目覚ましの音で朝四時に起きると、大抵扉の隙間から隣の電気が零れてくる。長い髪をヘアバンドで纏めて隣の部屋へ行くと、眠そうな顔で光が「おはよう」と挨拶してくるのが恵の日課だ。
「早く寝なさいって言ってるでしょ」
「うん、もう少しで切りがいいんだ」
「そういう問題じゃないでしょ。夜寝てる時にこそ成長ホルモン活発になるんだから、きちんと寝ないと本当に大きくなれないからね。だから光は女顔のままなの」
それだけ言うと台所のシンクで顔を洗う。丁寧に顔を洗った後、化粧水と乳液だけは忘れない。それから再び奥の和室に戻るとジャージに着替え、肩にタオルを掛けた。
「もう行くの?」
「雨降ってないから行く」
「なら僕も行くよ。まだ薄暗いし」
首から掛けていたヘッドホンを外した光も椅子から立ち上がり、二人揃って部屋の外に出た。朝特有の冷たい空気が身体を包む。それを感じながら部屋の鍵を閉めると、アパートを降りた所で軽く身体を動かす。
屈伸して、前屈などもした後に、手首につけた時計でストップウォッチを動かし出すとゆっくりと走り出した。
「姉さんは学校楽しい?」
「楽しいだけって言ったら嘘になる。でも、学べることは沢山ある。私は学校行って良かったと思ってる。アキに言われて何か思うところでもあった?」
「……うん、あったかも。どうして……人って好きなことだけやってちゃダメなんだろう」
それはまた随分根本的な問題だ。でも、質問してくる光にとっては切実な問題なのかもしれない。
「馬鹿ね、簡単な話よ。人間は霞食べて生きていけないじゃない。食べるためにはお金が必要だし、そのお金を手に入れるためには働くしかない。確かに好きなことで食べていける人はいるけど、そんな才能だけで生きていける人なんて数少ないから努力するんでしょ」
光はそのまま黙ってしまい、お互いに黙ったまま走り続ける。近くの公園周りを走り、近所の中学を回る。朝の空気は身体をすっきりとした気分にさせてくれる。
そういえば、こうして光がランニングに付き合ってくれるようになってから、もう一年近くなる。何となく付き合い出したのかと思っていたけど、危ないから、という理由だと知った時に恵は随分と驚いた。
どれだけ女顔の弟でも、一応男だったってことか。
そんなことを考えていれば、隣を走る光がこちらに視線を向けてきた。いつの間にか身長は恵より少し高くなっていることに気づいたのはついこの間だ。
「音楽で食べていけないかな」
「食べたいならそれなりの勉強は必要でしょ。もっと光は知らなくちゃいけないことがあるでしょ。やりたいなら音楽の基礎もきちんと学ぶべきだと思うけど」
「先生にも言われた」
ここで光が言う先生は恐らくピアノ教師のことだろう。家にピアノはない、登校拒否、そんな子どもをあの先生はよく受け入れてくれたと思う。そして、時折光に苦言を投げてくれる。それはとても光にとって為になる良い存在に違いない。
正直、お金に余裕がある訳じゃない。もし光が高校、そして大学なり専門学校に行くのであれば、三千万の貯金なんてすぐに底をつく。勿論、あの伯母が光の学費を出してくれるとはとても思えない。
「姉さんは大学、行くの?」
「まだ決めてない。三年になってから考えるつもり」
光にはそう答えたけど、恵の中で大学という選択は既にない。行くのであれば美大に行きたい。けれども、美大というのはお金が掛かる。そんな経済的余裕は恵の中にない。
大人になってお金の流れが分かれば、光は怒るに違いない。けれども、姉として光にそういう負担を考えさせたくはなかった。
だから、実際ライトとしての活動についても、全て恵が手配していて光はどれだけ自分のCDがどれだけ人気があって、どれだけ売れているのか知らない。今は自分の作った曲がCDになって喜んでいる程度のものだ。
「漫画家になるの?」
「いずれなるつもり」
「それは好きだから?」
「そう、好きだから。だからその為の努力は幾らでもする」
今は稼ぐための手段になっているけど、実際、漫画を描くことは好きだ。描いている最中、自分の姿を全て忘れ去って話しに没頭できる。あの時間が本当に好きだ。
自分の遣り方を今さら否定するつもりはない。ただ後悔があるとすれば、稼ぐための道具にしてしまったことへの後悔だった。
「必要だと思ったら行きなさい。絶対にあんたの糧になるから。音楽をやりたいとしてもね」
「姉さんは糧になってる?」
「少なくとも、学校に行くことで色々な場所をスケッチできるから充分糧にはなってる。それに先生に助けられてる部分もある」
「先生……」
元々光は口下手で、どうして学校に行かなくなったのか、その理由は恵にもよく分からない。ただ光は「行く意味がない」と説明した。本当は問い詰めるべきだと思うけど、それを正しく受け止められるだけの自信が恵にはない。
自信がないというよりも、光に対して正しい答えを出せないだろう自分がいるから怖いのかもしれない。
光の同級生から話しを聞いた限りでは、いじめとかそういうものがあった訳じゃないことは分かる。ただ、聞いた全員が言っていた「可哀相」という言葉だけが今でも耳に残る。
もし、それを何度も光が友達の口から聞かされていたのだとしたら、学校に行きたくなくなる理由も分かる気はする。少なくとも、可哀相なんて気持ちで見られて気分がいいものじゃない。何よりも可哀相だけじゃご飯は食べていけない。
むしろ可哀相だと思うくらいなら、お前の夕飯を寄越せくらいな気分になるのは、恵が荒みすぎているのかもしれない。
恵が漫画を描き始めたのは中学生の頃だった。元々空想の世界は楽しかったし、漫画を描く友達もできた。まだあの頃は両親もいて、毎日漫画を描くことは楽しいだけのことだった。
二年生になる頃には友達と一緒にイベントで本を売るようになった。最初に作った本は、今思うとまるで修学旅行のしおりのようだった。でも、それでも買ってくれる人がいて友達と手を取り合って喜び合ったのは今でも鮮明に覚えている。
けれども、徐々にその友達と差がつき始めて、周りから個人で本を作るべきだと薦められた。友達も嫌がったし、恵自身も友達と作ることが楽しかったからそれでいいと思っていた。
その友人との間に亀裂が走ったのは、両親が事故に合う三日前のイベントでのことだった。
イベントで本を買ってくれた人が、スペースを離れるところでぼそりと呟いたのが原因だ。
「あーあ、ケイさんだけの漫画だったらもっと安くて済むのに」
そのまま立ち去った人はその後の惨状を知らないに違いない。友達はスペースで声もなく泣き出し、周りのサークルさんはオロオロしていたと思う。そして私自身、彼女に何も言えなかった。そしてできた亀裂はそれだけでは収まらなかった。
葬式を終えて学校に出てきた私に、みんなが可哀相だという。伯母の家でお世話になるから引っ越すことになったことを伝えれば、友達は言った。
「あれだけお金が稼げるなら、叔母さんも可愛がってくれるよね」
それが当てこすりだったのか、嫌味だったのか、今となってはその真実は分からない。ただ、周りの目が途端に色めきだつ。そんな中で友達はイベントに一回出ると十万は稼げるとか言い出したものだから教室は大きな騒ぎになった。
当たり前だ。中学生にしたら十万円はかなりの大金だ。それがきっかけで引っ越すまでに、話したこともないクラスメイトがたかってきたりして散々だった。勿論、そのまま友達とは口を利くこともなく引っ越したのでその後は知らない。
嫌なことを思い出した。
そんなことを考えながら、いつもの公園で顔を洗うとタオルで顔を拭う。
「姉さん」
声を掛けられて慌てて顔を上げれば、いつもより少し真剣な顔をした光がそこにいる。
「どうかしたの?」
「高校卒業したらあのアパート出るって本当?」
光の言葉で、昨日アキたちと話した会話を思い出す。そういえば、光にはまだそのことを話していなかった気がする。
「そのつもりだけど」
途端に泣きそうな顔をする光を見て、ようやく光の考えていることが分かる。
「でも、その時は光も一緒。当たり前でしょ」
「伯母さん……許してくれるかな」
「バイトでもしてどうにかするわよ。幾ら叔母さんでも自分たちで出て行くって言えば、いいって言うに決まってるでしょ」
むしろ喜んで追い出しに掛かる気もしたが、それはあえて口にしない。親族の手前、世間体だけで引き取った伯母は早く自分たちの手元から恵たちが離れてくれることを望んでいる。結局、あの人たちにとって大切なのはいつでも世間体だ。
一層のこと、親族の前で自分たちはこんなボロアパートに住まされています、と大声で言ってやりたいくらいだ。したところで、どの家にも余裕がある訳じゃない。住ませてくれるだけマシじゃない、と言われることは目に見えているが……。
「姉さんと一緒でいいの?」
「いいに決まってるでしょ。光が成人するまでは私が面倒見るわよ。その代わり、成人したらきっちり自分の足で立てるだけの基盤は作りなさい。その為に何をするべきなのか、きちんと考えて」
その言葉に頷く光を見ると、その背中を軽く叩いた。
「さてと、家に帰ってご飯」
殊更明るく言えば光も笑顔で歩き出す。
あれから二年、もうこの生活にも慣れた。それなのに不安に思うのは、これから先への不安定さなのかもしれない。
既に出版社からは何件かプロにならないか、と話しを貰っている。でも、それは高校を卒業するまで待って欲しいと言って全て断った。プロの収入とイベントでの収入、それを考えるとイベントの収入を捨てることはどうしてもできなかった。
それなのにゲームの話しを引き受けるなんて、自分的にも本当に馬鹿げていると思う。実際、お金になるか分からないゲームなんて、そう思っていた。
それでも引き受けたのは、好みの小説を書くアキからのお願いというのもあった。でも一番は、自分がやってみたいと思う気持ちが大きかったからに他ならない。
誰かと何かを作る。そういうことをもう一度やってみたかったのかもしれない。
家に帰りご飯と目玉焼きにベーコン、そしてサラダと味噌汁という簡単な朝食を終えると五時を回る。シャワーを浴びて五時半になると机に向かう。
朝のこの時間は基本的なパースの練習をする。定規とシャーペンを使って一点視点、二点視点、三点視点、練習用の写真から意識して三枚のイラストを描き上げると次の写真に移る。
漫画を描くのに練習しないといけないことは沢山ある。コマ割りもそうだし、パースも勿論、骨格や筋肉のつきかた、勿論ストーリーも考えないといけない。そのどれもが練習しなければならないもので、しなければすぐに感覚が鈍る。
だからこそ、恵にとって朝のパース練習は欠かせないものでもあった。
今の恵を支えているものは、漫画以外に他にない。だから、それに対して手抜きすることだけはしたくなかった。
途中、これから寝るという光に、生活習慣を改めるように小言を伝え朝の八時までひたすら机に向かう。それから慌ただしく制服に着替えると、鏡の前で前髪を下ろし鞄を持って学校に向かった。
クラスにいても友達はいない。けれどもやることが無い訳でもなく、いつものように鞄を教室に置くと向かった先は化学室だった。
「あら、おはよう」
いつも笑顔で迎えてくれるのは化学教師の鶴瀬だ。準備室の開いた扉からコーヒーの香りが流れてくる。
「すみません、今日もお邪魔させて下さい」
「別に構わないわよ。朝霞さんは邪魔するようなこともないし。それで今日は何にするの?」
「できたら顕微鏡を」
「分かったわ」
すぐに鶴瀬は小さな鍵で棚を開けると小箱を取り出す。机の上に一旦置いて箱の中から顕微鏡を取り出すと机の上に置いた。
「角度を変える時、必ず台座を持って持ち上げて。下手なところを持つと壊れるから」
「分かりました」
顕微鏡を置いて貰った近くの椅子に座ると、すぐに手元の鞄からスケッチブックを取り出す。鉛筆を走らせていると鶴瀬が声を掛けてきた。
「次はどこへお願いに行く予定?」
「一応音楽室の予定です」
「もし楽器類狙ってるなら高坂先生がいいわよ。高坂先生なら吹奏楽部の顧問だし。ただ今の時期はやめておいた方がいいかもしれないわね。あそこも大会近くてピリピリしてる筈だから」
そこまで言われて吹奏楽に大会があることを知った。てっきり吹奏楽部は学校行事で演奏するだけかと思っていたけど、そういう訳でもないらしい。
「大会っていつなんですか?」
「確か七月の終わりだった筈よ」
「だったら二学期になってからお願いしてみます」
「そうした方がいいと思うわ。それに明日から期末試験一週間前だからここも出入り禁止よ」
「それなら他にスケッチできるところ、探さないといけないですね」
ため息混じりに答えれば、鶴瀬は慰めるように軽く背中を叩くと準備室に姿を消してしまう。
最初にスケッチできる物を求めてお願いしたのは、一年の時に担任だった体育教師だった。最初こそ根掘り葉掘り聞かれて嫌な気分になった。
けれども、きちんと説明をすればとても協力的にスケッチをさせてくれた。そのお陰で、高校にある体育用具はほぼ網羅しているといっても過言じゃない。そして担任は他の教師にも声を掛けてくれたお陰で、今ここで恵がスケッチできる環境にいる。
体育、書道、地理、そして化学。各教科の先生にお願いして色々な場所をこの一年半でスケッチしてきた。中には友達を作れとうるさく言う先生もいたけれども、それを聞き流してしまえば概ね悪くない環境に思えた。
卒業してしまえば、こういう資料は写真の中でしか集められなくなる。けれども、写真は立体的構造には弱い。何よりもその一面からしか見られないので、自分で描こうとした時には困ることになる。
勿論、想像で補うことは可能だけど、できるだけ描ける物は多ければ多いに越したことはない。
顕微鏡の細部は思っていた以上に細かくて、横からのスケッチをしただけで予鈴が鳴ってしまい、鶴瀬に挨拶をして慌てて化学室を後にした。
クラスに戻れば既にほとんどの生徒が教室にいて、恵は静かにクラスへ入ると席についた。そして鞄の中から文庫本を取り出すとそれを読み出す。
クラス替えしてすぐに声を掛けてきてくれたグループはあったけど、休み時間や放課後に付き合いが悪いと疎遠になっていく。だから孤立するまでの時間は余り掛からなかった。勿論、それは外見によるところも大きいことは自覚している。
ただこのクラスには恵と同じように孤立した女子が数名いて、グループを作る時にはそういう孤立した女子とグループを組んだりすることもある。でも、孤立するということはそれだけお互いに群れたくない事情もあるから、多少会話をしても深入りするようなことはない。
それが友達というものにトラウマを持つ恵にとって心地良い距離でもあった。
それに余程きつく言ったからなのか、あれ以来、川越がちょっかい出してくるようなこともしない。
授業が淡々と過ぎる中、授業についていける程度の勉強は授業中にきちんとしておく。別に成績上位を狙うつもりは毛頭無い。ただ赤点を取らない程度理解していればいいのだから、授業だけで充分だった。
短い休み時間は、人気のない場所で人体模写に励む。骨格や筋肉のつき方や動き、そういったものを時間の許す限り資料を元に描いていく。
昼休みには再び化学室に籠もりスケッチをし、午後から授業を受ける。そして家に帰って漫画を描く、というのが大体恵の一日の生活でもあった。
けれども、今はそれも違う。家に帰って最初にすることは、パソコンに向かいメールのチェックをすることだった。
そこでアキや川越からくるメールをチェックし、返信が必要であれば返信する。特にここ最近遣り取りが増えたのは川越相手だ。アニメーションを作っている関係か、殊更細かい指示が飛んでくる。
やれ剣を持った腕を描いて寄越せやら、横顔から正面に向くまで六コマ分寄越せやら、何かと注文が多い。でも、今なら川越が無駄にそういう注文をつけている訳じゃないと分かっている。だからこそ、今晩もそのイラストを仕上げるためにペンタブを握るに違いない。
いつもと似ているけど、少し違う日常。そして、こうやって連絡を取って遣り取りする相手がいることは、一人で漫画を作っている時とは違う楽しさが確かにあった。
そんな中で、一つだけメルマガに紛れて見覚えのないメールアドレスがあり、不審に思いつつそのメールをクリックした。
それは先日のイベントで挨拶にきた出版社の人から入ったメールだった。名刺には野田と書かれていたが、メールの主も出版社名と野田という名前になっている。
けれども、野田には既にイベント会場ですぐにでもプロに、ということだったのでスカウトをお断りした。だから今さら、こうしてメールがくる理由が分からない。
不思議に思いつつメールを開けば、再び会って話しがしたい旨が書かれていて幾分困惑する。大抵、どこの出版社も卒業まで待って欲しいと言えばそれ以上連絡してくることは無かった。
高校二年、伸びしろもあるけど、まだまだ違う物に心惹かれる年だと思われていることも知っている。そして、ここで一年イベントから足が遠のけば、声を掛けてくる出版社は皆無になるという予想は簡単にできた。
メールには連絡先もあり、会社の電話番号と携帯番号、そして会社の住所と担当者である野田の名前が書かれていた。
果たしてこれは自分を説得するためなのか、それともまた別の用件なのか。少し悩んだ末にパソコンに入れてあるスケジュールを確認する。
明日から試験一週間前ということもあり、一旦ゲーム関連のスケジュールは凍結することにした。ただ、試験勉強をする約束をしているからどうしたものかと考える。
結局、恵は悩んだ末に今週一週間、夕方であれば時間の都合がつく旨を伝えるべくメールに書くと、送信ボタンを押した。
一体どんな話しなのか気にならない訳じゃない。ただ、分からないことをいつまでも悩んでいるのは性に合わない。
だからこそペンタブを握り締めると、川越のリクエストに応えるべくソフトを立ち上げてイラストを描き始めた。