嵐のまえに

幼い頃の記憶は曖昧で、細切れにしか覚えていない。けれども、小さな頃から遊んでくれた年の離れた従兄弟の顔は覚えている。陸兄さん、と呼んでよく遊んで貰っていた。
長い休みになる度に母親の実家に遊びに行ったけれども、親たちの話を聞いても楽しい訳がない。そんな中、連れ出してくれたのは陸だった。まだ小学生だった私を連れて、公園やプール、色々な場所に連れていってくれた。眼鏡を掛けて穏やかに笑う陸が大好きで、小学生の高学年になる頃には自分から陸を追い回していた気がする。
幼稚園、小学校、中学校と続いたけれども、私が高校卒業すると同時に疎遠になった。別に陸が変わった訳ではない。邪険にされたこともないし、いつでも私と会う時には穏やかな顔で笑う。その笑顔が本当に好きで、ただ一人高校卒業するまで好きな人だった。
けれども、卒業式前日、お祝いと称してプレゼントを持ってきた陸は彼女と一緒にいた。楽しそうに笑う二人に、私は笑顔を返せたのかどうかもよく思い出せない。ただ胸が痛くて、部屋に戻って涙が涸れるくらい泣いた。
あれから十年、私もOLになったし、大人にもなった。久しぶりに会う陸はやっぱり穏やかで落ち着いていて、でも、あの頃のようにふわふわとした優しげな雰囲気は無くなっていた。
少し開いた襖の隙間から見える陸兄さんの隣には、あの頃とは違う女性が座り、私の母親に挨拶をしている。
「由真、いつ帰って来たの?」
不意にこちらを向いた母親に声を掛けられて、渋々襖を開けた。幸せそうに笑う彼女の隣で、陸は目を細めて何か眩しいものでも見るように私を見ている。
「今帰ってきたところ。初めまして、陸兄さんの従兄弟の由真です。婚約したそうでおめでとうございます」
ギュッと掴まれるような痛みを胸に感じながら、彼女だけを見て深々と頭を下げた。今の私には彼だっている。もう陸のことは過去のことだと割り切っているのに、それでも胸が痛むのは????。
「有難うございます。陸から由真ちゃんのことは何度も聞いていたの。由真ちゃんからお祝いの言葉を貰えるのは嬉しいわ」
顔を上げて視線が合うと、彼女は艶やかに笑う。華やかともいえるその笑みに、痛みを堪えながら笑みを返した。
もう、あの頃のような子どもじゃない。だから、どんなに胸が痛んでも、どんなにこの婚約に否定的でも、表面上は笑みを浮かべて見せることはできる。仕事をしていれば、嫌でも本音と建て前くらいは使い分けできるようにもなる。
お茶の代えを取りに行った母親に取り残されてしまう。まさか、ここで退散する訳にもいかず、内心溜息をつきながら、肩から掛けていたハンドバッグを降ろすとテーブルを挟んで彼女の前に座った。
「私も嬉しいですよ。ようやく陸兄さんにお嫁さんができるんですから。やっぱり、上から順番に片付いていかないと、私も遠慮しちゃいますし」
「あら、由真ちゃんにも彼氏がいるの?」
「いますよ」
営業スマイルを顔に張り付けて答えれば、彼女は楽しそうに笑う。まさに幸せ一杯というその笑みに心がささくれ立つ。
「でも、まだ親には言ってないので秘密で」
「ふふ、分かったわ」
笑みを象る彼女の唇には赤の強い口紅が艶やかで、それがまたよく似合う。少なくとも、私には似合わない色で、それが悔しい。でも、そんな顔は絶対にしない。
「なのでパパッと結婚しちゃって下さい」
自分で言いながら自虐的だと思ったけれども、そこまでいってしまえば諦めがつく気がした。いつまでも心の奥底に燻り続ける想いは、早く捨ててしまいたい。さすが陸が結婚してしまえば、幾ら何でも諦めだってつく。
「えぇ、出来るだけ早く頑張ってみるわ」
そう言って微笑む彼女のイメージ色は深紅。バラのような艶やかさ、華やかさがあって、普段の自分であればこんな人になりたいと羨ましく想ったとに違いない。でも、陸の横に座る彼女には不快感を覚えるのは、陸が好きだからという理由だけじゃない。いつでも穏やかな陸に、こんな華やかな人は似合わないと思う。
それでも不機嫌さを隠さなければいけない自分が不毛すぎて、涙が出てきそうだ。勿論、いい大人がこんなところで泣く訳にもいかず、ニコニコと笑みを張り付けたまま他愛もない会話を交わす。そして、母親がお茶を取り替えに来たタイミングで私は、ごゆっくりなどと声を掛けてから和室を後にした。
彼女の隣に座る陸の顔を一度も見ることはできなかった。
残暑が続く中、陸がうちに現れたのは挨拶から二週間程たった日のことだった。彼とのデートが終わって家に帰れば、リビングで一人ノートパソコンに向かう陸がいて、心底驚いた。住んでいたマンションでボヤがあり、陸の部屋の下からの出火だったことで部屋が水浸しで使えなくなったらしい。
説明されながらも酷く落ち着かない気分で自室に戻ろうとしたところで、陸の手が腕を掴む。強い力じゃない。振りほどけるくらいの拘束に困惑しながらも陸を見上げた。
「どうして避けてるの?」
あからさまに行動したつもりはない。だからこそ、驚きはしたものの陸から目を離すことはしない。見下ろす陸の目はいつもと変わらず穏やかなもので、その顔にいつものように笑みを浮かべた。
「いつまでも子どもじゃないんだから、べったりな訳ないでしょ」
「そうだよね、由真にも恋人ができるくらいだし」
眼鏡越しに見えるその目が余りにも真っ直ぐに自分を見ていて、視線を逸らした。掴まれた腕から陸の熱が伝わってくる。知りたいけど、知りたくない。これ以上深入りしたら、言ってはいけないことを言ってしまう気がする。
「由真」
「そう、陸兄さんにも恋人ができて、私にも恋人ができた。お互いにそろそろ兄弟ごっこはできないってことでしょ」
どこか突き放すような嫌な言い方になったという自覚はあった。見上げた顔が悲しげなものになり、軋むように胸が痛む。視線を逸らしてごまかすように髪を掻き上げた。
「……ちゃんと感謝してるよ。一緒にいてくれたこと。お休み」
軽く拘束された腕からするりと逃げ出すと、そのままリビングを後にする。けれども、背後から呟くような陸の声が聞こえた。
「感謝……ね……」
その声はいつものように優しい響きではなく、どこか硬質で、私が知っている陸の声とはまるで違うもののように聞こえた。
ニアミスしたのはそれくらいで、それ以降、陸がリビングで仕事をしていることは無かった。翌日からは宛がわれた部屋で仕事をするようになったらしく、リビングで顔を合わせても大抵家族の誰かがいた。
たまに全員で食事をすれば、兄たちに子ども時代どれだけ陸に懐いていたか、からかわれたりもした。そんな時は子どものように拗ねたふりで躱し、陸は穏やかに笑うばかりだった。けれども、何か分からない奇妙な緊張がお互いの間にはあって、私も、多分陸もお互いの間にあるラインを踏み越えるような真似はしなかった。
仕事が終わってから不動産屋を巡っている陸の住まい探しは、楽ではないらしい。仕事場から近いということもあってうちに避難してきたものの、陸が最初に言っていた二週間という期限は日々迫っていた。
両親や兄たちは、決まるまで家にいればいいと言っていたけれども、陸はいつもと変わらず穏やかに笑う。そして、遠慮がちに断りの言葉を述べる。それから伺うようにして私に視線を向けてくるのが、たまらなく嫌だった。
別に困っている人間を追い出すつもりはない。けれども、奇妙な緊張感が陸を居づらくしているのは確信していた。だからといって、気にするなとも言えず視線に気付かないふりをすることしかできない。
傍にいて変に緊張するのが嫌だと思うのに、同じ屋根の下に陸がいることが嬉しいと思う自分がいる。
そんな曖昧な気持ちは、どれだけ上手に隠しても相手によっては隠しきれない。
「最近、上の空だよな」
恋人である亮二に言われて、慌てて陸の顔を頭から消し去ると亮二に視線を向ける。
「そんなことないけど」
「あれだよな。由真の従兄弟が一緒に住みだしてからだ」
「深く考えすぎだって、それ」
「本当に?」
問い掛けられていつものように笑みを浮かべて頷いたけれども、真っ直ぐに見つめてくる亮二の視線が少し痛い。
亮二が好きなことは嘘じゃない。ただ、亮二よりも陸のことが好きなだけで……でも、その時点で最低かもね。
そんなことを考えながらも笑顔で頷けば、目の前に座る亮二は小さく溜息をつくと軽く握った手で額を小突いてきた。
「な、何よ」
「別れようぜ」
「…………はぁ!?」
いずれこの思いが知れたら振られるだろうとは思っていた。でも、私が想像していたよりもずっと早い。
「由真、従兄弟が好きなんだろ」
「そんなことない!」
「別にいいよ。お前に好きな相手がいること分かってて強引に付き合ったの俺だし」
「でも、最終的に決めたのは私だし」
「俺さ、根本的に利用されるの嫌いなんだよね。それでも、由真にならいいかと思ってたけど……正直、今の状況はキツい」
窓の外に視線を向けた亮二の横顔は、どこか苦味を帯びている。見ているだけで苦しさの伝わるその表情から視線を逸らして、亮二と同じように窓の外へと視線を向けた。
大きなガラス窓の向こう側には、知らない人たちがそれぞれ目的を持って歩いている。けれども、それはよくある風景でしかなく、何ら面白みがあるものでもない。けれども、歩いている人たちを見ていれば、時間が徐々に経過していることだけは分かる。
いつまでも無言でいる訳にも口を開き掛けたところで、亮二が真剣な顔で見据えてきた。
「そんなことないとか、今さら言うなよな」
「……うん、ごめん」
「知ってて付き合ってたから、お前ばかり責められないけどさ。今日の映画はキャンセルな」
それだけ言うと亮二は椅子から立ち上がり、明日から同僚として宜しく、とだけ言って店から出て行ってしまう。その姿をガラス窓越しに見送ってから、大きく溜息をつくとテーブルに突っ伏した。
正直、絶対にバレてないと思っていただけでに、罪悪感で苦しい。口で言うほど自分は酷い奴だと思いたくない。けれども、実際には口で言う以上に酷い奴な気がして、もう一度大きく溜息をついた。
もしかしたら、陸よりも好きになれるかもしれないという思いもあった。でも、そんな考えは亮二に対して失礼なもので、そっけないものではあったけど傷つけてしまっただろうことは想像できた。
人を傷つければ、その痛みは自分にも返ってくる。痛む胸に軽く手をあてて唇を噛みしめる。自業自得だということは分かってる。痛む心を誰かに伝えて慰めて貰いたい。でも、それは自分がしていいことじゃない。振られたと言えば慰めてくれる友達はいるけど、そうして貰うことはいけないことだと思った。
自分が亮二の立場であれば、そう考えれば涙が滲んできたけれども、指先で目尻を拭うとまだ半分以上残っているカフェオレを口にした。対になるかのようにもう一つあるグラスには、まだ一口しか口をつけていないアイスコーヒーが取り残されている。
亮二には悪いことをしたと思う。だからこそ、携帯を取り出して謝罪の言葉を打って送信した。返信は三分もしない内に戻ってきた。
『従兄弟って結婚できるの知ってるか?』
問い掛けだったけれども、それは返信を求めているようには思えなかった。ただ、亮二が背中を押してくれていることだけは分かる。それを申し訳無く思い、それから、人の好い亮二に少しだけ笑うと心の中で精一杯の感謝の言葉を呟いた。
最後までアイスカフェラテを飲み干すと、少し気合いを入れて椅子から立ち上がった。会計をしようとすれば、お連れ様がと答えられ苦く笑うしかない。扉を開けて外に出れば、雲一つ無かった空は湧き上がるような入道雲で空が覆われそうになっている。
時計を見れば午後三時。帰るには随分早いと思ったけれども、このままだと一雨くるかもしれない。家に帰る足は重い。それでも、家に帰るために駅に向かって歩き出した。
電車に乗ってすぐ、雨は窓を叩き出し最寄り駅に到着した時にはバケツをひっくり返したような大雨になっていた。折りたたみ傘なんて持ち歩かないし、駅前にコンビニだってない。駅から五分も歩けばコンビニがあるけど、それなら家に帰っても一緒だった。
いつもであれば電話一つで出てきてくれる母は観劇に出掛けていて戻りは夜だと聞いている。兄二人と父親は、今日も仕事で帰りが遅いことは確定している。そして家に残るは陸一人。
陸しかいない家に帰るのは気が重かったけれども、二人だけの家でいられることに嬉しく思う自分もいる。矛盾していると思いながら、鞄を胸に抱えると駅の軒下から走り出した。
せめて駅前にコーヒーの一杯でも飲めるところがあれば、もう少し雨が止むのを待ったのに。そんなことを思いながら車通りの少ない道をひたすら走る。けれども、百メートルも走れば日頃の運動不足が祟っているのか、息切れしてしまい、既にずぶ濡れになったこともあってどうでもよくなってくる。
走る気力も無くなってのんびりと歩き出せば、ずぶ濡れで歩く自分がおかしく思えて笑ってしまう。何だかこの一ヶ月、本当に笑えるくらい感情の起伏が激しい。つい先まで亮二に悪いと思って落ち込んでいたのに、今は鼻歌でも歌いそうな勢いだ。
確かに亮二には悪いと今でも思っているし、考えれば胸も痛む。最悪なのは自分の選択であって、雨に濡れるのも自業自得で……何だか腹が立ってきた。確かに自業自得ではあるけど、残念ながら自分は感傷に浸ってヒロインになりきれるタイプじゃない。モヤモヤするのは自分がはっきりしないからであって、逃げてきたツケが回り回って現状があるだけに過ぎない。
何がどうあっても陸は結婚する。だったら、とっとと告白して振られて、次の恋に進む方がずっと健全だ。ただ、振られることが怖くて、逃げた末に亮二を傷つけたのであれば、これ以上の逃げは許されない。何よりも、これ以上逃げるのは背中を押してくれた亮二にも失礼だ。
家に到着して玄関を開ければ、すっかり風が強くなったこともあり玄関の扉は予想以上に大きな音を立てて開いた。その音に驚いたのか、玄関脇の客間を宛がわれていた陸が驚いた顔で襖から顔を覗かせた。
「ただいま」
「……お帰り」
陸が驚いた顔をしているのは、大きな音で開いた玄関の扉の音だったのか、ずぶ濡れの私の姿なのか、それは分からない。それでも、すぐにいつものように穏やかな顔になると、ちょっと待ってて、と言って廊下を歩いて洗面所に消えていった。すぐに出てきた陸の手にはバスタオルがあり、それを差し出されて足の先から頭までずぶ濡れになった身体を拭っていく。
バスタオルを渡してすぐに廊下から姿を消した陸は、リビングから声を掛けてきた。
「お風呂、先僕が入ったばかりだから入っておいで。まだぬるくはなってない筈だから」
「分かった」
濡れたストッキングは気持ち悪かったけど、ヒールを脱いでストッキング越しに水分を拭うと、すぐに風呂場へと直行する。夏の最中ということもあり、特別寒さを感じることはない。それでも、まだ温かい風呂に浸かれば自然と溜息が零れた。
扉越しきちんと温まって出てくるんだよ、と言われてはーいと間延びした返事をした途端、まだ中学生時代の自分と重なり苦笑した。しっかり温まってから髪や身体を洗って風呂から上がれば、しっかりとパジャマが用意されていて、こういうところにぬかりないところは陸だな、と感心してしまう。家族全員分の下着が用意されている棚から取り出した下着を身につけ、陸の用意してくれたパジャマを身につけるとリビングに足を踏み入れた。
途端に漂う紅茶の香りと共に、キッチンからティーポットとマグカップをトレーに乗せた陸が現れた。
「とりあえず、ソファに座って。寒いとか、気分悪いとかは?」
「ない、大丈夫だから。それに、もし風邪ひいたとしても、そんなにすぐ分かる訳ないじゃない」
「それもそうか」
お互いに笑いながらもソファに腰掛けると、手慣れた様子で陸はマグカップに紅茶を注ぎ、最後にリビング棚に入ったブランデーを取り出して紅茶に数滴落とす。そのままマグカップを差し出されて受け取ると口元に運んだ。ブランデーの香りを吸い込みながら一口飲めば、温かな液体が身体に落ちていくのが分かる。
「ごめん、仕事してたんでしょ? もう、大丈夫だから。それに今日はこれからデートなんでしょ?」
確か朝食の時に彼女と五時に待ち合わせをしていると言っていた。時計を見ればすでに四時前になっていることからも、そろそろ家を出なければならないに違いない。
「いや、今日の待ち合わせは無くなったんだ。それよりも、今日は台風がきてるって言ってたのに傘持って行かなかったのかい?」
「だって、晴れてたから」
「それに予定よりも随分と早い帰りみたいだし……何かあったの?」
心配そうな顔に失ってしまった立場を慰めてもらいたい、そんな欲望もあったけどそれは絶対にしてはいけない。だからこそ、軽く肩を竦めて見せた。
「別に、大したことじゃないの。ただ、予定が切り上げになって、大雨に降られただけ」
「そう? 何かあるなら教えて欲しいけど」
「陸兄さん、私、もう子どもじゃないんだから」
「うん、知ってる。正直、久しぶりに会って驚いたくらいだから」
「何が?」
正面に座る陸と視線が合った瞬間、先日のように空気が張り詰めるのが分かった。陸の顔がいつもの穏やかな微笑むような顔じゃなくて、真剣なものだったから口につけようとしていたカップを持つ手すら止まる。
「綺麗になったよ、由真は。あの頃とは全然違う」
間違いなく、好きな人に言われたら嬉しい筈の言葉なのに、嬉しいよりも先にどうしよう、と思っている。酷く落ち着かない気持ちで、心臓がうるさいくらいに鳴り響いている。風呂上がりだからとか、そういう理由じゃなくて指先まで熱い。
「あの頃は可愛いばかりだったけれども、大人になって綺麗になった」
落ち着かない気持ちなのは何故か、考えてみたいのに予想していなかった言葉を与えられて、その言葉ばかりがぐるぐると頭を回る。笑みを無くした陸の顔を見るのは初めてのことかもしれない。
落ち着かない、そうじゃなくて緊張しているのだと気付いたのは、手の中にじわりと汗が滲んでいることに気付いたからだ。自分を真っ直ぐに見ている陸から、金縛りにでもあったように視線を逸らすことができない。それどころか、指先一つ動かすことができず、自分も同じように陸を見つめ返すことしかできない。
緊張を孕んだ空気の中で、一瞬、部屋中が余すところなく照らし出される。そして地響きするような音と共に部屋中の電気が一斉に消えた。途端に視界が暗くなり、慌てて当たりを見回す。
「な、何が」
「雷が落ちて停電になったみたいだね。街灯も消えてる」
陸に言われて外を見れば、確かにリビングの窓から見える街灯の明かりすら消えている。それでも、薄暗いというだけで完全に視界を遮断するほどの暗さではない。
「懐中電灯、確かあっちに」
リビングボードの中にある懐中電灯を取るために陸に背中を向けた途端、背後から腕を掴まれる。その意図が分からずに振り返るよりも先に背後に引き寄せられて身動きが取れなくなる。
混乱する中で腕ごと抱え込まれたことに気付いたけど、何がどうなってこういう状況になったのか理解できない。
「り……陸兄さん?」
問い掛けても背後からの返事はない。代わりに抱き締められた腕に力が籠もる。
時折、稲光がしてリビングの床に二つの影が重なるのが見えるけど、指先一つ動かすことができない。夢か幻なのか、そんなことまで考えてみたけど、背後に密着する熱は確かなものでさらに混乱する。
「……オミが……由真はデートだと言ってた」
何故、一番上の兄である一臣が今日のデートを知っていたのかは分からない。そしてさらに分からないのは、何でこの状況でそれを陸が口にするのかが分からない。分からなくて混乱しているのに、伝わってくる陸からの熱がさらに混乱を深める。何よりも耳元で囁くような陸の声がいつもよりも低くて、肌が粟立つ。
「今日は帰らないとも言っていたのに、どうして帰ってきたんだい?」
「……わ、別れたから……」
別に素直に答える必要は無かったのだと口にしてから気付いたけど、今さら否定することもできない。ただ、酷く自分の声が緊張と混乱と羞恥で上擦っているのが分かる。
陸がずっと好きだった。でも、無邪気に触れることができたのは中学生までで、それ以降は頭を撫でられるくらいの触れ合いしかした記憶がない。それなのに、今は抱き締められている。
改めて自分の状況を考えると、それだけでグッと何かが込み上げてくる。心臓の音は雨に負けないくらいうるさいし、緊張と恥ずかしさで上手く考えがまとまらない。
「それは僕がここに来たから?」
いつもと変わらない落ち着いた言葉。けれども、その声がいつもよりも意味深な、まるで愛しい人に囁くような甘さを含んでいて……怖い。
「……関係ない。それより離して!」
このまま熱を感じていたら封じ込めた言葉が溢れそうになる。動かないと思っていた腕を上げようとしたけど、さらにきつく抱き締められて息が止まりそうになる。身体中が心臓になったみたいに脈打っていて、頭も身体も熱くて逃げ出したい。
「捕まえたから、もう無理です。どうして、今日に限って帰ってきたのかな……」
最後は独り言のように呟いたけれども、これだけ密着していると小さな声だって耳に届く。細身の身体だと思っていたけど、こうして抱き締められると逃げ出すこともできない。
「い、家なんだから当たり前でしょ」
「うん、そうだね」
耳元でしゃべらないで欲しい。いつもとは違うその声で話さないで欲しい。それだけで、その声だけでゾクリと背筋が震えるから止めて欲しい。
「由真がね、僕を好きなことは知っていたよ」
その言葉で身体中の体温が一瞬にして上がったのが分かる。
知られていた。その事実は恥ずかしくて逃げ出したい気持ちに拍車を掛ける。それなのに、抱き締める腕の力が緩むことはない。
「も……もう、好きじゃない!」
とっさに出てきたのはそんな言葉で、振り解こうと暴れているのに完全に押さえ込まれていてどうすることもできない。逃がすつもりは全くない腕に、混乱しすぎて涙まで浮かんでくる。
「本当に?」
耳元で低く囁かれた声に身体中が震えた。
知らない。こんな陸を自分は知らない。怖いのに、今すぐ離れたいのに、自分でもどうすればいいのか分からない。背後で笑う気配があり、それからうなじに柔らかなものが押し当てられて、身体が再び震えた。それが何か分からないほど子どもでもない。
「陸兄さん!」
悲鳴のような声で名前を呼べば、チュッと音を立ててうなじから唇が離れた。普段であれば穏やかな空気を纏う陸の周りに、いつも空気はそこにない。ただ、追い詰めるような空気が蔓延していて、ただ逃げ出したい。
「無邪気に懐いてくる由真が心底憎かったよ」
それは予想もしない言葉で、心を抉られた気がした。息が止まるような衝撃を受け、身体中が強張る。好かれてはいないかもしれないけど、嫌われているとは考えたことも無かった。ましてや憎まれているなんて、欠片すら考えたことがない。
「陸……兄さん……?」
「抱き締めて、全てを貪りたい欲を持っているのに、由真の無邪気さが本気で憎らしかった」
「え……?」
まるで、それは告白のように聞こえた。空耳かと思って振り返ろうとしたけど、強く抱き締められた腕に阻まれて陸の顔を確認することもできない。
「会わなければ忘れられると思っていた。それなのに、無防備さは相変わらずで、何よりも僕を見る由真の目は……相変わらず好きだといってる。何の拷問かと思っていたよ」
「でも、陸兄さんは結婚……」
心臓が壊れそうなくらいうるさい。期待しちゃダメだと思うのに、気持ちが急いて期待する気持ちを停められない。
「今日断られたよ。僕が由真を好きなこともバレた」
「ど……して……」
「元々、僕に好きな人がいることは気付いていたらしい。でも、この間ここへ来た時に由真だと確信した。あの日からずっと僕たちは拗れていたんだ。はっきりと別れて身軽になった途端、二人きりになるなんて……運が悪かったね、由真は」
どうして運が悪かったなんて言われるのかよく分からない。好きだと言われて、好きだと知られている。それなら両思いだというのに、何故、運が悪いなんて言うのか理解ができない。
「イヤ、なの?」
「嫌じゃないよ。ただ、由真が可哀相だと思ってね」
可哀相だと言われても、何が可哀相なのか全く分からない。ゆっくりと拘束していた腕の力が緩み、気持ちのままに陸へと振り返る。頭一つ分背の高い陸を見上げれば、少し困ったような顔で笑う陸と視線が合う。
「ここまできたら……」
陸の手が頬を撫でる。細く長い指が頬を辿り、それからゆっくりと唇を撫でる。心臓がうるさい。そして、目が陸から離せない。いつも浮かべる穏やかな笑みがスッと消えると、そこには真剣な目で自分を見下ろす陸がいた。薄く開いた唇から覗いた舌がゆっくりと唇を舐める。それは餌を前にした肉食獣のような強かさを持っていて、普段とはまるで違う。
「逃がしてあげられない」
顎をすくわれ唇を重ねられる。触れる直前に目を閉じたけれども、すぐに唇は離れていった。ゆっくりと目を開ければ、そこには欲望を隠すことなく漂わせた陸がいる。
兄妹のように育ってきた陸と恋人となるには、両親はいい顔をしないに違いない。それでも、もう離れる選択は自分の中になくて、薄暗闇の中、色気すら漂わせる陸の背中に腕を回した。
The End.

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