Chapter.III:進むべき道 Act.01

レッスンが終わったところで、お礼を言うと志木にお茶へ誘われレッスン用の本を慌てて鞄の中へと片付けた。レッスン室から誘われるままに廊下へ出ると、私室へと繋がる扉を志木が開けた。
ここへ通されるのは、最初に面接を受けた時以来だ。あの時も緊張していたけど、今も緊張している。廊下を歩き一つの扉をくぐればそこは志木のリビング兼応接室となっている。
作り付けの棚には小物が並ぶ。けれども、その小物全てが音楽関係なのは、志木の家族が全員音楽関係者だからに違いない。
「そこに座って待ってて」
言われるままに光はソファに腰掛けると、部屋をぐるりと見回した。最初に来た時と代わり映えのない部屋だったが、壁に掛かる額縁入りの写真が二つほど増えていた。
一つは志木の娘である唯香のもので、志木の自慢の娘だ。光自身、唯香の話しは志木の口から何度も聞かされている。今二十五になる唯香はヨーロッパを軸に世界各国を飛び回っているピアニストだ。
そしてもう一つは、直接の面識はないものの、志木にピアノを教わる寄居という音大生だ。つい先日のコンクールで優勝した記事を光も読んだ。かなり努力している人で、コンクール前には志木を仲介して、光のレッスン時間をずらして欲しいとお願いされたことがある。
別に光としては急ぐものでもないから、言われるままに時間をずらすことを了承した。そしたら、前回のレッスンで寄居からお礼の手紙と菓子折を貰い恐縮してしまった。
「コーヒーで良かったか? あとはオレンジジュースくらいしかないんだけど」
「大丈夫です。あの今回はお時間取らせてしまってすみません」
「別に構わない。この後にレッスンは入っていないしね。それで相談っていうのは何だ?」
話しながらも光の前にコーヒーを置いた志木は、正面のソファに腰を下ろす。そしてテーブルの片隅に置かれた砂糖壺と、小さなミルクピッチャーを引き寄せると光の前に置いてくれた。
「実は音高を受けたいと思って」
「ピアノで?」
「違います。作曲です」
途端に志木は長いため息を零す。まるでホッとしたようなその表情で、光としては苦く笑うしかない。
「そんな無茶は言いません」
「うん、良かったよ。ピアノでと言われたら、さすがにどうしようかと思っていた。因みに何故作曲?」
「元々曲が作りたくてピアノを習ったんです。それで、これを聞いて貰った方が早いって姉が」
鞄の中から取りだしたのは先日イベント合わせで出したCDだった。こうして知り合いに聞かせるのは初めてのことで、光は緊張しながら手にしたCDを志木に差し出した。
「これは自費制作?」
「はい、僕が作ったものを姉がイベントとかで売ってくれています」
「今聞いてもいい?」
恥ずかしさはある。それでも一つ頷けば、壁際にあるオーディオにCDをセットすると志木はリモコンを操作する。
流れ出した音楽に志木は何も言わない。しばらく部屋には音楽だけが流れ、酷く落ち着かない気分で光は膝の上で手を握り締める。一曲が終わったところで、志木は音楽を止めると小さくため息をついた。
「……驚いたな。これは光一人で作ったのか?」
「はい」
「機材は揃ってるのか?」
「最低ラインですけど揃っています」
「君のお姉さんは中々怖い人だ。これを聞かせた方が早いって言ってたんだろ? 光のお姉さんって確かまだ高校生だったな」
「今高校二年です」
答えれば志木はそのまま腕を組んで、テーブルの一点を見つめている。考え事をしているのが分かるだけに、光はそのまま黙って志木の様子を伺っていた。
「光が音高に行くためには三つ問題がある。一つは単純に勉強の問題。すでに七月の終わりだというのに、これから目指すとなれば色々とやらないといけないことが大量にありすぎる。今のレッスン時間ではとても足りない」
「それは分かってます」
「残り二つの方がずっと切実な問題だ。もう一つはお金の問題。幾ら作曲とはいえども、音楽というのはそれなりにお金が掛かる。レッスンだって時間を増やせばそれなりの金額になる。そしてこれは三つ目の問題とも掛かるけど、光は保護者に音高へ行くことは伝えてあるのか?」
「保護者の件については、まだ……ただ、音高については国立か公立で私立は考えていません」
「俺から言わせて貰えば、一番の問題は光の保護者だ。俺が聞いている限り、とても素直に頷く相手だとは思えない。高校生のお姉さんが保護者になることは無理だ。保護者である伯母さんを説得できるか?」
それは恐らく厳しいに違いない。けれども、国立や公立でお金が掛からないとなれば、あの伯母だって許可を出してはくれないだろうか。
今現時点で恵は高校に行っている。伯母としては高校くらいは行って貰わないと困るに違いない。だとすれば、光が高校へ行くこと自体は反対しない気がする。
「伯母さんへの説明が必要なら俺が出向いてやる。どうする?」
「……とりあえず、僕から話しをしてみます。あの、音高を目指すことは反対しないんですか?」
「反対はしないな。しかも面接でこのCDを持ち込めば、さらに評価は上がるだろうし、学科さえ悪くなければ合格だって夢じゃない。そういえば、この間貸したベートーヴェンは聞いてみてどう思った?」
いきなり逸れた話題だったが、志木相手だといつものことだ。こういう所は少し恵と似ている気がする。
「とてもきれいな和音でした。カノンって言うんですか? 輪唱みたいな曲はとても心惹かれました。重厚で一分の隙もない感じの音楽で圧倒されました」
「君のお姉さんは、音楽をやるのか?」
「いえ、全くしません。でも、先生から借りたCDを一緒に聞いた時には、四角を沢山並べたような曲だと言っていました」
「四角……何だか君たちは面白い姉弟だな。レッスンを増やすことについてはお姉さんとも少し話しをしてみよう。ただ、光は伯母さんと話し合うことが必要だ。結局、保護者の了承が無ければ、合格しても入学できないからな」
「分かりました。近いうちに話してみます」
「ただ、急ぎなさい。何にしても時間が無いからな」
少しだけ気鬱になりながらも、お礼を言って光は志木の家を後にした。
ピアノを習っていることは伯母には伝えていない。音高に行きたいということであれば、そこから説明をしなければいけない。
だが、今になって気になったことがある。果たして、このレッスン代金は誰が出しているのか。光はそこまで考えたことがなかった。
音高に行きたいと言った光に、恵は行きたいなら気合い入れて勉強して受験すればいいと言っていた。それは、もしかして恵が学費を払う、ということなのだろうか。
少し前になるが、伯母が家に来た時、恵は伯母に叩かれた。あの時、伯母は私の敷地に住むなら、と言っていたけど、あの伯母であれば生活費云々とか言う気がするのに、それに触れなかった。
そんな伯母が本当に恵の学費を、そして二人の生活費を出してくれているのだろうか。
そう考えた途端、何もかもが不安になった。約束していた通り川越の家に向かうと、そこにいたのは川越と坂戸の二人だけで恵の姿はない。
「あの、姉さんは?」
「ケイなら学校。担任に進路のことで呼び出されたらしい。あいつ進路希望の紙出してなかったらしくてさ。うちの学校、三年から進路によってクラス分けされるもんだから、携帯に電話掛かってきて、もの凄く嫌そうな顔で出て行ったぞ」
「進路……あの、姉さん大学行くんですよね?」
途端に川越と坂戸は顔を見合わせて、それから何とも言い難い顔で光を見る。
「僕たちはケイの進路について聞いてないから知らないよ。ただこの間雑誌掲載決まったから、もしかしたら大学へは行かないつもりかもしれないね」
「そうなんですか? だって僕が聞いた時は、大学に行くようなことも言ってたのに……」
「ケイも色々考えてるだろ。少なくとも俺より人生設計はできてると思うな。プロになりたい、っていうのはずっと一貫してるし」
確かに昔から恵はプロになりたいと言っていた。だからこそ、そういう専門の大学なり学校に行くのだとばかり思っていた。
でも、音楽と一緒で美大だってお金は掛かる。画材だって新たな物が必要になるに違いない。それをあの伯母が出すとはやはり思えない。だから恵は進学を諦めてプロ一本に絞ったんだろうか。
だとしたら、それを相談すらされなかったことが酷く悲しい。確かに光は弟で、恵と比べたら年下だ。でも、三歳しか違わない姉が色々なことを諦めているのに、自分一人がやりたいことをやるのは違う気がする。
「何かあったの?」
「僕が好きなこと色々やっているのって、本当はいいのかと思って……」
「別に好きなことはやって構わないんじゃないの? 何が問題なの?」
「僕、音高に行きたいんです。でも、ピアノの先生から保護者の同意が必要だって言われて、でも伯母がそれを認めてくれるとは到底思えなくて。……それ以前に、そのお金ってどこから出てるんだろうって……考えたら怖くなってきて」
言葉にしてモヤモヤとしていた気持ちがはっきりと分かった。そう、怖いと思う。もし、恵がしたいことを我慢してまで光のためにしてくれたのだとしたら、光は何も返せない。三つという年の差を埋めることは、どうやってもできない。
「伯母さんってのは、どういう人なんだ」
「余り一緒に住んでいなかったので分かりません」
「でも生活費とか出してくれてるんだろ? だったら光が心配するようなことは何もないだろ」
「それが……本当に生活費を伯母を出しているのか分からなくなって……僕、本当に音高行っていいんでしょうか?」
「光くん、それは僕たちじゃなくてケイに聞くべきじゃないの? 僕たちじゃ何も答えられないよ。それに分からないことが多すぎる。ケイは家のことについて多くは語らないし」
「でも、姉さんが素直に話してくれるとは思えない。だって、僕は何も、何一つ姉さんから相談されたことがない……」
当たり前かもしれない。今まで恵には迷惑を掛けるだけ掛けて、伯母の家を出ることになったのも元は光のせいだ。いつでも恵は光の前に立ち、光を庇ってくれた。そんな恵が光を頼る筈もない。
「別に行きたいなら行けばいいだろ。ダメならケイがダメ出しするだろ」
「でもいつまでも姉さんに甘えてる訳にも」
「光の稼ぎあれば音高くらい行けるだろ。そりゃあ、私立とかは無理だろうけど、公立とか国立だったら、光の稼ぎだけで行けるんじゃないのか?」
「……僕の稼ぎ?」
「あのCDだよ。凄い売れてるんだろ?」
「そうなんですか? 僕はその辺よく分からなくて」
「はぁ? あれだけ売れてて本人知らないってありなのか?」
川越が問い掛けたのは坂戸に対してで、坂戸も難しい顔をしている。
「光のCD、店とかでも売ってるからかなり売れてる筈だけど、そういうのケイから聞いてない?」
「はい、売るとかそういうのは姉さんが全部やってるから……あの、本当に売れてるんですか?」
「この間出したばかりのCDは店によってはトップになってたけど……シュウ、パソコン借りるよ」
一応断りを入れてから坂戸はどこかのサイトに繋ぐと、音楽CDというカテゴリーをパソコンで開いた。そこにはランキングが表示されていて、そこに現れたのは見慣れたCDのパッケージだ。
「ほら、これ先月のランキングだけど、発売されたの先月末にも関わらず三位になってる。恐らく、来月には一位になると思うけど……」
そのまま坂戸は口を閉ざしてしまい、難しい顔をしたままパソコンを見ている。
「でも、作るのにお金も掛かるし」
「絶対に純利は出てるだろ。純利ってのは制作費とか抜きにした利益のことな」
だとしたら、何故恵はそのことを教えてくれなかったのだろう。売上を恵が勝手に使ったとは到底思えない。少なくとも、光が知る限り恵はそういうタイプではない。だとしたら、何故教えてくれなかったのかが分からない。
「ケイにも色々考えがあるんだと思うよ。ケイと色々話してみたら? ケイ隠したりする性格じゃないし」
「そうだとは思いますけど……」
「音高についてはケイも反対していないんでしょ?」
「公立や国立だったら構わないって言ってます」
「だったら、早く問題を片付けて受験に向かわないと。僕が知る限り、美術とか音楽、そういう芸術関係の受験は本当に大変だって聞いてる。普通の学科の他にも色々音楽の知識が必要になるみたいだし」
「それは今日先生にも言われました」
「だったら、問題は早めに解決しておくべきだと思うよ。もう受験まで半年と少ししかないんだし」
「はい……あ、すみません。色々と僕の話をしちゃって。これ、ロープレ用の街の音楽になります」
鞄から慌ててCDを取り出せば、難しい顔をしていた川越の顔が明るいものへと変化する。
「街って全部で十二カ所あったけど、もう全部作ったのか?」
「まだ手直しが必要ですけど、早い方がいいと思って」
「聞いていいか?」
光が答えるよりも先に川越は既にCDを取り出しオーディオにセットしている。こういう所を見ていると、親子よく似ていると思う。
既に川越の家では何度か一緒に食事をさせて貰っている。恵が謝罪する度に笑い飛ばし、謝罪などなかったように次の話題へ移る。その切り替えの早さは川越と瓜二つだ。
恵や志木とは違い、川越親子は意識してそうしている気がする。恐らく、それが川越たちなりの気遣いなんだということは分かる。
そこからは、曲について話し合い、この街は少しイメージと違うなどと坂戸からダメ出しされたりしながら、一時間ほどの時を過ごした。
結局、恵が合流したのは三時過ぎで、どういう話しをしたのか恵は言わない。そしてすぐにゲームの打ち合わせに入ってしまい、進んだシナリオを坂戸から配布され、恵は全員の立ち絵と上半身絵を川越に渡す。
そこからはキャラについて、色々話し合う内に七時を過ぎ、川越の両親が帰ってくる前に家を出た。恵は川越の両親が帰ってくる時間を凄く気にしている。
それはそうかもしれない。川越の両親が帰ってくれば、恵や光がいると必ず家まで送ってくれる。恵はそれを心苦しく思っているらしい。それは光も同じで、恵が気づかない時には光が脇から小突いたりすることもあった。
街灯が灯る中、二人で歩いていたけど、恵から振られる話題はゲームのことばかりだ。高校のことやお金のこと、切り出したいことは色々あったけど、上手く言葉がまとまらず光は言い出すことができなかった。
そして家に帰って恵がコーヒーを淹れる。話しをしたい。だからこそ、テーブルを挟んだ目の前に光が座れば、光がどう切り出すか迷っている内に恵から切り出してきた。
「音高のこと、先生に言ったんだってね」
「うん、言った。大丈夫だって言われた」
「あとは伯母さんか。まぁ、何とかするよ」
「何とかって、伯母さん、僕の音高のためにお金出してくれると思う? 今だって姉さんの学費出してくれてるの?」
「出してくれてるって」
「姉さん、本当のこと答えて。僕、色々知らないといけない気がするんだ。伯母さんは、僕たちのこと本当はどこまで面倒みてくれてるの?」
少し俯く恵の顔は見えない。そういえば、いつのまにか恵の身長を抜かしてしまい、昔のように隠された恵の表情が見えなくなった気がする。
「光が気にするようなことは何もない」
「気にしないとダメだよ。だって、もし姉さんのお金で食べさせて貰ってるなら感謝しなくちゃいけないし、高校行くのも色々考えないといけない」
「高校は行きなさい。それは私がどうにかする」
「だからどうにかじゃなくて、僕のことだよ! 一方的じゃなくて相談させてよ! 僕が頼りないのは分かるけど、僕は色々知りたい。それに先生にも言われた。音高に行くには保護者の了承が必要で、伯母さんをきちんと説得しないといけないって。その為にも、僕は色々知る権利があると思う」
黙った恵の言葉を待つように、光もそのまま口を噤む。一度気づいてしまった恐怖は、恵の言葉からでないと拭えない。何よりも、光にとって恵は守って貰うべき親じゃない。たった三つしか違わない姉であって、全てを恵に被せて逃げる言い訳にしてはいけない。
「シュウとかアキの影響なのかなぁ、光が色々考えるようになったの。それとも志木先生?」
「姉さん」
呼んだ声は少し責める響きだったかもしれない。こちらを見上げた恵の顔は困ったように笑っていて、責め立てた手前少し苦しい。
「別に悪いとは言ってない。ただ色々と隠したいことが隠せなくなって、それを光に背負わせるのがちょっと辛い」
「僕は一緒に考えたい」
「……伯母さんからお金は一銭も出して貰ってない。基本的に伯母さんがしてくれたのは、この家を貸してくれただけ」
そこで一旦恵は立ち上がると、机の引き出しから銀行の通帳を取り出すと差し出してきた。銀行の通帳は二つあり、一つは恵名義、一つは光名義となっていた。
「生活費とか学費、それから光の通信講座とかレッスン費用は私の口座から出してる。光の口座に入ってるお金は主にCDの売上」
まず最初は上にある恵の通帳を開いた。残金が予想していなかった桁数あり、思わず一、十と桁を数えてしまう。そして、そこにあるのが四千万弱。月に一回、光熱費が引き落としされ、生活費なのか月々六万円が引き出されている。
次に開いた光名義の口座は、色々なところから入金があり、残高は一千万近くになっていた。
「時折引き出しがあるのは、CDの作成費用。それだけ貯金ができるくらいには光のCDは売れてる。言ってたでしょ、シュウもアキも、光の音楽が凄いって」
「でも、まさか……」
「先生、褒めてたよ。CDの出来に」
「本当に?」
「嘘ついてどうするのよ。レッスン費用もこれから出すから、レッスンについても増やして貰った」
志木はお姉さんと話しをすると言っていた。既にそのことについても、恵と志木の間で話し合いはあったらしい。もっと色々なことについて話し合いたいのに、現状だけが目まぐるしく変化していく。その早さについていけない。
「それなら、レッスン費用は僕のから」
「馬鹿ね、音高行くってことは音大目指してるんでしょ? きちんと貯めておきなさい。大学入って足りなければ光の口座から使うことになるんだから」
「でも、姉さんだって大学行きたいんじゃないの?」
ようやく思い出したことを口にすれば、恵はまるで何でもないことのように笑う。でも、恵が何故そこで笑うのか光には分からない。真面目な話しをしているのに笑われるのはさすがに面白く無い。
そんな光の思考が顔に出ていたのか、恵はすぐに笑いを引っ込めると謝ってきた。
「ごめん、ごめん。そうね、今後必要だったら行くかもしれない。でも、私は既にプロになる確約を一つだけ貰った。だから次は光の番。今はお互いになりたいものになれるための努力をしよう」
決して納得した訳じゃない。けれども、恵を納得させられるだけの言葉も思い浮かばず、モヤモヤとした気持ちを抱えたまま光は頷いた。
帰る途中で買ってきた弁当を食べて、交代で風呂に入ると光はいつものようにパソコンの前に座る。それぞれ機材の電源を入れると、幾つものランプが点灯し、それを確認しながらパソコンの電源を入れた。
光の隣では既に集中に入った恵が、ペンタブを片手に漫画の練習をしていて、それを横目で眺めながらヘッドホンをつける。
パソコンが立ち上がり、昨日作りかけだったファイルを開きシンセで音を乗せていく。音入れしては消して、また入れて、それを納得行くまで繰り返す。
けれども、曲を作ってみて光は自分が思っていた以上にナーバスになっていることが分かった。きちんとエフェクト処理などはしていないけれども、この時点で曲が暗すぎる。少なくとも坂戸から貰ったプロットを見る限り、これは暗い曲にするべきではない。どこか先があるような音楽が欲しいのに、そのメロディが降りてこない。
結局、二時間ほど掛けて作り上げた曲は納得いかず、弄る前の段階までデータを呼び出して全て消した。
今までであれば、ナーバスな気分すらも音楽作りに利用していたけど、作りたい曲が作れないという弊害が起きるとは思ってもいなかった。
とにかく光の期限はあと一月しかなくて、時間がない。だからこそ、途中まで作っていた曲は一旦棚上げして、ナーバスな気分によく合いそうな曲を探し出し、それを一から作り始めた。
何故ナーバスになっているのか、理由が混在しすぎていてよく分からない。ただ、このモヤモヤとした気持ちが落ち着かないことには、光らしい曲が作れないことだけは分かる。大まかな主題が決まったところで一息つけば、隣にいた筈の恵は既に眠ったらしくそこにいない。
時計を見れば既に三時を過ぎていて、ヘッドホンを外すと光は小さくため息をついた。
色々なことがモヤモヤとしていて落ち着かない。伯母に言わなければならないこと、恵にレッスン料を出させてしまうこと、そして自分一人が大学を目指すこと、そのどれにもモヤモヤとした気持ちがつきまとい、何が原因なのか分からない。
とにかく一つずつ問題を片付けないことには、曲作りにも没頭できない。だからこそ、明日は伯母の家に行くことを決めると、光は自分自身で決めていたスケジュールを頭の中で二、三日ずらした。

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