Chapter.II:形になるもの Act.02

試験勉強はアキが光の勉強を見てくれることもあり、恵の家で行うことになり既に三日目となる。元々広い家じゃないから、男三人も集まればむさ苦しいし、かなり狭い。
「ちょっと、そこに筆箱置かないでよ、邪魔」
「邪魔って、ケイももう少し言い方があるだろ」
「はいはい、シュウは筆箱床に置く。ケイも言い過ぎ。もう少し静かにしててよ。それで光くんの課題はここまでだっけ?」
こういう時、いつでも取り仕切るのはアキだ。のほほんとした顔立ちと雰囲気に騙されがちだが、絶対にこのメンバーの中ではアキが最強だと思う。
アキの怒りは何というか独特で、顔は笑っているけどあの冷ややかな視線が穏やかさなんてものを全て吹き消す。あの目に見られた途端、冷や水を掛けられたかの如く寒々しい気持ちになり、反論を封じられる。
川越と顔を見合わせてから、お互いに口を開くこともなくアキに言われた問題集を解くべく視線を落とした。
別に恵としては今さら勉強する必要はないと思っていた。赤点さえ取らなければそれでいいと思っていたし、実際に赤点は取っていない。でも、学校で今のまま誰とも距離を置くのであれば、もう少し上の成績を狙うべきだと言う。
理由としては二つ。まず、多少なりとも成績が上がれば先生方の受けが悪くないこと。もう一つは、ケイが勉強していれば、一緒に勉強する光の安心度が違うということ。
そのどちらも納得いくものではあったので、結局小さな丸テーブルを四人で囲む羽目になってる。
でもさすがアキは成績上位者だけあって、どんな科目でも教えてくれるし、教え上手だと思う。実際、こうして見ていても光の上達度は全く違う。スクールでも褒められたと嬉しそうにしていたこともあって、恵としては悪くない傾向だと思った。
「アキ、この問題、この公式でやっても答え合わないぞ」
「きちんと応用問題って書いてあるでしょ。だからその公式だけだと解けないことになってるの。大抵こういう問題はテストの最後の方に出て、点数も高いんだから少し問題を読み解かないと」
「うぅ……」
唸る川越は眉根を寄せて問題集を睨み付けている。いつまでも人にかまけている場合でもないので、恵も開いた歴史の問題集を穴埋めしていく。
三日目ともなれば光も随分と慣れてきたのか、時折アキに質問している声が聞こえる。そしてそれに穏やかに応えるアキには本当に頭が上がらない。
大抵の時間は静かだけど、集中力が切れてくると徐々にそれぞれ雑談が増えてくる。けれども、このメンバーで共通してる話題はやっぱりゲームのことだった。
「色々進めたいしさ、やっぱりゲーム作成も解禁しない?」
「あんたが一番心配な頭してるからゲームも凍結する羽目になったんでしょ。せめて普通に授業聞いて赤取らない努力くらいしなさいよ」
「うーん、否定できないのが困るかな」
「酷っ! 光、お前は俺の味方だよな?」
「シュウ、光くんは全国統一テストで百番以内には入っているんだけど」
苦笑しつつもアキが答えれば、唖然とした顔をした川越は確認するかのようにこちらを見る。だからそれを肯定する意味で一つ頷けば、川越は頭を抱えて叫びだした。
「俺の味方はいないのかー!」
「いないかもね」
あっさりと言い返せば、まだ川越はうるさく騒いでいる。こうして仲間になるまでは、何に対しても本気になれないクールな奴だとだと思っていた。それがまさか、こんな小うるさい奴だとは思いもしなかった。でも、クールぶっている川越よりかはずっと付き合いやすい。
「つか、うっさい、黙れ!」
丸めた参考書で川越の頭を叩けば、そのまま床に寝そべりシクシクと泣き真似をする。
「大の男がそれやってても、可愛げとかへったくれなんてないから」
「だよなぁ、つまらんことした」
あっさりと起きた上がった川越は、大きく伸びをするとぼやき始めた。
「俺はこの世の中から試験なんてもん、なくなればいいと本気で願うね」
「気持ちは分からなくないけど、嘆いても恨んでも無くなるものでもないんだから諦めたら?」
「まぁ、分かってるけど……俺さぁ、今は本気でゲームの方に打ち込みたいんだよ。分かる? この熱意」
「熱意よりも赤取れば、それだけゲーム作り込む時間もなくなるだけでしょ」
「でも、ケイだってゲームのイラスト作りたいだろ?」
「それは、まぁ……」
確かに川越からの注文はあれからさらに増えて、宿題となっているイラストが三枚ほどある。だから作りたくないと言えば嘘になる。けれども光の前で約束した手前、自ら破る訳にもいかない。
「……あのさ、無駄口なら二人とも外で叩いてくれる。僕たちは勉強したいんだけど」
もの凄くアキは笑顔だった。その笑顔とは裏腹に目が全然笑っていない。その薄ら寒さに慌てて立ち上がると、ごまかすように声を掛けた。
「飲み物でも買ってくる」
「お、俺も一緒に行ってくるわ」
慌てて隣に座っていた川越も立ち上がり、二人して逃げるようにして外に出た。そして扉が閉まった途端にため息をついて、お互いに顔を見合わせる。
「川越、無駄話多すぎ」
「そういうケイだって人の話に乗ってただろ」
「それ以前に……アキが怖すぎ」
「同意」
会話を交わしながら階段を下りると近くのコンビニに二人で向かう。
少し前であればこんなことは想像できなかった。川越と二人並んで歩くこと、それ以前にクラスメイトと無駄口叩き合っているのが信じられない。もっといえば仲間がいるということが信じられないくらいだ。
適当にコンビニで飲み物を買い、少しつまめるスナック菓子を買うと、半分払うと言ったにも関わらず川越が全て払ってしまう。
「自分が食べる分くらいは払うけど。それに光の分もあるし」
「いや、だって生活大変なんだろ?」
「別に川越に心配されるほど大変じゃないけど」
確かに金に対して口うるさく言ったのは自分だ。でも、こうして生活の心配までされると余りいい気分じゃない。まるでそれは……。
モヤモヤとした気持ちが胸にわだかまって嫌な気分だ。勿論、川越に悪意なんてないし、そういうつもりでの発言じゃないとは思う。ただ気持ちが荒んでいるだけだ。そう考えて、ささくれだった気持ちを落ち着かせる。
「まぁ、奢ってくれるってなら奢って貰う。でも、こういうの今回だけだから」
「何だよ、可愛くねぇの」
「別にあんたに可愛いとか思われたくないけど」
「そりゃあそうだ」
カラカラと楽しげに笑う川越の様子に、少しだけ気持ちが落ち着いてくる。別に川越は深く考えている訳じゃない。だから大丈夫だと思いながら、少し前から思っていたことをこの場だからとぶっちゃけた。
「それにしても、まさか川越がそこまで本気でゲーム作るとは思ってなかった」
「んー、何だろうな。俺もよく分からないけど、ケイとかアキが本気でやってるのを見てると、俺もそこに混ぜろみたいな感じ? ほら、ケイとアキって時々、ストーリーについてガチンコでやり合ってる時あるじゃん。ああいうの見てると、こっちまでテンション無駄に上がってくるんだよな」
その気持ちは恵にも少し分かる。元々、恵とアキでは好みは似ているけど、同じ人間じゃないからそれぞれ感性が違う。それをお互いに理解しながらも、妥協せずに話しをしている時は熱が入る。
それはアキも同じらしく、普段穏やかなアキの口調が少しだけ変わる。でも、お互いに妥協せずに話している内に第三の道が唐突に開くことがある。あの時の達成感みたいなものは、一人では絶対に味わえないものだ。
「ようは楽しい訳ね」
「楽しいな。できることなら、いつまでも続けばいいと思うくらいには楽しい。あれだな、祭り前の楽しさっていうかさ」
「でもこれから修羅場が待ってる訳だけど」
「単純かもしれないけど、このメンバーならそれなりに楽しくできるんじゃないかと思ってるけどな」
「呆れた、本当に単純。少し前までは根暗女とか言ってた癖に」
「お前もエロ猿とか言ってたんだからお互い様だろ。……まぁ、でも悪かったよ」
こういう所は意外にも川越は素直だと思う。そういう意味では癖があるのはアキの方かもしれない。でも、川越が言うように確かにこのメンバーで何かをするのは、思っていたよりも悪くない。
「お互い様だから謝る必要もないと思うけど。こっちもごめん」
「ついでに言えば、できたら俺もシュウ呼びの方がしっくりくるんだけど」
「考えておくわ」
「あのなぁ……まぁ、いっか。気が向いたら頼むな」
拗ねるかと思いきや、思っていたよりもあっさりと引き下がった川越の表情は晴れ晴れとしたものだ。それだけ今が楽しい、ということなのかもしれない。
恐らく恵自身、川越と似たような表情をしているのかもしれない。楽しくて仕方ない、子どものような顔。そうであればいいと思う。
部屋に戻ると、相変わらず真面目にアキが光に勉強を教えている。そして教わる光も真剣で、憧れのアキに教わるのは緊張すると言っていた光は既にいない。
最初にアキの小説が気になり出したのは光だった。サイトを見つけてきて、イベントに出るから買ってきて欲しいと頼まれた。そんなに面白いのかと思ってサイトでアキの小説を読んだ時、ものの五分でその世界に引き込まれた。
情景が見える小説、それは凄いことだと思ったし、何よりも展開が楽しくて続きが気になるものだった。イベントでは何度もアキのスペースに本を買いに行ったのに、アキの存在に気づかなかったのは、光と同じでスペースを人任せにしていたところがある。
だからアキと初めて顔を合わせた時には本気で驚いた。そして逃走の末に捕まり全てを自白させられた。確かにあの時の恵は間違いなくてんぱっていたに違いない。
いずれアキの小説を漫画にさせて欲しいと言った時、アキは大げさだと笑った。でも、恵としては本気だっただけにはぐらかされた気がして、その時は酷く残念に思った。
でも、こうして今回ゲームに誘って貰えたということは、それなりにアキにも評価して貰えたということなのだろうか。聞いてみたい気がするけど、今となっては身近になりすぎて怖くて聞けない。
こんなことを思うくらいなら聞いておけば良かった、などと思ったけど今さらだ。
「今日は夕飯食べてくの?」
「ごめん、僕は帰るよ。ここ最近、帰りが遅いからちょっと家がうるさくて」
アキに言われて、そういえばここ最近八時過ぎまで引き留めていることに気づく。それから帰るとなれば、アキも川越も八時半を回る。
「ごめん、遅くまで引き留めちゃって」
「僕は楽しいからいいけど、一応家の方も機嫌を取っておかないといけないからね。川越はゆっくりしていきなよ」
「そうさせて貰う。俺なんて今さら家に帰っても飯ないだろうし」
「そういう訳で、僕はそろそろ失礼するよ」
アキは手際良く荷物を片付けると、光が慌てた様子でアキに頭を下げた。
「あの、色々と有難うございました」
「お役に立てて光栄だよ。今度、僕が使ってた参考書持ってきてあげるから」
「はい」
元気に返事する光を見るのは、どれくらいぶりだか思い出せない。でも、その目がまるで少女漫画の如くキラキラして見えるのは、憧れの人が目の前にいるからなのだろう。慣れてきたと言っても、やっぱり感覚は早々変わるものでもないらしい。
「色々ありがとう。今回のテストは楽そうで助かった」
「そう? でも、ケイはもう少し歴史やっておいた方がいいよ。そしたら平均点は間違いなく越える筈だし」
「痛いところ突くなぁ」
「突かないと赤点じゃなければいいやって逃げそうだから」
確かにそう思っていた部分が無い訳ではないから、両手を挙げて降参のポーズをすればアキが楽しげに笑う。それから川越に視線を向けると、笑顔で机においてある参考書に付箋を二つ貼った。
「シュウはこの付箋の間、全て明日までやっておくようにね」
「俺だけ宿題か?」
「当たり前でしょ。放っておいたら一番やらなさそうなんだから。ケイ、ノートパソコン、試験終わるまで絶対に発注しないでね」
「分かった」
「おいおい……さすがに信用なさ過ぎじゃないか?」
「普段の行いがものを言うんだと思うよ」
笑顔でアキに言われてしまい、言葉に詰まった川越は最後に大きく肩を落とした。玄関先まで恵が見送りに出れば、アキが少し声量を落として声を掛けてきた。
「シュウ、一緒に連れて帰った方が良かった?」
「前なら突き返したところだけど、今は全然。遅くても十時には追い出すから」
「うん、そうして。一応、ご近所さんの手前もあるだろうし」
「あぁ……全然気にしてなかった。近所付き合いもないし」
「それはそれで問題な気がしないでもないけど……。また明日の件についてはメールで」
「分かった。気をつけて帰ってね」
手を振ってアキを見送った後、部屋に戻ればすっかり川越と光は新しく出た新作ゲームの話しで盛り上がっている。今度貸すという川越に光が素直に喜んでいるところはちょっとほほえましい。
一層、姉じゃなくて兄だったら光はもう少し言いたいことも言えたのかもしれない。でも、いまさから変われるものでもないから、こればっかりは光に諦めて貰うしかない。
そのまま恵は狭い台所に立つと、川越が家から持たされたという食材を使って、今日は中華風で攻めてみた。
大量の餃子と冷凍の焼売、そして圧力鍋を使った焼き豚に、中華サラダ、中華スープと用意してテーブルの上に並べた。そして三人で食卓につけば、いの一番に川越が挨拶をして食事を始める。
下らない話しをしながらとる食事は美味しいらしく、二人の時よりも光はよく食べる。それが嬉しくて、恵の口もよく回るようになる。
「そういえば、アキの家ってもしかして両親うるさいタイプなの?」
「まぁ、うるさいタイプだな。アキも成績落とせないってぼやいてたし、帰りとか遅くても九時が限度だしな。だからアキの奴、コンサートとかにも行けないんだぜ」
「じゃあ最初にうちに呼んだ時大丈夫だったかの? あの時九時回ってたけど」
「あの日は最初からうちに泊まることになってたから大丈夫。でも中学からアキと一緒だけど、アキが外泊認められたの、この間が初めてだぞ。今時ありえないよな」
「まぁ、アキってお坊ちゃんみたいなタイプだから分からなくもないけど……」
確かに男子で九時の門限を守る人間がどれだけいるかと考えると、川越の言い分も分からなくはない。それでも九時という門限をアキは一度も破ったことはないのだろう。それは川越の口調からも分かる。
「そういうあんたの家はどうなのよ」
「うち? うちはその日の内に帰れば怒ったりしないな」
「それはそれで色々問題ありな気がするけど……でも、放任気味だけどきちんとした両親ではあるのね。こうして食材持たせてくれたり」
「今度飯食いに連れて来いって言ってたぞ」
「それは……胃が痛くなりそうな話しだわ」
「まぁ、考えておけって。それよりもさ、ノートパソコン、アキに内緒で早めに発注しないか?」
「却下」
会話は弾み、話題はくるくると変化しつつ楽しい食事を終えると、追い出す間も無く川越は帰って行った。
食事の洗い物を片付けて、次は二時間ほど勉強でもしようかと思っていれば、玄関のチャイムが鳴った。さすがにこの時間に訪ねてくる人間に思い当たるはずもなく、警戒しながら玄関先から声を掛けた。そこで帰ってきたのは意外な人物からの声だった。
「私だけど」
あの家を出てから一度だって顔を出したことのない伯母のもので、光と一瞬顔を見合わせてから鍵を開けた。途端にもの凄い勢いで部屋に入ってきた伯母は、手を振り上げたかと思うと頬に熱が走り、突然のことに何が起きたのか理解できない。
「姉さん!」
その声で我に返ると、ようやく伯母に叩かれたことが分かる。
「あんた、ここに男連れ込んでるそうじゃない! 幾ら家を出たからって言っても好き勝手しないで頂戴!」
「別に連れ込んでる訳じゃなくて、一緒に試験勉強しているだけです」
「言い訳は結構! ここは私の敷地なの、好き勝手にしないで。もうご近所様に噂になってるのよ! 全く恥ずかしい。あなたたちがどんな生活しようと勝手だけど、私の家に迷惑掛けないで!」
アキや川越は決して恥ずかしいと言われるような相手じゃない。一層のこと腹立ち紛れに殴り返したいところだけど、光の手前そんなことはしたくない。
「分かったの? 分かったら返事くらいしなさい!」
「分かりました。これからは気をつけます」
「それに光はいつになったら学校に行くの! 全く、あの子があんたたちを甘やかして育てるからこんなことに……」
とても優しい両親だった。けど決して優しいばかりではなく、厳しく叱るし許されないことをすれば本当に容赦ない人たちだった。でも、とても大切な人たちで、それを伯母に言われるのは怒りではらわたが煮えくり返る思いだ。
そもそも、両親が生きていた時にはこの伯母との付き合いはほとんど無かった。会うのは正月くらいで、その時にもチクチクと嫌味を言ってくる伯母を両親はさらりと流していた。だが、最初から恵にとってこの人は大嫌いな人だった。
でも今はまだ手を上げる時じゃない。だからこそ掌を握り締めて、奥歯を噛んで飛び出しそうな罵詈雑言を全て呑み込む。
二十歳になるまで、とにかく耐えなければいけない。そうすれば、この人の庇護など必要としなくなる。だから、それまではとにかく耐えないといけない。
「離れて住んでるからって好き勝手に出来ると思わないで頂戴!」
言いたいことを言うと、伯母は扉も閉めずに部屋から出て行ってしまう。
離れて住んでいるから何だと言うのだろう。生活費すら出さない癖に、何を偉そうに上から物を言うのか分からない。恨み辛みを呪詛のように吐き出したい気持ちでいっぱいになり、心の中に嵐が吹き荒れる。
自分一人であれば、間違いなくこんな場所とっくに飛び出していたに違いない。それでも、飛び出す選択をしないのは、大切な弟がいるからだ。保護者がいなければまだ路頭に迷う年で、光にそういう生活をさせたくない。
卒業すればこの家だって出られる。とにかく、残り一年半ここに住めばあとはあの人に求めるものは、賃貸契約時に必要な保証人という役割だけだ。引越先は絶対にここから離れた場所を探してやる。
扉が閉まる音で顔を上げれば、泣きそうな顔をした光が屈み込んで自分を見ていた。
「姉さん、ごめん……」
「……何で光が謝るの」
「僕が学校行ってないから」
「関係ないわよ。あの人は何でもケチつけたいんだから。大方、旦那と喧嘩でもして八つ当たりしにきたんでしょ。気にする必要ないわ」
上手く笑えたか、それは鏡がないから分からない。ただ、笑った瞬間に叩かれた頬が痛くて顔をしかめた。途端に光が慌てたように台所でタオルを濡らすとそれを差し出してきた。
「ありがと」
お礼に対して光は相変わらず泣きそうな顔で何度も頭を横に振る。学校に行っていないせいなのか、光は年の割に幼く純粋だ。擦れていないせいか喜怒哀楽もはっきりしていて、既に目尻に涙を浮かべている。
渡されたタオルを頬にあてると、殊更明るい声で恵は光に声を掛けた。
「さてと困ったことになったわ」
「……何が?」
「ここが使えない以上、これからどこを作戦本部にするべきか考えなくちゃ」
「……姉さん」
「あんたも泣きそうな顔してないで考えなさい。できるだけお金が掛からなくて、長時間居座れるところ」
心配そうな顔は変わらない。それでもホッとした表情を見せる光にニッと笑って見せると居丈高に声を掛けた。
「その前に、痛みに耐えるお姉様にコーヒーでも作って下さらない、弟よ」
恵の変化に呆気に取られた顔をした光だったけど、次の瞬間には笑い出すと「かしこまりました」といって台所へと入っていく。そんな光を見送ってから、恵は六畳間に戻るとラグの上に腰を下ろした。
あの伯母にアキや川越を侮辱されたのはもの凄く腹が立つ。それ以上に両親を馬鹿にするあの言動が本気で腹立たしい。けれども、現実問題としては光にも言ったように作戦会議ならぬ、打ち合わせ場所が必要だ。
まさか打ち合わせの度にファミレスを使うにはお金が掛かりすぎる。だからといって、両親のいるアキや川越の家に集まる訳にもいかない。
せめて自分が男であれば、こんな問題気にする必要も無かったのに。そう思ってはみたものの、どうにもならないことをぐだぐだ考えていても埒は明かない。
だったら、今は前向きにどうするべきか、本気で考えるべきだった。とにかく、アキと川越に相談のメールを送るべくパソコンの椅子に座り直す。そしてメーラーを立ち上げた途端、新着メールが幾つか舞い込んでくる。
その中の一つに、先日返信した野田からのメールがあった。あれから三日経っても返信がないから、用はないということなのかと思っていたがそうではないらしい。メールを読めば、都合がいい時間に事前に知らせて貰えば会社に来て貰って構わないというもので、さすがに恵としても眉根を寄せる。
会社に来いというくらいだから、本当に出版社に勤めている人間なのは証明された。ただ、何故そこまでして恵に会って話しをしたがるのか、その理由が分からない。
どうして、こう面倒っていうのは纏めて起きるんだか……。
一人心の中で呟きながら、野田に対して丁重な文面で明後日夕方六時に行くと返事を入れた。試験前ではあるが、面倒は先に片付けておきたい。何か分からないことで不安になるのも嫌だし、ゲームの進行に関わるのは避けたい。
そしてアキと川越にメールを書き上げるよりも早く、野田からのメールは返ってきた。内容を確認すれば了承した旨が簡潔に書かれていて、恵は大きくため息をついた。
「姉さん、どうかしたの?」
問い掛けと共にコーヒーマグカップを差し出され、それを素直に受け取れば中身はカフェオレになっていた。
「別に何でもないわ、ありがと」
お礼を言ってから口に含めば、コーヒーの苦味と甘さが同時に広がる。我が弟ながらよく姉の味覚を理解していると思う。感情が揺れた時、普段なら飲まない甘いカフェオレが飲みたくなる。それは恵が中学時代から変わらない。
だから、カップを置くと、隣の椅子に腰掛けた光に腕を伸ばし、その頭を嬉しさと照れくささ込みで精一杯ガシガシと遠慮なく撫でた。

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