Chapter.III:進むべき道 Act.02

伯母の家を一人で訪ねるのは始めてのことかもしれない。少し緊張しつつ呼び鈴を押せば、インターフォン越しに伯母が答えた。
「光です。進路について話しがあって伺いました」
「入りなさい」
抑揚のない声で伯母が答え、そのままインターフォンは切れた。門をくぐり玄関の扉を開ければ、玄関先で仁王立ちする伯母がいる。
「それで、進学するつもりはあるの? 学校にも行ってないのに?」
「二学期からは登校します。それで進学するに当たって、保護者の同意が必要で」
「別に構わないわよ。進学するならした方がこっちも面目が立つから。けど、お金は自分たちでバイトしてどうにかしなさい」
伯母の言葉で、やはり恵の言うことに嘘はなかったことが分かる。覚悟していたことなのに、その意味はとても重く光にのし掛かった。
「……はい」
「それで、どこに行くつもりなの?」
「一応、音高に願書を出す予定です」
「音高って音楽高校? あなた音楽なんてできるの? そんなものやったことないじゃない」
「一応、今ピアノを習っていて、その先生からは承諾を頂いています」
「ピアノですって? そんなもの習う余裕があるなら家賃くらい払いなさいよ」
それは光にとって衝撃的な言葉だった。ただでさえ一銭も出していないのに、さらに学生である恵や光にお金を出せという。そんな伯母を信じられない気持ちで見つめていれば、伯母はさらに言葉を続けた。
「それに音楽ってお金が掛かるんでしょ。冗談じゃないわ。あぁ、お金に困ったら退学という念書を書くなら了承しても構わないわ。でも、音楽高校に通う余裕やピアノ習う余裕があるなら、家賃を毎月五万、そう恵に伝えておきなさい」
保護者というのは、子どもである自分たちを保護してくれる存在だとばかり思っていた。もしかしたら、自分が直接ここへ来たのは失敗だったのかもしれない。
「あの、うちもそんな余裕がある訳じゃ」
「あるじゃないの。だからピアノなんて習えるんでしょ。全く、親の財産隠し持ってるなんて意地汚いわね。貴金属でも売ったの?」
段差があり見上げる場所にいる伯母は、能面のような顔をしていてそれが怖い。財産なんてうちの親にはない。だったら恵はあんなに苦労している筈がないし、自分たちもあの場所に住んでいる筈がない。
「……そんなもの、ありません」
「だったら身体でも売ったの? やめてよ、警察沙汰だけは」
色々と投げかけられる言葉が気持ち悪い。同じ人間とは思えない。こんな人を相手に、恵はいつも話しをしていたのかと思えば、苦しくて息が詰まりそうになる。
「……念書と願書、後日持ってきます。失礼します」
どうにかそれだけ言うと、光は逃げるようにして伯母の家を飛び出した。とにかく気持ち悪かった。悪意とかそういうものじゃなくて、考え方そのものが光には受け付けない。
余りの気持ち悪さに近くの公園のベンチに座ると、小さく喘いだ。空気が薄く感じて、頭も痛い。それと同時に、もの凄い罪悪感と昨日から引き摺っていたモヤモヤとした気持ちが入り交じる。
知りたくなかったし、見たくなかった。伯母が嫌な人だと思ったことは何度もあったけど、あんな人だとは知らなかった。そして、あんな人を恵一人で相手させていたことが悔しい。
そして自分がこんなに弱いなんて知らなかった。あの人に会って何かを言い返すこともできず、黙って引き下がる自分も情けない。もう、色々とぐちゃぐちゃになって、涙すら出てこない。
「朝霞……だよな?」
小さな公園の入口から声を掛けて来たのは、中学の制服を来た男子だ。年頃は多分、光と同じくらい。けれども、光はその顔に見覚えがない。当たり前だ、中学に行っていないのだから、見覚えある顔なんてある訳がない。
答えるべきかどうするか悩んでいる内に、制服を来た男子は公園に入ってくると光の前に立った。
「朝霞光だよな」
「……ごめん、誰?」
「小学校の時に同じクラスだった竹沢だけと、覚えてないか?」
そう言われても光はここへ越してきて、小学校へ通ったのは一ヶ月ほどでクラスメイトの名前も余り覚えていない。しかもそれから二年のブランクがある。
「ごめん、覚えてないみたい」
「そっか……朝霞、学校来ないのか? いや、俺が言える立場じゃないけど」
正直言って、覚えてもいない竹沢が自分を覚えていることに驚いた。しかも、正面に立てばやたらと大きな男がどこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせている。手にしているのは竹刀らしく、部活の帰りなのかもしれない。
「何で竹沢くんがそんなこと聞くの?」
「気分悪くしたならごめん」
「別に気分悪くしたりしてないよ。ただ何でだろうって不思議で」
途端に顔をしかめた竹沢に、光は不味いことでも聞いただろうかと考えてしまう。でも二年も学校へ行かない人間を覚えている人がいるとは思ってもいなかった。
「……俺のせいかと思って。お前が転入してきた時、女顔だって苛めたから、それで学校に来なくなったのかと思って」
そこまで言われて、ようやくそんなこともあったと思い出す。けれども、今の今まで光はそんな事実を忘れていた。
「別に竹沢くんのせいじゃないよ」
「でも俺が苛めたりしたから」
「僕が苛められたと思ってないから全然気にしなくていいよ。それに二学期からは普通に登校するつもりだから」
「学校来るのか?」
「うん、高校に行きたいから今さらだけど学校に通おうと思って」
少し黙った後に竹沢は無言のまま、光の隣に腰掛けた。
「言いたくなかったらいいからな。あのさ、何で学校に来なくなったんだ?」
竹沢としては、余程光が学校へ行かなかったことを気にしていたらしい。もしかして、この二年、ずっとそれを頭の片隅に止めていたのだとしたら、悪いことをしたような複雑な気分だった。
「学校行く意味がよく分からなくなっちゃって」
「意味って……あ? 学校って行かされるもんだろ」
「普通の家ではそうかもしれない。でも、うちは別に強制されなかったから」
「両親が……あ、ごめん」
失言と思ったのか、もの凄くバツの悪そうな顔をする竹沢に、光はつい笑ってしまう。
「別にいいよ。多分、環境が変わったのと、うるさく学校に行けって言う人がいなくなったから、余計に行く気になれなくなったっていうか……何だろう、色々他人の顔色伺うことに冷めちゃったっていうか」
正直言えば自分でもよく分からない。ただ、意味もなく学校に行きなさいとわめく伯母に冷めたこともあるし、学校に行く意味が分からなくなったのもある。あの頃から光の中で、伯母は嫌いな人という分類に入っていた。
「でも二学期から学校行くんだ」
「やりたいことができたからね。だから高校に行きたいけど……正直迷ってる」
「それは中学に行きたくないから?」
「別にそれはないよ。高校に行くには中学に行っておくべきだと思うし。ただ……僕の姉がいるんだけど、その姉が高校の授業料とか全部払うことになるのが心苦しいし、何だかモヤモヤして……」
「姉さん、社会人なのか?」
竹沢の言葉に光は首をゆるく横に振って否定する。
「高校生」
「……それは可能なのか? 普通の高校生なんだよな?」
「うん、普通の高校生。今も姉さんの稼ぎで生活してる」
「こういう話しするのもどうかと思うけど、両親亡くなったなら保険金とか色々あるだろ」
「保険金? そういえば、そういう話し聞いたことがない」
「だったら、朝霞の姉さんがきちんとそういうの管理してるんじゃないのか? でも、面倒見てくれる大人が普通はいるだろ」
やっぱり普通は面倒見てくれる大人がいるものらしい。だとしたら、光と恵の環境というのは余程特殊なのか。その判断が光にはつけられない。ただおかしいことだというのは竹沢の反応からも分かる。
「面倒は見てくれないけど、一応保護者はいる」
「俺も難しいことは分からないけど、普通、保護者って保護責任みたいなもんがあるんじゃないのか?」
「そうなの?」
「普通はそうだろ。じゃないと普通の子どもは野垂れ死ぬぞ。そりゃあ保護者がいないなら孤児院とかそういう所に入るのもありだけど……その保護者と一緒に住んでるんじゃないのか?」
「今は姉さんと二人暮らし」
「何か俺、今凄いこと聞いてる気がする……こういう場合どうするんだっけ? あぁ、そうだ」
不意に隣に座っていた竹沢が立ち上がると、光の腕を掴んで強引に立ち上がらせる。
「竹沢くん?」
「そういう困り事はあそこだ」
「ちょっと待ってよ。あそこってどこに行くつもり?」
「行けば分かるから」
急激な変化に光は弱い。だから、何がどうなって竹沢に腕を引かれているのか理解できない。ただ前を足早に進む竹沢は、何か思うところがあったらしい。五分ほど歩くと大きな建物が見えて、児童館の看板が大きく出ている。
竹沢は来慣れているのか、建物の中に入ると入口にある窓口で声を掛けた。
「母さん、ちょっと相談したいことがあるんだけど」
「まだ家に帰ってなかったの?」
「こいつの家、おかしいんだよ。保護者がいるのに生活費とか高校生の姉さんが出してるらしくて、変すぎて何が変なのか説明できない。話し聞いてやってくれないか?」
「同級生?」
「そう、朝霞って言うんだけど」
「朝霞……?」
竹沢の声に被るようにして奥から声が聞こえ、パーテーションの向こう側から顔を出したのは川越の母親だった。少し驚いた顔をする川越の母親に、酷く居心地悪い思いながらも頭を下げた。
「あ……こんにちは」
「丁度良かったわ。修平から色々聞いて近いうちに二人に連絡しようと思っていたところなの。竹沢さん、この子は私が」
「宜しいんですか?」
「息子の友人なんです。少し部屋を借りられませんか?」
「それは構いませんよ。隣を使って下さい。後でお茶をお持ちします」
「それじゃあ光くん、ちょっとこっちで話しを聞かせて貰えるからしら」
「あ、えっと、あの……竹沢くん!」
既に傍観者となっている竹沢を呼べば、すぐに近くに来てくれた。
「色々と心配掛けてごめんね。二学期からは学校行くから、竹沢くんが気にすること一つもないからね」
「馬鹿言うな。昔云々じゃなくて今が気になるだろ。朝霞、もの凄い特殊環境にいるんだぞ。何かあれば話しくらい聞くから。えっと……」
そのまま窓口のカウンターにあるメモ用紙を一枚破り取ると、手近にあるボールペンで竹沢は何かを書いている。そして書き終わると、光の手を掴み、無理矢理その紙を光の手に握らせた。
「何かあればここに連絡してこい。家のことでもいいし、学校行きづらいとか、そういうことでもいいから」
「竹沢くんは良い人だね」
「ばっ……絶対連絡入れろよ」
「うん、分かった。色々ありがとう」
「礼言われること何もしてねぇよ。ほら、待ってるから行けよ」
竹沢に促されて笑顔で手を振ると、川越の母親が扉を開けて待っている部屋に入った。会議室なのか会議机がロの字に並べられていて、その周りにパイプ椅子がきっちりと並べられている。
扉から入った中程で川越の母親が足を止めると、椅子を引き出した。
「とりあえずここに座ってくれる。色々聞きたいことがあるんだけど、今日恵ちゃんは?」
「姉なら今日は写真を撮りに出掛けています。資料に必要だとかで」
「そう、できたら二人から話しを聞きたかったんだけど……修平から色々聞いてるけど、光くんは恵ちゃんと二人暮らしっていうのは本当?」
そこからは色々なことを質問されて、それを一つずつ答えていく。光には分からない質問も幾つかあったけど、光が答えたことを川越の母親が手帳に書き入れていく。今住んでいる家のこと、生活費のこと、今までの生活のこと、そして伯母のこと、それら全てを答え終わった時には、既に夕方になっていた。
「あの、どういうことなんでしょう?」
「光くんが分からないこと恵ちゃんに聞いて確認してからになると思うけど、多分、今よりもう少しマシな生活が送れるようになると思うわ」
「今よりマシ?」
「そうよ、恵ちゃんの苦労がもう少し減るかもしれないって話しよ」
「本当ですか!」
「勿論、恵ちゃんからも話しを聞かないと分からないけど色々変化する筈よ。光くんは音高に行きたいんだって?」
「はい、もっと音楽のこと基礎から学びたくて」
「光くんと恵ちゃんは本当にしっかりしてるわよね。修平にも爪の垢煎じて飲ませたいくらい」
「全然しっかりしてません。川越さんとか坂戸さんとか本当に凄くて、色々良くして貰ってます」
それは光がゲーム作りに参加するようになって、本心から思っていることだった。川越と坂戸の二人は、年下だからという理由で光を下に置くことはしない。あくまでも話す時は対等で、しっかりとダメ出しもされるし、光が意見を言えば聞いてくれる。
何よりも川越は本当に手が早い。意見はすぐに取り入れて反映してくれるし、光が会話に置いていかれないように注意を払ってくれている。自分のことで精一杯な光にとって、何度も川越には助けられている。
「川越さん、本当に優しい人で……」
「そう思って貰えるなら親としては嬉しいわね。色々聞いてたら遅くなっちゃったわね、家まで送っていくわ。ここにも車で来てるし」
「いえ、大丈夫です。ここからなら歩いて帰れますし」
「恵ちゃんからも話しが聞きたいから、どうせ家まで行くついでよ」
そう言って笑う川越の母親に、光は甘えさせて貰うことにした。家に帰ると、もの凄く心配そうな顔をした恵に迎えられた。
「伯母さんの家に行ったんだって? そんなこと、光がしなくて良かったのに」
抱きついてくる恵に、困りながらも袖を引いた。
「姉さん、色々言いたいことは分かるんだけど、お客さんがいるから」
そこでようやく背後にいる川越の母親に気づいたらしく、慌てた様子で恵は離れた。少し話しがあるという川越の母親と共に、恵は一度家を出て行ってしまい光一人が家に取り残される。
色々ありすぎて光はぼんやりとラグの上に腰を下ろした。伯母の家で気持ち悪い思いをした。そして偶然会った竹沢は、光が学校に行かないことで罪悪感を持っていた。そして川越の母親は親身になって光の話しを聞いてくれた。
色々なことが目まぐるしく動いていて、何が何だかよく分からない。ただ、偶然とはいえ竹沢の誤解を解けたのは良かったと思う。
学校に行かなくなったのは光の問題であって、竹沢に何の落ち度もない。これで竹沢の罪悪感を拭えたなら、それはそれで嬉しいことだと思う。
ただ、自分一人の考えで恵や竹沢、それに色々な人に迷惑を掛けてしまったことを反省する。ただ学校に行かない、それだけでこんなに迷惑を掛けることになるとは思ってもいなかった。それは今まで光が何も考えていなかったことの証しでもあり、恥ずかしいと思う。
恵は光のことを考えて色々行動していたのに、光は恵のことを考えて行動したことは一度だってない。そんな光に恵は文句を言うこともなく、いつでもあの伯母から庇ってくれていた。
これでは光が相談して欲しいと言っても、相談できる筈もない。ずっと自分のことだけを考えていた。自分がやりたいこと、やりたくないこと、そればっかりを通してきた気がする。
これからは光も変わらないといけない。伯母が嫌いだからと目を背けていたけど、その分恵が引き受けていただけだ。だったら、恵の負担を軽くするためにも自分も目を背けてばかりではいられない。
頑張らないと、色々なこと……。
何ができるかは分からない。でも、もっと周りに目を向けようと思う。そして、嫌だから逃げるんじゃなくて努力していかないと、恵には全然追いつかないし、相談なんて絶対して貰えない。
色々考えている間に一時間ほどが過ぎていて、戻って来た恵は少しだけ赤い眼をしていた。
「川越さんのお母さんは?」
「帰った。光……これからも頑張ろう。私も頑張るから、光も頑張れ」
少し鼻声だったけど、それに対しては何も言わない。ただ、恵が握り締めてきた手を、光も同じ強さで握り締めた。
翌日からは日常が戻ったように見えた。けれども、恵は時折出掛けて川越の母親と会って色々と話しをしているらしい。
だからといって、恵はゲームの方に手抜きすることはない。そんな恵を身近で見ていると、光も手を抜くことは出来ないし、そんなことはしたくない。
八月に入ってからはレッスンが週に三回になり、レッスンで出される課題と勉強、そして音楽作りに奔走したまま八月が終わろうとしている。
レッスンが重なったこともあって、打ち合わせに光が顔を出すのは久しぶりのことだった。恵と二人で川越の家に行けば、恵はすぐに川越の母親に呼び出されてしまい部屋に三人が残される。
「光くん、疲れた顔してるね。眠れてる?」
「最近は余り。今月中にどうしても全曲仕上げておきたかったので」
「そっか、光くんは今月末で一旦受験に向けて頑張らないといけないもんね。おきたかったってことは、もしかして」
「はい! 全曲仕上がりました!」
「マジか? スゲーじゃん!」
「頑張りました! これでプロット分は全てになります。後は受験終わってから手直しとかしていきますし、プロットからあぶれた分についても追加していきます」
鞄からいそいそと全曲入ったDVDを取り出すと、テーブルの上に置いた。何も書かれていない白いラベルだけど、少し誇らしい気分になる。
「光くんが仕上げたなら、僕も頑張らないと」
「そうだよ、アキの方は終わったのか?」
「あと少し。でも月末には上がるよ」
「それじゃあ、坂戸さんのシナリオ、ロープレ分は全部通しで読めるんですね。凄い嬉しいです」
光にとって坂戸のシナリオは神々しいもので、それを真っ先に読めることは嬉しくて仕方ない。今月末で光は一旦作業凍結となるけど、シナリオを読むくらいは恵も許してくれるに違いない。
「光くんの分はケイに渡しておくから、読んでおかしなところがあれば教えてくれる?」
「勿論です。でもシナリオ読んだら、また曲が作りたくなりそう」
「おいおい、それで受験失敗したら俺らがケイから殺されるからマジ勘弁しろよ」
「……気をつけます」
「おう、俺らの寿命縮めるようなことだけは避けてくれ」
本気で諭すような川越に、つい光は笑ってしまう。
「馬鹿、笑い事じゃないぞ。あいつ光のことになると本気で目つき違うんだから」
「それは嬉しいような、悲しいような」
素直な気持ちだったけど、途端に笑っていた二人が真顔になってしまい、光の方がそのことに驚いてしまう。
「え? 僕何か変なこと言いましたか?」
「いや、何で光が悲しくなるんだと思って」
何気なく口にした言葉だったから、余り深い意味はない。でも、恵が光のことで真剣になると何だかモヤモヤとした気持ちが残る。嬉しくない訳じゃない。ただ……。
「何ででしょう?」
「おいおい、自分のことだろ」
「何だか色々ありすぎて、よく分からないことが宿題のように山積みになってる気がします」
「まぁ、確かに色々あったよな。そういえば週末に引越決まったんだって?」
それについては光も一昨日聞いたばかりで、酷く驚いた。ただ、川越の母親が伯母に詰め寄って家賃を出してくれることになったらしい。
どういういきさつがあったのか恵から説明がないからよく分からない。ただ、落ち着いたら恵が説明してくれることは約束している。
「はい、今度の場所は凄い綺麗なアパートでびっくりしました」
「良かったよね。正直、あのアパートは防犯的な意味でやっぱり心配だったし」
坂戸の言葉で目を丸くすれば、途端に笑われてしまう。
「やっぱり心配でしょ、普通は。あのアパート、光くんとケイの二人しか住んでいなかった訳だし、何かあった場合、誰も大人がいないっていうのはやっぱり怖いよ」
坂戸の心配は当たり前のことなのかもしれない。でも、光の心の中でチクリと刺さるような痛みを覚えた。それが何かは自分でもよく分からない。
「光くんどうかしたの?」
「いえ、何でもありません。とりあえず、僕は今回の打ち合わせでしばらくお休みですけど、修正とかについては、メールを入れておいて貰えませんか?」
「あー……」
途端に川越は言葉を濁すと、坂戸と目を合わせた。口ごもる川越に変わり、坂戸が口を開く。
「光くんには修正する部分とか、受験が終わるまで教えないことになっているんだ。修正部分が気になると、どうしてもそっちに気が取られるでしょ?」
「それ、姉さんが言ったんですか?」
「別にケイだけの意見じゃないよ。僕やシュウ、三人で考えてそう決めた。受験する学校も難しければ、今まで学校に行ってないことで内申書とかも難しい。だからできるだけ受験の妨げになるようなことはしたくないんだ」
言いたいことは分かるし、気持ちも分かる。でも、何かが胸の中でモヤモヤする。それは迷子になった時の不安に少し似てる。
「……僕、受験終わったら戻って来ていいんですよね?」
「当たり前だろ。そのかわり、絶対合格証書持って戻って来いよ。待ってるから」
「そうだよ。それにまだ作って貰う曲は増える予定だし」
「とにかく受験、頑張ります」
「おう、頑張れ。でもたまに息抜き程度なら遊びにこいよ。ここならいつでも来て構わないから。その代わりケイには内緒でな」
そう言って川越は人の悪い顔で笑い、横から坂戸に小突かれている。
あと数日で学校が始まる。ここからは受験に向けて頑張らないといけないし、生活時間が狂っている今、学校に通うのもしばらくの間大変に違いない。
「頑張ります!」
気合いを入れて光が言えば、川越と坂戸から両肩を叩かれる。言葉は無かった。でも、そこには頑張れという言葉が込められているようで、光はそれだけで百人力のように感じた。

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