Act.11:一月の月隠り

二人だけの正月を終えて仕事始めを明日に控えた夜、ずるずると来てしまった生活に終止符を打つためにようやく志穂は切り出した。
「明日、自分の家に戻ろうと思うの」
雑誌を開いていたヒロは顔を上げると、しばらく志穂を見て、それから随分と前に淹れたコーヒーに口をつけると、小さく溜息をついた。
「実はそろそろ言われるだろうな、と思ってました。ついでに言うと、ずっと言い出さなければいいな、と思ってました」
「ヒロの気持ちも分かるけど、けじめはきちんとつけたいから。別にヒロと一緒にいるのがイヤな訳じゃなくて、一回、自分を立て直したいの」
「どうするか決めたんですか?」
ヒロの問い掛けに、志穂は満面の笑みで頷いて見せた。年末から自分がどうするべきか、どういう形で仕事をしていくか、色々と情報を集めて志穂なりに分析もしてみた。素人判断だけど、それでも、自分のことだからこれからどうするべきか自分で決めた。ヒロと付き合うと決めた時から、ここを出て行く覚悟はしていた。
「ヒロは明日、出社でしょ?」
「一応、明日までは社長なので行かないといけません。明日、夜には戻るので家まで送ります」
穏やかな顔でヒロがそう言ってくれるのは嬉しかったけど、言いたいことは家に戻る云々だけの話ではない。
「明日、私もサークルファイブに顔を出すから。一時くらいだとヒロも久住さんも少しは時間が空く?」
「え? サークルファイブに入るんですか?」
「逆よ。お断りするの」
「それじゃあ、他の会社へ?」
「二、三年ほどフリーでやっていくつもり。それで上手く波に乗れるようだったら自分で会社を立ち上げることも考えてる」
途端にヒロは苦く笑い、それから膝の上で開いたままになっていた雑誌を閉じた。その顔にはどこか諦めのようなものが漂っていて、気づいてしまえば黙ってもいられない。
「どうかしたの?」
「このまま同棲して、結婚まで持ち込もうとしていたんですけど、色々やる気になって志穂さんは手強いから難しいかな、と思っていたんです」
「結婚……そんなことまで考えていた訳?」
「結婚すれば誰にはばかることなく、この人は自分の大切な人ですって肩書きが証明してくれますから。落ち込んでる志穂さんも悪くないんですけど、生き生きしてる志穂さんは魅力的だから他人にちょっかい出されるのがイヤなんです」
凄く真剣にヒロが言ってるんだろうことはその表情からも分かる。分かるけど、そんなことを真剣に言われても困るというか、志穂としてもかなり恥ずかしいものがある。
「ヒロ、常々思ってたけど感情表現がストレートすぎ」
「いいじゃないですか。分かりやすくて」
「言われる方はたまったもんじゃないの。とにかく、自分のやるべきことをやって、それからヒロとの同棲なり結婚なり考えるから。今の私だと絶対にヒロを羨ましく思う時がくるし、後悔する気がする。遣りたいこと、遣るべきことは全て遣っておきたいの」
今のままでは何をしてもヒロと釣り合わない自分がイヤだった。今の自分に結婚はいい逃げ道になるだろうけど、こういう形で自分を甘やかすようなことはしたくない。少なくとも、現時点で生活に物足りないと思っている自分もいる。ヒロと付き合うことになったのは嬉しいけど、やっぱり私は好きなだけで全てが上手くいくタイプじゃないと思う。
「今から久住を呼びますか?」
「いい、仕事のことだし、きちんと会社に伺うことにする。それに、他にもお願いしたいことがあるし」
「お願い、ですか? それは聞かせて貰えないんですか?」
「明日、会社で話すから」
前向きになり、加納や竹河、そしてのどかや丸尾とも新年の挨拶と称して連絡をつけた。とにかく今、どうしても遣りたいことを見据えた時、何が何でも遣りたいと思ったことは一つだけだった。
「ヒロにも手伝って貰うからね」
「え? 何をですか?」
「秘密」
「えー、教えて下さいよ」
色々と知る前よりもお互いの間に緊張感は無くなり、穏やかな時間が流れている。程よく保った気遣いはお互いを心地よくさせる効果もあって、期限付きの同居であっても穏やかな気持ちでいられた。
今までだって誰かと暮らしていたにも関わらず、こうしてヒロと過ごしてみると、あれは自堕落な生活だったのだと今なら分かる。理由は色々あったけど、結局、一番の原因は寂しさだったのかもしれない。
明日にはここを出て行く。そう思うのに寂しさは感じない。それはヒロがいつでも隠すことなく、恥ずかしがるでもなく好意を伝えてくれるからだと分かる。だからこそ、志穂もヒロを不安にさせないためにも伝えないといけない気持ちがある。
だから、すぐ傍で雑誌を膝に乗せて不満そうな顔をするヒロの首に腕を巻き付けると、その頬に一瞬だけのキスを送った。
久しぶりに腕を通したスーツは、気持ちを真っ直ぐに立て直してくれる。今朝、ヒロが会社に出て行った後、志穂も荷物を持って自宅へと戻って来た。ヒロは家を出るまで色々と言っていたけど、半分本気、半分グチみたいな状況で、頭から否定している様子は無かった。ただ、二人の生活が本当に楽しかったから手放したくないという気持ちは読み取ることができた。そんなヒロの気持ちは嬉しかったけど、まずは自分を立て直して、これからのことを決めなければ何も始められない。
家を出る間際には、週末の食事だけは一緒に取って欲しいと言われ、それだけは子どもみたいに指切りして約束をした。指切りをした後に、本当は毎日コンビニ弁当というのが許せないけど、毎日は無理だから諦めますと言われて唇を尖らせたのは志穂の方だった。
姿見に映る自分は休み明けだからなのか、少しだけスーツが似合わない気がした。けれども、気持ちだけはすっきりしながら松葉杖を手に用意をすると、鞄を片手に家を後にした。まだ電車に乗るのは不安もあり、タクシーを使ってサークルファイブへ向かう。
その間にも携帯が鳴っていたけど、志穂は画面を確認してその電話に出ることはしなかった。朝一、まだヒロの家にいる段階から電話は鳴り始め、最初の一度だけ電話に出た。それは志穂の上司からのもので辞表を取り消して欲しいという願いでだった。それを一刀両断にしてお断りしてから、志穂はその上司からの電話には一度も出ていない。
世話になった恩は感じているけど、今までされてきたことを水に流せるほど達観もしていない。辞表は出してあるし、一度は許可を得たのだからこれ以上文句を言われる筋合いはない。有給だって一ヶ月休んだところで余っているくらいだったし、急ぎの仕事も無かったのだから問題は何もない。これまでされた分くらいは困ってしまえと思うのは、少し意地が悪いかもしれにない。
タクシーでサークルファイブの近くまで乗り付け、降りたところで時間を確認すれば六時を少し回ったところだった。念のため、昨日の時点で久住に連絡を入れると、一時から役員会があり、ヒロの役職を外すために少し揉めるかもしれないから、念のために六時半という約束を取り付けた。会社に行くことも伝えたけど、ヒロの件があるから今日だけは勘弁して欲しいということで、会社近くにあるカフェを指定された。
言われた通り、確かに会社近くにそのカフェはあり、床から天井までガラスに遮られた店内に足を踏み入れると、志穂は窓際ではなく一番厨房よりの一角に腰を落ち着けた。その場所も久住に指定されたもので、その席は余り人が座ることもなく他人の目が気にならないからと言われた。
そこで志穂はカフェラテを頼むと鞄から取り出したのは久しぶりに触れるノートパソコンだった。故意に避けていたところもあったけど、年末に頭がクリアになってから、志穂の中では色々と新たな企画が芽吹き始めていてそれを文章にしてとっておきたい。待ち時間をぼんやり過ごすよりも今は企画を詰める作業をしたかった。
しばらく企画作業に集中していれば、そんな志穂に声を掛けてきたのはヒロだった。そこに久住の姿は無く、時計を見れば六時二十五分となっていて、約束五分前になる。
「あれ、久住さんは?」
「今、ちょっと外出中で遅れそうだから先に行っていてくれって言われたんですよ。六時半までには間に合わせるということでした。志穂さんは、新たな企画でも立ててるんですか?」
「色々思いついたからね」
「あーもう、本当にこういう時にキラキラしてるんですから。志穂さん、もの凄く分かりやすいです」
「キラキラって何よ。そんなのしてないから」
「してますよ。仕事中の志穂さんを他の人が見てたのかと思うと、勿体ないと思います。そういう意味では会社を辞めてくれたのは良かったのかも」
「ヒロ、色々と思考が危ない」
そんな話しをしながらも、ヒロはカフェオレを頼むと志穂に一枚の名刺を差し出してきた。カラフルにデザインされた名刺は飯田コウヤ名義のもので、それを手にしてからヒロを見上げる。今さら、どうしてこの名刺を渡されたのか志穂としては意味が分からなかった。
「ようやく肩の荷が下りた気分です。これから、ようやく飯田コウヤとして仕事をしていくことができます。出発の意味で、志穂さんには一枚持っていて欲しかったんです」
「サークルファイブの社長という肩書きが無事、久住さんへ移ったんだ」
「少し揉めましたけど、ある程度の役員は既に久住が手を回していたみたいで、思っていたよりもあっさりと話しがつきました。むしろ、社内にあった荷物を片付ける方が大変だったくらいです」
「一人で片付けたの?」
「いえ、秘書が手伝ってくれました。とは言っても、元々久住の秘書ですが。今、家に荷物を置いて来たところです」
そう言ってウエイターが運んできてくれたカフェオレに砂糖をたっぷり入れると、ヒロはスプーンでくるくると掻き混ぜる。ヒロの大きな手に掛かれば、スプーンすら小さく見えるものだと少しだけ感動しつつも、そんなことは顔に出さず、志穂もカップに口をつけた。
「志穂さん、お昼は何を食べたんですか?」
「まぁ、適当に」
「コンビニ弁当?」
少しだけ嫌そうな顔をするヒロに、志穂としては一瞬言葉に詰まる。けれども、食べたのは確かだったから嘘をつくこともできずに開き直る。
「……そうよ、悪い?」
「食べないよりかは食べた方がマシですけど……やっぱり、夕食だけはうちに食べに来ませんか? 色々と心配ですし」
「遅くなったら泊まっていけばいい、って言葉もその裏に見え隠れするんだけど」
「バレました? まぁ、そう思っていますけどね。でも、やっぱりコンビニ弁当だけだと色々と心配なんで、できる限り一緒に食事をしてくれると安心です」
本気で心配していることが分かるけど、さすがに子どもでもあるまいしそこまで心配されるのは歯痒い気持ちになる。
「今までだってそうやって生きていたんだから大丈夫。でも、できる限りは自炊するように努力する」
「努力とかそういう問題でも無くてですね……単純に家に来て欲しいだけなんです。確かに食事もきちんと取って欲しいですけど、言い訳なんです。気づいて下さい」
顔を赤くしながらもこちらを見ることなく言うヒロについ笑ってしまえば、照れくさそうに笑いながらもヒロの手がテーブルに置いたままの志穂の手に触れる。いつでもヒロの手は温かくて、指先を絡ませてくるヒロの手をふりほどけなくなる。
「お邪魔なら出直してきますけど、どうでしょう」
その言葉に顔を上げれば、テーブルから少し離れたところに笑顔で久住が立っていて、慌てて志穂はヒロの手を振り解いてノートパソコンを閉じた。
「いえ、気になさらずにどうぞ」
それだけ言えば久住はヒロの隣に座ると肘で軽く小突いた。
「お前はも少し場所を考えろ。ここら辺だけピンク色だったぞ」
「そういうつもりじゃなくて……ていうか、昨日の時点で連絡入れてあったのに、何で遅くなったんだ?」
「色々とな。あぁ、まずは志穂さんに報告を。既にヒロから聞いてるとは思いますけど、今日限りでヒロの名義貸しは終わりました。色々と誤解させることになってすみませんでした」
そうするのが当たり前とばかりに久住に頭を下げられてしまい、志穂は慌てて久住の肩を掴む。
「私は久住さんに謝罪される理由はありません」
「けれども、志穂さんの怪我の原因にもなっていますし。それから怪我についても保険会社と相談してうちで全額支払わせて頂きました」
「そこまでして貰う必要はありません」
驚いて慌てて否定したけど、久住は真面目な顔のまま小さく首を横に振った。
「個人的にどうしても巻き込んだことを許せそうになくて、これはただの自己満足です。だから、志穂さんは気にしないで下さい。そもそも、ヒロを巻き込んだりしていなければ起こらなかったことですから」
助けを求めるようにヒロに視線を向けたけど、どうやら久住とヒロの間では取り交わしが既に終わっているらしく、ヒロは小さく頷くだけだった。そうなると志穂としても、これ以上口を挟みがたいものがある。迷っている間に頭を上げた久住は、改めて志穂へ向き直るとすぐに口を開いた。
「それで、志穂さんのお話というのは」
「それもヒロから聞いていると思うけれども、サークファイブへのお誘いですがお断りさせて頂こうと思ってお時間を頂きました」
「まぁ、予想はしていました。それでこれからどうするつもりですか?」
「一応、今月末には社を退職という形になるので、それ以降はフリーとして働くつもりでいます」
「来月にはフリーとして動ける、ということですよね?」
「えぇ、それは」
久住は足下に置いてある鞄を引き寄せると、その中から大きめの茶封筒を取り出すとそれを志穂へと差し出してきた。
「うちとしては、これを志穂さんに引き受けて欲しいと思っています。どうでしょう」
差し出された茶封筒を受け取ると、一枚目にはゲームプロジェクトの名前だった。それは、志穂が企画したサークルファイブで発表されたゲームタイトルだった。
「これ……」
「このままお蔵入りはやはり勿体ないと思うんです。それに加納さんに聞いたら、既にサイドビジュアルではこの企画は取り下げたものだという。でしたら、うちとしては企画した志穂さんを中心にしてゲームという形にしたい。二枚目を見て下さい」
言われるままにページを捲れば、そこに書かれているのは主なメンバー構成で、そこには加納やのどか、そして竹河や丸尾の名前があり、竹河の横にはヒロの仕事名である飯田の名前もある。
「でも、これだと」
「うちの人間も勿論います。だから現場レベルでは混乱が多少生じると思いますが、それについては加納さんと丸尾さんは上手くやるから問題無いとのことでした。秋山さんは、これから色々と相談して志穂さんの指示を仰ぎたいということでしたが、竹河くんについては諸手上げて賛同して貰えました」
「竹河は飯田ファンですから」
「えぇ、なので問題になるべきことはほぼクリアーしています。引き受けて頂けませんか?」
それはむしろ志穂の方からお願いしようと思っていたことでもあったし、もし無理であればこのゲームを久住から買い取ろうとも考えていたくらいだった。別に他の企画が無い訳ではないけれども、それでもこの企画を形にして志穂なりにケリをつけたい気持ちもあった。
「それはぜひ……正直、こちらからお願いしようかと思っていたくらいです」
「実はヒロから聞いていたんですよ。お願いがあるらしいけど、一体何だろうって。鈍いこいつは気づいてなかったみたいだけど」
「え? じゃあ、ヒロは知らなかったの?」
「知りませんよ。今、書類を見て驚いたくらいです。言ってくれたら良かったのに」
「こういうのは、ここぞと言う時に提示しないと意味ないだろ。お前に言ったらどうせ志穂さんに筒抜けだろうし」
「仕事の内容についてまで言ったりしないよ。信用ないなぁ」
その遣り取りはまさに長年の付き合いあるからのもので、遠慮ない二人の遣り取りが少しだけ目新しくて、楽しく思える。志穂としては、ヒロが余り気遣うことがない相手が久住なんだと分かるだけに、そういう相手がいることが少し羨ましくも思う。
「恋愛ボケしてる奴の言動なんて信じられるかっての。あぁ、そうだ、志穂さん、それからこれは提案なんですけど、フリーでやるということでしたら、企画をうちで優先的に買い取りさせて頂けませんか? 勿論、自分でこのゲームだけは作成に関わりたいということでしたら、それも言って貰えたらスタッフを揃えます。実際、加納さんと竹河くんは既にうちから内定を出していますし、遣り慣れたメンバーと組むこともできます」
「それは助かりますけど……いいんですか? サークルファイブにもプランナーはいる筈ですけど」
「前にも言った通り、うちのプランナーと志穂さんでは全く違う方向性なので問題は何も起きません。ただ、志穂さんが会社を立ち上げることを考えているのであれば一つだけ約束をして欲しいんです」
「何ですか?」
「加納さんと竹河くんは諦めています。二人に話しを持ちかけた段階で最初から言われていたので。ただ、それ以外の人間の引き抜きをうちからはしないで欲しいんです。勿論、こんなことは契約できる問題でもないし、口約束でしかない。ただ、うちとしても育てた人間を持って行かれるのは手痛いので。勿論、本人が望むのであれば、それは話しとしては別です」
それは確かに人道的にどうかという問題であって、普通であれば約束する内容でもない。ただ、ここでする約束は信頼の証でもあったし、志穂としても久住の顔を潰すような真似はしたくない。色々世話になっている部分もあるし、何よりもヒロの友人でもある久住を追い詰めるような真似はしたくない。
他人に言わせると甘いと言われるかもしれないけれども、人間、誰しもタブーとしている領域はある。
「分かりました。それだけはお約束します」
「それなら契約成立ですね。新企画楽しみにしています」
そう言って差し出された手に、志穂は迷うことなく久住の手を握りしめた。
「こちらこそ、これから宜しくお願い致します」
勿論、これからもやることは山積みで、それは仕事だけではなくヒロとのことだってある。でも、今は全てを前向きに考えられる。久住と手を離すと、志穂はテーブルの上に置いたままになっているノートパソコンに視線を向けた。
またこれから、色々な企画をこのパソコンに打ち込んでいくことになると思うと、一ヶ月前の自分とは随分違うのだと思える。自分の選択した結果は数年後にならなければ分からない。けれども、後悔しないために、全力を尽くすしかない。
話しが終わると久住はこれから他の役員と会食をするからと席を立ち、志穂はヒロと共に店を出た。既に冬の空は暗くなっていて、空には街の灯りに負けずに幾つか冬の星が見える。そんな志穂の視線に気づいたのか、ヒロも空を見上げた。
「今日はよく星が見えますね」
「え? これで見える?」
「月がありませんから。明日になったら時間にもよりますけど、月の明かりで見えなくなる星もありますよ。今日みたいに月の無い日を晦日とか月隠れと言うんです」
「月齢三十日じゃなかったんだ」
二人で立ち止まったまま空を見上げていると、周りを通る人間も気になるのか空を見上げたりする。けれども、そこにあるのはいつもと変わらぬ風景でしかない。志穂もヒロと出会う前だったら間違いなく、いつも変わらない風景だと切り捨てたに違いない。
「そういえば、いつもヒロと会う時は三日月だった」
「え? そんなことありませんよ」
「どう言えばいいのかな。……私がここぞというターニングポイントだと思う時にヒロと会うと、必ず三日月だったの」
「まぁ、出会った時から三日月でしたからね」
「あの時、ヒロは何であそこにいたの? 家が近かった訳でもないし」
その問いに答えることなくヒロが歩き出してしまい、慌てて志穂もヒロと並んで歩き出す。それでも、志穂が松葉杖ということもあり、その速度はかなりのんびりとしたものだった。
「聞いても嫌いになったりしません?」
「今さら何言ってるんだか」
「実は志穂さんがあの駅で降りるのを偶然見掛けて、ちょっと探索してみたくなったんです」
「家までついてきたり?」
「そんなことはしませんよ。そこまでしたらストーカーチックだという自覚はあったので」
慌てて首を横に振るヒロは、そこだけは誤解して欲しくないという感じで必死さが漂う。それが少しおかしくて笑ってしまえば、ヒロは小さく溜息をついた。
「別に志穂さんが住んでいた場所を知りたかった訳じゃなかったんです。まぁ、興味はありましたけど。でも、志穂さんがどんな風景を見ているのか気になって、仕事に詰まったりするとあそこで散歩するようになりました。あそこは住宅街で、ごちゃごちゃしてなくてぼんやり歩くのに丁度良かったんです。だから公園で志穂さんに声を掛けた日は偶然でした。でも、志穂さんだと分かって声を掛けました」
穏やかな声で話すヒロは、最初に会った頃と余り変わらない。実際、あの頃と志穂だって変わっていないけど、中身は随分と変化した気がする。それを考えると、ヒロだって色々と変化はしている。余り考えたことは無かったけれども、日々、誰にでも変化は訪れているのかもしれない。
「ずっと好きだったんです。だから声を掛けた段階で下心はありました。……もし」
そこで言葉を止めると、ヒロは改めて足を止めると志穂に向き直る。だからこそ、志穂も足を止めてヒロを見上げた。
「もし、五年後にプロポーズしたら結婚して貰えますか?」
「五年……そしたら私、もう三十半ばだし、その頃にはヒロにももっと良い人がいると思うんだけど」
「無いです。志穂さんが恋人として傍にいてくれるなら他人に目を向けられる余裕なんてありません。三年後に志穂さんが会社を建てたとしても、仕事が波に乗るまで二年、そしたら大体五年くらいは掛かるという計算なんですけど」
正直、五年なんて言葉は思いつきだとばかり思っていたけれども、ヒロはヒロなりに志穂の遣りたいことを汲んでの言葉だったらしい。そう思ったら胸が熱くなってくる。
「五年後にまだ恋人同士だったら結婚してもいい」
「本当ですか? 本気にしますよ!」
「ただし、五年も付き合い続いたことはないけど」
「だったら初めての男になってみせます」
そう言って笑うヒロを見ていると、少しだけ五年後の自分を想像することができた。それは少しくすぐったくて、そんな感情を知られるのが恥ずかしいこともあって、志穂は歩き始める。
「今日は何食べて帰る?」
「家に帰りましょう、作りますから。それで今日は泊まって行って下さい」
「ヒロ、あのね」
「いいじゃないですか。別に志穂さんだって会社がある訳でもないし、僕も会社に行く訳でも無いんですから。きちんと志穂さんもノートパソコン持ってきているから明日も家で仕事できますし。それに、今の内に志穂さんには栄養つけておいて貰わないと。仕事始めたら一番真っ先に栄養とか切り捨てられそうですし」
多分、勢いとか、言い訳とか色々な意味で負けている気がする。少なくとも、これに言い返せるだけの何かが志穂には無い。ずるずるとした関係を続けるつもりは無いけれども、来月には久住に言われた仕事も始まる。そうなるとヒロに会える時間は極端に減るに違いない。
「……分かった。松葉杖外れるまではヒロの家にいる」
「いつ外れそうなんですか?」
「恐らく二週間後くらいには」
途端にヒロの顔が嬉しそうなものになり、一緒に暮らせることよりも何よりも、松葉杖を外れることを喜んでくれる。そんなヒロがやっぱり好きだと思えた。
月のない空の下で、ヒロと共にタクシー乗り場へと向かうその道のりは、とても楽しく、少しだけ将来の見える道のりでもあった。

The End.

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