Act.10-3:十二月の下弦の月-3

ヒロが眠っている間に荷物を纏めていた志穂は、〇時を回ると物音を立てないようにクローゼットから鞄を取り出してリビングの床に一旦置いた。それから再びベッドに戻り、ヒロの額に手を当てれば既に熱は下がっていてヒロは熟睡している様子だった。月明かりで見えるヒロの顔は穏やかなもので、顔色も昼間に比べたら随分と良くなっている。恐らく、この調子であれば明日には普段通りに戻っているに違いない。
それだけ確認してから志穂は部屋を出ると、足音を立てないように松葉杖と鞄を掴むと玄関へと向かった。昼間に少し無理したからなのか、右足首はじんわりとした熱を持っていたけれども、それでも一度包帯できつく巻き直したからかなり楽にはなっていた。玄関のキーボックスから鍵を借りようと手を伸ばした瞬間、玄関の明かりが灯り思わず身体が強張る。
「こんな夜中にどこへ行くつもりですか?」
その声にぎこちない動作で振り返れば、そこには腕を組み仁王立ちしたヒロが立っていた。絶対に寝ているとばかり思っていたから、ヒロの出現に言葉もない。
「逃げないで下さいって言いましたよね」
それに対して応えなければ、ヒロの手が伸びてきて志穂の腕を掴む。距離にして一歩、その距離をヒロが詰めると動けば触れるくらいの距離になってしまい、志穂は自然と一歩下がろうとする。けれども、それよりも先にヒロの声が玄関に響く。
「お願いだから、逃げないで下さい。もう、どうしていいか分からないくらい苦しいんです」
見上げたヒロの顔は泣きそうなもので、切実な響きを持った声と相まって志穂の方が泣きたい気分になってくる。絶対にヒロとは釣り合わない。そう思っているのに、求められるままに差し出しそうになる自分がいる。ヒロの声も表情も、その全てが志穂の胸に痛みを与える。
「どうして……ダメなんですか……お互いに好きなのに……」
切ないヒロの声で泣きたくなるのは志穂の方だ。何一つヒロのためになるようなことはしていないのに、どうしてここまで好きになれるのか分からない。少なくとも、自分は他人に好かれるようなタイプじゃない。ヒロと出会ったからこそ、どれだけ適当な恋愛をしていたか分かるだけに答えられない自分がいる。
「志穂さん」
名前を呼ばれてビクッと身体を竦ませて一歩引こうとした瞬間、ヒロの腕に抱き締められて強く拘束される。痛いくらいの拘束にも関わらず、それだけヒロに求められているみたいで心地よく感じる。そう思う時点でもう逃げられないのかもしれない。いや、それ以前に、ここで見つかった時から逃げられない予感はあった。
熱は下がっている筈なのに、洋服越しに触れる胸板から伝わってくる体温は熱いくらいに感じる。そして、自分の頭にも熱が上がり、密着した状態で顔を上げることもできずに俯いた。
「言葉を下さい……ダメならダメ、嫌いなら嫌いでもいいから言葉を……」
祈るような響きの混じる声にそれ以上、沈黙を守ることはできなかった。けれども、言葉にしようとしたら緊張で唇が震える。
「……き……好きだから……」
震えるのは唇ばかりではなくて、どうにか出した声自体も震えていた。どうしてこんなに好きという一言を伝えるのに緊張するのか自分でも分からない。
「それなら志穂さんを下さい」
「無理、私はヒロに似合うような人間じゃない」
誰かと付き合って汚すなんて表現、どこかおかしいと思っていた。そこまで言われるほど清廉潔白な人間なんていないと思っていたし、大人になれば誰しも狡くなるし汚くなる。だから自分の存在で他人を汚すなんて言葉が当てはまる人間がいるとは思ってもいなかった。
「志穂さんがいいです。似合う、似合わないなんて他人の感性であって、そんなの好きになった同士では関係ないです」
「でも、好きだけで全て上手くいく訳じゃない」
「分かってます。そんなことは分かってるんです。確かに志穂さんから見たら頼りないかもしれません。それでも、分かってるんです……志穂さんがどういう生活をしてきたかも」
最後の言葉にはじかれたように顔を上げれば、ヒロはただ真っ直ぐに自分を見ていた。泣きそうな、どこか痛みを堪えるようなその顔を見た途端、全てを知られているのだと分かり絶望的な気持ちになる。志穂の手から離れた荷物とコートが玄関に散らばり、松葉杖は乾いた音を立てて倒れた。
「ど……して」
問い掛けた途端にヒロは顔を顰めると、抱き締める腕に力を込める。
「うちの実家が、志穂さんのことを身辺調査したらしく先週、書類が送られてきました」
久住から小学校から大学まで持ち上がりで一緒だと聞いた時、二人はそれなりの実家があるのではないかと頭を過ぎった。どうやらそれは間違えていなかったらしい。
「でも、過去なんて関係ないし、既に実家とは縁を切っています。だから……これからの、もっと先の未来を考えるなら志穂さんと一緒にいたいです。そして、志穂さんの全てが欲しいです」
すぐ先の未来なら考えたことがあるし、いつでも考えている。けれども、そんなずっと先のことまでヒロが考えていてくれていることに驚いた。それと同時に涙が溢れてくる。全てを知った上で好きだというヒロを、もう突っぱねることなんてできなかった。
「好きだから……ヒロのこと本当に好きだから……」
感情の勢いに任せてヒロへと抱きつけば、ヒロにも抱き締められる。ヒロの実家のこともあるし、志穂のこれまでの過去もある。だから全てが上手くいくとは思えなかったけれども、それでも、ヒロと一緒に暮らす未来を描くことはできた。誰に対しても考えたことのない未来を。それは志穂にとって、特別なことだった。
抱き締めた腕を離したヒロは志穂との距離を空けたかと思うと、ヒロの腕が志穂を抱き上げる。
「ヒ、ヒロ?」
「志穂さんに触れたいんです」
そう言って笑うヒロの笑顔はいつもと違って、普段よりも艶めかしいものだった。志穂を抱き上げた状態で歩き始めたヒロに声を掛けたけれども、ヒロからの返事はない。開いたままの寝室に入ると、そのままベッドへ歩み寄るとゆっくりとベッドの上に志穂は下ろされる。
「ずっと触れたかったんです。志穂さんを下さい」
こういう時、何も言わずにそういう空気になって身体を重ねてきた志穂としては、ヒロのように事前に窺われると何と答えればいいのか分からなくなる。触れたいのは志穂も一緒で、だからそうなることは構わない。けれども、返事をする言葉は見つからず、志穂は屈み込んだまま見つめてくるヒロの首に腕を回すと引き寄せて唇を重ねた。
触れるだけで離れた唇にヒロは少し驚いた顔をしてから、その表情をゆっくりと笑みへと変える。ヒロの身体が覆い被さるようにして近づくと、志穂の身体は自然とベッドの上に横たわった。
しばらくの間、覆い被さるような体勢をしたヒロと見つめ合っていたけれども、ヒロがゆっくりと近づいてきて志穂は目を閉じた。額の上にキスを一つ。瞼の上にキスを二つ。それから両頬にキスを一つずつ。
「もの凄く生殺し状態だったので、志穂さんも覚悟しておいて下さい」
耳元で囁かれた言葉に少しだけ笑ってしまえば、再びお互いの唇が重なる。ただ、唇を重ねるだけのキスなのに、それだけで志穂の身体は微かに震えた。角度を変えて何度か唇を重ねていると、徐々にキスは深くなる。ヒロの舌先が唇をなぞり、ヒロの吐息を感じながら自ら舌を差し出してお互いに絡め合う。生殺しだったという割りにはヒロのキスは落ち着いたもので、焦る様子は全くない。穏やかに上がる熱が心地よく感じる。
キスをしながらもヒロの手が志穂のボタンを一つ、また一つと外していく。全てが外れた時、ようやくお互いの唇が離れると近い距離で視線が合って微かに笑い合う。
「正直、ここ数日は理性との戦いでした」
「全然そんな風には見えなかったけど」
「手を出して嫌われたくありませんでしたから、ひたすら我慢でした。でも、志穂さん、全然意識してない様子で、本当に目の毒だったんですよ」
そう言って首筋に顔を埋めると、舌で舐め上げられる。途端に背筋がゾクリと震えが走る。
「風呂上がりに着てるTシャツとか、首もとが空いていて、何度こうしたいと思ったか」
途端に首筋にチクリとした痛みが走り、そこに痕をつけられたのだと分かる。その痛みすら甘い疼きになって志穂を煽る。
「今だから言うと、全く意識されてなくてへこんだりもしたんです」
ヒロの唇が首筋から鎖骨へと移ると、軽く甘噛みしてくる。痛みはなく、ただジリジリとした熱を上げられていく感覚に志穂の唇から吐息が零れた。背中に回ったヒロの手がブラジャーのホックを外すと、着ていた服ごとベッドの下に落とした。そして、着ていたシャツを脱ぎ捨てたヒロは再び志穂の背中に腕を回すと抱き締めてくる。
素肌同士が触れ合うと、それだけでお互いの熱が上がるのが分かる。抱き締める腕も、触れ合う胸も、その熱だけでのぼせそうな気持ちで小さく吐息を零せば、同じタイミングでヒロも吐息を零す。思わず、お互いに暗闇に慣れた視線を合わせ、少しだけ声もなく笑い合う。それはとても至福な時間でもあった。
ヒロの手が身体を辿り、手を追うようにしてヒロの唇が触れる。鎖骨から胸元、胸の先端に指先が触れた時には思わず声が零れた。けれども、そんな反応すら嬉しいのか、ヒロは片方は指でもう片方は舌で刺激して志穂の身体から確実に快楽を浮き上がらせていく。
「志穂さん、少し腰を上げて下さい」
囁くような声で先端を含まれたまま言われたら身を震わせながらもゆるく腰をあげる。途端に穿いていたスカートを取り払われ、ひやりとした空気に包まれた。ヒロの視線が下着に集まっているのが分かって、見ないでと伝えたけれども、指先が下着を撫でる。いつもであれば優しいと思える指先が、酷くいやらしく感じる。
「ヒロ」
「薄紫色の下着で、こうして見ると卑猥ですよね。誘われてる気がします」
「下着フェチみたいなこと言わないでよ」
「そういうつもりじゃなかったんですけど……でも、ちょっと志穂さんの下着姿を想像したりしました」
そう言って悪戯めいた笑みを浮かべるヒロの頭を、軽く小突くと呆れを隠すこともせずに小さく溜息をついた。
「ヒロがそういうキャラだとは思わなかった」
「理性総動員してそういう顔は絶対に見せないように努力してましたから」
笑いながらもヒロの手が下着に掛かり、ゆっくりとそれを下ろされる。全てを脱いでしまうと、今さらながら恥ずかしくなるのはヒロの真っ直ぐな視線のせいかもしれない。
「あまり見ないで」
「見たいです。ずっと触れたいって思ってました」
ゆっくりとヒロの手が腰から太股にかけて何度も撫でる。それがくすぐったくて身をよじりながらも文句を言ったけれども、ヒロは全く気にした様子もない。
「女性のここのライン、凄く好きなんです。しかも志穂さんだと思うと本当に感慨深くて、まだ信じられない気がしてます」
「そこまで言われるほどの人間じゃないけど」
「いいんです。勝手に思ってるだけだから浸らせて下さい」
言葉とともに再び胸の先端に口付けられ、舌先が身体を撫でて下へと降りていく。脇腹を辿り、太股から膝へ、膝頭には音を立ててキスされると、ヒロの手が志穂の足首を掴み軽く持ち上げる。そして、足の指先にキスされた時にはさすがに足を引いた。けれども、ヒロの手は離れることなく足首を拘束している。
「ヒロ、汚いからやめて」
「汚くなんてありませんよ。それに、風呂に入ったばかりじゃないですか」
「起きてたの?」
「起きてました。志穂さんが風呂に入ってる姿まで想像して、ちょっと危ない状態になっていましたよ」
「エッチ」
「男はみんなそんなもんです」
言いながらも、ヒロの唇が再び足の指先に触れると、そのまま指先を口に含まれる。舌を指に絡めて舐め上げると、軽く甘噛みされて身体が震えた。そんなことはされたことなどなく、そんな場所でも感じることを初めて知った。零れる吐息を押さえることなく吐き出せば、吐息自体がやけに熱く感じる。
そして、反対側の足首にある包帯を丁寧に外していくと、半分になったギプスを外される。そして同じように足の指を口に含まれて、追い詰められていくような気分になる。
「ヒロ……離して」
吐息と共にお願いすれば、ヒロはようやく解放してくれて、再び舌先が志穂の足を辿る。足首からふくらはぎを経由して、内腿を舐め上げられた時にはさすがに吐息が上がる。ゆっくりとした動作なのに、確実に志穂の足の間に身体を割り入れたヒロは、下肢に顔を埋めた。
「そんなこと、しなくていい」
「したいんです」
声と共に開かれたそこにも吐息があたる。それだけで身体が震えるのは期待もあったのかもしれない。
「志穂さん、もう濡れてる」
「そういうことは言わないのがマナーでしょ」
「でも、感じてくれているのが嬉しいんです」
舌先がそこを舐め上げた瞬間、予想以上の気持ちよさに志穂は思わずヒロの髪に指先を埋める。
「やっ……やっぱり無理」
軽く髪を引いたけど、ヒロの舌は離れることなく何度もそこを往復する。時折、尖りを舐められて腰が浮き上がるけど、それでも止める様子はない。溢れ出る喘ぎは自分のものじゃないくらい部屋に甘く響いていて、それが酷くいたたまれない。そう思うのに、さらに感じてる自分がいる。喘ぎに混じる水音は志穂を溺れさせて、ヒロの指が中へ入りこんできた時にはそれだけでいきそうになる。
今までだってこんなことは何度もしていたのに、相手がヒロというだけで何もかもが違う。知らない自分を知ることになりそうで、それが少し怖い。
中にある指が二本から三本に増える頃には、切羽詰まった声を上げる事しかできなくて、ヒロの指先が激しく出入りすると共に、舌先で尖りを舐められ、押し潰され、時折吸い上げられると、もうそれだけで堪えられなかった。
一段と高い声をを上げれば、中にあるヒロの指を締め付けて、そのまま上り詰めた後の失墜感に身を任せる。顔を上げたヒロが中に入れていた指を志穂の前で舐め上げると、唇を腕で拭い覆い被さってくる。お互いに言葉もないまま貪るようにして唇を重ねた。
片方の手が志穂の膝裏を掴むと、キスをしたまま下肢に熱が宛がわれる。ゆっくりと入り込んでくるヒロ自身に自然と声が漏れた。
「あぁっ……んんっ……」
ヒロのもので全てが埋まり、その充足感に頭から足の先まで痺れた気がした。
「凄い……気持ちいい……」
ヒロのその言葉にヒロを締め付けてしまう。箍が外れそうなギリギリのところで踏みとどまりながらも、どうにかヒロにキスをする。お互いの舌を絡め合い深いキスをした後に、ヒロが笑顔でぽつりと呟く。
「壊していいですか?」
「……え?」
何を言っているのか意味が分からずに聞き返したところで、ゆっくりとヒロが動き出す。ゆるやかな快楽に追い上げられながらヒロの背に腕を伸ばす。ただ、与えられる快楽を追い続けていれば、不意に動きを止めたヒロは志穂の両方の膝裏を掴むと大きく足を開き、志穂が何かを言うよりも前に突き上げを早くする。志穂の中でいっぱいになっているもので奥まで突き上げられると、余裕なふりをしてギリギリで踏みとどまっていた理性が崩壊した。
「あっ……は……ヒロっ……」
突き上げられるままに上がる声でどうにか名前を呼んだけど、ヒロが動きを止めることはない。ただ、志穂を見ていてヒロの視線ですら志穂の熱を上げる。
「もっと、余裕なく乱れてるところ、見せて下さい」
「やっ……見ないで」
さすがにヒロの言葉に抵抗するように顔を腕で隠せば、すぐにその腕は拘束される。しかも膝裏に腕を通した状態で、腰が高く上げられて更に恥ずかしい体勢になっている。途端に当たる角度が変わったからか、更に高い声を上げてしまい、それを聞いたヒロがより一層激しく動きを早めた。
何もかも分からなくなるような快楽の中で弾けたように声を上げていってしまうと、ようやくヒロは腰を下ろしてくれた。荒い息を吐きながらヒロを見れば目が合った。そして、ヒロがいつもよりも意地悪く笑う。
「もう少し付き合って下さい」
何か言うよりも先に再びヒロが動き出し、いったばかりの身体が悲鳴を上げる。悲鳴のような声を上げるけど、ヒロが動きを止めるようなこともなく、再び近づく絶頂に、何かに縋りたい気持ちで伸ばした手はベッドに手をつくヒロの腕だった。最後まで追い上げられて、追い詰められて、最後にヒロの名前を呼びながらいってしまう。そして、その直後、ヒロが一番最奥で弾けたことを知った。
荒い息をお互いに吐きながらも、二人で視線を合わせてから唇を重ねる。少なくとも、志穂の記憶にこんな激しいセックスは一度だって無かった。てっきりヒロとなら穏やかなものになるとばかり思っていたのに、かなり予想外だった。唇が離れた途端、思わず不平が漏れる。
「やりすぎ」
「すみません。でも、どうしても志穂さんの余裕があるところを壊したかったんです。いつも自分が焦るばかりで少し狡いですよ」
「そんなの……フリに決まってるでしょ。ヒロだっていつも余裕綽々って感じじゃない」
「余裕なんて全然ありませんよ。ただ、志穂さんの隣にいるために、もの凄く努力してます」
お互いにそんな遣り取りをして、数秒の間を置くとどちらともなく笑ってしまう。ゆっくりと志穂の中から抜け出したヒロは、そのまま志穂の横に寝転がると、こちらへ視線を向けてきた。
「本当に余裕なんて無いんです。志穂さん年上だし、料理以外は本当に完璧に見えるし」
「悪かったわね、料理が苦手で」
「苦手で良かったです。そしたら、一緒にいる理由だってできますから」
サラリと問題なんて無いとばかりに言い切ったヒロに、志穂は何かを言おうとしたけれども、言葉が見つからずにそのまま小さく溜息をついた。もう、志穂としても色々と諦めもついたし、覚悟もできた。こうなれば、もう今さら迷う必要もない。
「ヒロのこと、色々聞きたい」
「色々って、例えばどんなことですか?」
「家のこととか、久住さんとのこととか、仕事のこととか」
聞きたかったことの全てを口にすれば、ヒロはいつもように穏やかに笑うと志穂の身体を引き寄せて抱き締めてくれる。火照る身体はお互いに熱を持ったままだったけど、素肌で触れる体温は気持ちのいいものだった。
そしてヒロが教えてくれたことは、実家と上手くいかなくなったのは中学からで、その頃から久住の家に入り浸っていたらしい。そこでやりたいことを見つけて今の仕事につくことになったらしい。それと同時に久住の家で世話になったこともあり社長という名義貸しをしたということだった。
「それで、今の仕事は何をしてるの?」
「え? 言ってませんでしたっけ?」
もの凄く意外そうな顔で聞かれたけど、聞いていない志穂としては面白い気分ではない。だからつい口調も冷たいものになる。
「聞いてない」
「イラストレーターをしているんです。例の志穂さんが作った企画、サークルファイブでは僕がCG担当していました」
「え? だって、飯田コウヤって」
「ペンネームです。飯田は母方の姓で宏の字はコウとも読むからコウヤ」
騙された……そんな気分になるのは、こんな身近に人気レーターである飯田がいることだった。けれども、話しを聞けば自宅仕事なのも納得だし、フリーだからこそ久住に名義貸しということもできたのだろう。そして、この年末ギリギリまで仕事が詰まっていた理由だって分かる。畑違いの志穂ですら飯田コウヤの名前は知っている。
「そういえば、飯田コウヤって一度も表舞台に出てきたことないんだから知らなくても当たり前か」
「すみません、もう志穂さんには言ったつもりでいました」
色々と知ってしまえば、知らなすぎた自分に呆れるしかない。
「怒ってます?」
「別に怒ってない。ヒロのこと全然知らないのによく好きになったと思ってるだけ」
「それを言ったら、好きになった時志穂さんのこと知りませんでしたよ。でも、ずっと好きでした。だから、こうして腕の中に閉じ込められるのは至福の時間です」
そう言って本当に嬉しそうな笑顔を向けてくるから、志穂としては照れくさくて目を合わせられなくなる。感情表現はストレートで、表情は素直。それは美点な筈なのに、自分に向けられるとなると美点というには難しく思える時もある。
「志穂さん、このまま一緒に暮らしませんか? ここだと手狭でしたら引越も考えますし」
「保留」
「即答ですね。でも、保留ということなら期待しておきます。でも、正月明けまではここにいて下さい。今日は大晦日です。おせちでも買ってきて、二人きりで新年を迎えたいと思うんですけど、どうでしょう」
ヒロと初めての正月を、二人きりで過ごせる。それを志穂としては断るだけの理由もない。それに、正月休み、ヒロとのんびりできるのは少し嬉しい。
「そっちは賛成。お互い実家に戻る訳でもないなら、一人でいても仕方ないし」
「実家戻るって嘘ついたこと、実は根に持ってますね」
「だって、あれが初めてつかれた嘘だったから」
「もう二度と嘘つきません。すみませんでした」
素直に謝られてしまうと、志穂としてもそれ以上文句をつけられる筈もない。元々気遣いの延長でつかれた嘘なのだから、優しい嘘であって騙すための嘘ではないのだから、口で言うほど根に持っている訳でもない。
「お節って前日でも買えるものなの?」
「少なくとも、いつも行くスーパーなら取り扱っていた気がします。もっとも、買ったことはないので味の保証はしませんけど」
「まさか、作ってたとか?」
恐る恐る志穂が聞けば、ヒロは一瞬虚を突かれたような顔をしてから、思い切り笑い出す。
「さすがに自分のために作ったりしません。そうですね、あと一日余裕があれば作ったと思いますけど、明日買い物行って作るとなるとちょっと難しい気がします。恐らく、寝坊するでしょうし」
言われて時計を見れば既に三時近くになっていて、確かにこれでは朝起きられるとはとても思えない。
「再来年に期待ということにしておいて下さい」
サラリとヒロの口から再来年なんて言葉が出てきて、志穂は驚いた。でも、再来年、ヒロといることは想像できる。それは志穂にとって幸せなことだと思えた。
「期待しておく」
「それじゃあ、今日はお風呂に入って寝ることにしましょう」
そう言って志穂の拘束を解くと、ヒロはベッドから起き上がる。そして悪戯めいた笑みを向けてきた。
「一緒にお風呂に入りますか?」
「却下」
即答した志穂にクスクスと笑うと、ヒロはベッドを降りて「お先に」と声を掛けて部屋を出て行った。年上だというのに、どうにもヒロに主導権を握られている気がしてならないのは志穂の気のせいなのか。年上ぶりたい気持ちと、ヒロと距離の縮まる感じ、どちらも選びがたくて志穂は一人部屋の中で小さく唸った。

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