だって小学生で思考止まってるんじゃないかって心配したくらいだぞ。それが蓋を開ければ試験でトップを取るわ、クラスには馴染んでるわ、お前が色々とありえないだろ」
「クラスに馴染んでるのは間違いなく竹沢くんのお陰だと思うよ。多少浮くのは仕方ないと思っていたくらいだし。本当に色々とありがとう」
一瞬言葉を詰まらせた竹沢だったが、再び小さくため息をついた。
「あのさぁ……多分、お前のそういう素直なところがクラスで馴染む理由だと思うぞ、俺は」
「そうかな? よく分からないけど、でも残り少ない中学生活楽しく送れるのは嬉しいと思う。ついでに言うと勿体ないことしたな、って今なら思う」
それは光の本心でもあった。二学期から学校に通って思ったのは、自分が思っていたよりもずっと楽しい、ということだった。家で音楽に打ち込む時間が無駄だったとは思わない。ただ、それなりに学校も楽しんでおくべきだったと思った。
「良かったんじゃねーの。学校なんて必ずしも楽しいと思えるもんじゃないしさ」
「竹沢くんは楽しくないの?」
「勉強が無ければ楽しい」
「それじゃあ学校の意味がないよ」
笑いながら答えれば、隣を歩く竹沢も楽しげに笑う。何気ない時間。でも、光にとってはこれも大切な時間に思える。
そして竹沢と別れる十字路に到着すると、お互いにその場で一旦足を止めた。
「また明日学校でな」
「うん、また明日」
そんな声を掛けてお互いに背を向ける。そして明日またクラスメイトたちに囲まれて楽しく過ごす。
受験という現実に向かうために、楽しい時間というのは光にとって必要なものだ。そして、その時間こそ光に心のゆとりをもたらしてくれるものだった。

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