Act.10-2:十二月の下弦の月-2

せめて朝食くらいはと先日よりも早く目覚まし時計をセットして六時半に起きれば、リビングには既にヒロの姿があって心底驚いた。コーヒー片手にぼんやりとカーテンを開けた窓の外を見ているヒロは、志穂が部屋を出てきたことにも気付かない様子だった。
「おはよう」
声を掛ければ驚いた顔をしてこちらへ顔を向けたけど、すぐにホッとした顔で挨拶を返してくれる。窓の外はまだ薄暗く、遠くの空が黄金色から藍色のグラデーションになり、日が昇ろうとしているのが分かる。天然の明かりに照らされたヒロの顔色はやはり余りよく無い状態で、洗面所で顔を洗うよりも先にヒロへと近づいた。
「随分と顔色悪い。寝てないの?」
「すみません、今まで仕事していました。けれども、これで今年の仕事も終わりです」
「おめでと。それじゃあ、これから寝るの?」
「いえ、折角ですから一緒に朝食を取ってから寝ようかと思っていたんです。それで、非常に申し訳無いんですけど、今日、昼から実家に戻ろうと思ってるんです」
「分かった。私も昼前に家に戻ることにする」
ここへ来た時には実家に戻らないで仕事をすると言っていたヒロだったけれども、気が変わったのか、それとも実家から何か言われたのかもしれない。居候の身であるし、家に帰るタイミングを計っていた志穂としては渡りに船という状況ではあった。ただ、一つ気になるのはヒロの顔色の悪さだった。
「朝食は私が作るから、ヒロはそこで休んでいて」
「それくらいはできますよ」
「いいの。ここで頑張って名誉挽回するんだから」
昨日の失敗を持ち出せば、ヒロは緩く笑うとそれ以上何も言わなかった。ここに来るまで志穂は朝食を取ることは余り無かった。けれども、さすがに料理が苦手な志穂でも、朝食程度のものであれば用意だってできる。
既にコーヒーは用意されていたのでパンをトースターに入れると、冷蔵庫から玉子とウインナーを取り出し、玉子はスクランブルエッグに、ウインナーはボイルすると、洗ったレタスやプチトマトを一緒に添えて皿に並べる。カップにコーヒーを注いだところで、ヒロは何を言わずとも皿とカップを運んでくれて、二人でテーブルにつくと頂きますという挨拶と共に食べ始めた。
「実家って遠いの?」
「いえ、都内なのでそこまで遠くはないです」
「一緒についていこうか? 何だか凄く具合悪そうに見える」
松葉杖をつく志穂がついて行っても何の役にも立たないことは分かっている。けれども、そう言いたくなるくらいヒロの顔色は悪く、食事も余り進まない様子だった。
「大丈夫ですよ。さすがに眠いので、帰り送ることができなくてすみません」
「別にそれは構わないけど、食べ終わったらすぐに寝た方がいいと思う。それくらい顔色悪い」
「すみません」
それでもヒロは志穂の用意した朝食を全て食べ終えると、皿をシンクに片付けて自室である仕事部屋へと足を向けた。けれども、ふらりとヒロの身体が揺れたかと思うと崩れるようにその場で膝をついた。シンクで洗い物を片付けようとしていた志穂は、慌ててヒロへと駆け寄り肩に手を掛ける。手にしていた松葉杖を床に置いて、同じように膝をついてからヒロの額に手を当てた。
「熱あるじゃない」
「大丈夫です」
「全然大丈夫じゃないから。とにかく一旦ソファに」
一メートルと離れていないソファにヒロを一旦座らせると、志穂はリビングの棚にある救急箱から体温計を取り出しヒロに突きつける。
「熱計って」
「いえ、大丈夫なんで」
「ここまできたら大丈夫なんて言い訳聞かない。とにかく計る」
差し出した体温計を手にしたヒロは、いつもに比べて酷く緩慢な動作で体温計を受け取ると首もとから体温計を入れて脇に挟む。確かに昨日から調子が悪そうだとは思っていたけれども、まさか、ここまで調子が悪いとは思ってもいなかった。勿論、ヒロも気づかせないようにしていただろうけど、それでも一緒にいて気づけなかった自分に腹立たしさもある。
「志穂さん……松葉杖」
「そんなのどうでもいいから、少し横になって」
強引に肩を押せばヒロの身体はあっさりと揺らいで三人掛けソファへと横たわる。日が昇り、日差しが部屋に入ってくれば、ヒロの顔色は青白いのに頬だけがやけに赤いことに気づく。ここまでくれば熱があるのは確定で、松葉杖を使うことなく、足首に微かな痛みを覚えながらもキッチンへ向かうと、冷凍庫から氷枕を取り出した。
その足で洗面所にあるタオルを巻くと、再びヒロの元へ戻り横たわるヒロの後頭部に氷枕を挟み入れる。
「気持ち悪いとか、どこか痛むとかある?」
「いえ、多分、ただの風邪です。なので、志穂さんは用意して自宅に戻って下さい」
素っ気なく言うヒロだけど、全く視線を合わせないこと、そして急に言い出した自宅に戻れという言葉に志穂としてもヒロの考えていることが分かった気がする。
「本当は実家に戻るなんて嘘でしょ。風邪ひいて寝込むから追い出したかった? 残念でした」
「いえ、実家には本当に」
「だったら人の目を見て言う」
強く言えば、ヒロの視線はしばらく彷徨った後、志穂と目が合う。けれども、その顔がまるで怒られた子どものような顔をしていて、その表情を見るだけでそれ以上怒る気にもなれない。タイミングよく体温計が鳴り出し、ヒロから体温計を受け取れば八度五分と微妙な体温で、志穂はすぐに救急箱から冷えピタシートを見つけ出すとヒロの額に張り付けた。
「志穂さん、うつるといけないから。それに足」
「うるさい。とにかくベッドで横になる。ヒロの部屋のベッドと私が寝てるベッド、どっちが大きいの?」
「あ……えっと……」
言葉濁すヒロについ眉根が寄る。もしかして、そんな思いで立ち上がると有無を言わさずヒロの仕事部屋に繋がる扉を開けた。志穂が使っている部屋の倍はありそうな部屋には、中央に大きな机、そして壁際にはパソコンが二台並び、それ以外の壁は本棚で埋め尽くされていた。そして本棚に入りきらない本が床に積み上がり、志穂が見る限りベッドというものは存在しなかった。
すぐに扉を閉めてヒロに近づくと、先ほどよりもヒロの表情が落ち込んだものになっている。
「一体、どこに寝てたの?」
「リビングのソファで寝てました」
「風邪ひくに決まってるでしょ。体格的に私がソファで寝る方がずっとマシ」
「でも、志穂さんをソファに寝かせる訳にはいきませんし」
「だからって、人にベッド譲って風邪ひいてたら世話無いでしょ。とにかく、ベッドまで歩いて。さすがに支えるのは無理だから」
渋々ながらも立ち上がったヒロを追い立てるように志穂が使っていた部屋へと促すと、すぐにベッドへ横にさせてから再び頭の下に氷枕を入れる。
「文句は色々言いたいところだけど、病人相手にくだ巻いても仕方ないから後にする」
しっかりとヒロに布団を掛けて、それからリビングに戻ると救急箱から風邪薬を取り出すと、志穂は大きく溜息をついた。一緒に暮らしてかれこれ十日になるというのに、ベッドがない状況に気づけなかったのは志穂のミスかもしれない。確かに、早起きすればヒロはリビングにいたのに、ヒロが不規則な生活を送っているからだとばかり思っていた。
どちらにしても、熱がある状態のヒロを放っておける筈もなく、グラスに水を用意すると再びベッドへと戻った。
「その……すみません」
「謝罪も後で聞く。とりあえず仕事は本当に終わったの?」
「はい、今朝分で終了です」
「それなら、これ飲んで寝る」
差し出した薬を素直に受け取ったヒロは、口に放り込むともう片方の手で差し出したグラスで薬を飲み込む。再び横になったヒロに布団を掛けると、ベッドを背もたれにして志穂も床に座り込んだ。
「志穂さん、病院は?」
「病院も年末は休み。ここにいるからヒロは寝る。もしかして、人がいると寝られない?」
「いえ、いて欲しいです」
「ん……おやすみ」
「おやすみなさい」
振り返って挨拶を交わすと、ヒロは素直に目を閉じて数秒すると一定のリズムで寝息が聞こえてくるようになる。仕事を徹夜で終わらせたのは本当のことだったらしい。それは顔色が悪い中でも目の下にくっきりできた隈で分かる。
ここへ来る前に風邪をひいたらなんて言っていたけど、まさか現実になるとは思ってもいなかった。それ以前に、志穂がここへ来たことでそれだけヒロに無理をさせていたに違いない。つい、ヒロの優しさに甘えてしまった自分を叱咤してみるものの、時が戻る筈もなく小さく溜息をついた。
松葉杖なく歩いた足は少しだけ熱を持っていて、一旦包帯を取るとギプスを外して軽くマッサージをする。じんわりとした熱を掌からも感じながら、すぐ近くで眠るヒロを見れば、顔色こそ悪いけれども穏やかな顔で眠っていた。
ヒロの風邪が治ったら、本当にここを出て行かなければいけない。それは志穂にとって酷く寂しく感じるものであった。けれども、最初から決めていた一時的な同居だったから今さらどうなるものでもないし、これ以上ヒロに負担を強いるような真似はしたくなかった。
一緒に暮らして食事を取り、ヒロと会話をする日々は、もう志穂の気持ちを戻れない場所へと到達させてしまっている。好きだというのは確実で、けれども、それを口にするにはためらわれる。それなのに、ヒロを求める自分がいて、そんな自分の感情のブレに少しだけ笑う。
ヒロが志穂を好いてくれていることは知っている。そして志穂も好きだから問題は無いように思える。それでもブレーキを掛けるのは、今までの生活態度のせいかもしれない。
安易に自分の住居に招き入れた男と同棲し、身体を繋ぐ。そんな自分が、ヒロと一緒にいることは余り良いことだとは思えなかった。ヒロは今まで一緒に暮らしてきた男とは絶対的に違う。潔癖というほどではないけれども、それでも志穂の過去を知れば引いてしまくらいの真面目さがあり、清廉さがある。今までの自分を否定したことは無かったけれども、こうしてヒロに出会って初めて後悔した。
どうでもいい相手であれば過去だろうと未来だろうと気になることは一つもない。けれども、本当に好きになってしまえば、相手の過去だって知りたくなる。少なくとも、志穂は知りたいと思う。もし、ヒロが志穂の過去を知った時、全てが終わる気がした。
らしくなく臆病になっていると分かっていたけど、結局、ヒロ相手だからに他ならない。一緒に暮らして十日目、ヒロは他の男たちとは違い、志穂に手を出すことは一度だってしなかった。けれども、今はその違いが少し辛い。
すぐ傍に穏やかに眠るヒロがいる。いつもよりも早く起きたこともあり、志穂は小さく欠伸をするとベッドに頭を預ける。距離が近くなってヒロの寝息が一定間隔で聞こえてくると眠気を誘う。何かあればすぐに分かる距離にいるから、志穂は瞼を閉じると眠りへと落ちていった。
だから、志穂としてはすぐに起きるつもりだったし、寝入るつもりは全く無かった。けれども、身体は何かに包まれて温かく違和感を感じながらも眠りから覚めかけたその時、唇に何かが触れた。少しかさついたそれを確認するために目を開ければ、すぐ近くにヒロの顔があり、驚いた顔で見下ろしている。
「志穂、さん」
寝起きの目を擦りながらも辺りを見回せば、どういう訳か志穂はヒロと同じベッドで眠っていた。まだ働かない頭でぼんやりとヒロを見ていれば、ヒロが困惑した様子で志穂を見ている。
「おはよう」
カーテンの隙間から見える日差しは昼過ぎのもので、どうやら自分も一緒に寝てしまったことが分かる。そして先ほど唇に触れたものが何か、近い位置にいるヒロの顔で理解できた。
「ごめん、逆に気を遣わせたみたいで」
記憶も無く同じベッドに寝ているということは、恐らくヒロが寝ている志穂をベッドに引き上げてくれたことはすぐに分かった。けれども、同じベッドに二人で寝るという行為は酷く落ち着かないもので、時折触れるヒロの身体にどぎまぎしながらも、何事も無かったように起き上がる。途端にヒロの腕がウエストに絡みついてきて、伝わってくる熱に自分の熱が上がりそうになる。けれども、それを表に出すようなこともせず、志穂は前に回る腕をなだめるように軽く叩く。
「どうしたの?」
「すみません、志穂さんにキスしました」
折角気付かないふりで離れようとしたにも関わらず、自己申告されてしまってはどうにもならない。
「寝てる間に手を出すような真似してすみません。志穂さんが好きです」
二度目になるヒロの告白はやはりストレートなもので、志穂の身体がビクリと震えてしまう。振り返ることもせず、ベッドを降りようと身動ぎすれば、ウエストに回る腕に力が籠もる。
「最初は見てるだけでもいいと思っていました。でも、話したらどんどん好きになって、触れたら……全てに触れたくなりました」
「手は出さない約束だったでしょ」
「志穂さんが好きです。そして志穂さんに好かれていることも知っています。志穂さんの全てが欲しいし、抱きたいです」
熱で多少朦朧としているのか、いつもよりも舌足らずな口調のヒロに対して上手く誤魔化すこともできず、志穂はそのまま固まってしまう。いつもよりも熱を含む声で、求められていることは分かる。けれども、それを受け入れるだけの割り切りはまだ何もできていない。落ち着きたいのに密着するヒロの熱が思考を混乱させる。
「病人が何言ってるの。早く風邪治しなさい」
どうにか言葉にしたけど、その声は掠れていてさらに緊張感を生み出すことになる。しばらく沈黙の後、予想外にもウエストに絡まっていたヒロの腕が離れると、背後でベッドの沈む感触があり振り返る。そこには片腕を顔にあてて目を瞑るヒロがいて、ただ静かにその顔を見つめた。
「すみません。でも、風邪が治ったら志穂さんに触れてもいいですか?」
そう言って目を開けたヒロの視線は志穂に真っ直ぐ向けられていて、その顔は思っていたよりも真剣なものだった。ここで突き放すべきだと頭では理解しているのに、ヒロを傷つけるような言葉を言える筈もなく、志穂はヒロの頭を軽く小突いた。
「病人は病気を治すのが先決。お昼ごはんでも作らないと」
わざとらしいとは思ったけれども、どこか緊張した空気を変えるように軽く言えば、ヒロは小さく溜息をついた。
「分かりました。きちんと風邪を治して、あらためて志穂さんに迫ります」
「そういうことを事前に断言されても困るんだけど」
「でも事前に断言しないとスルーされそうですから。逃げないで下さいね」
「はいはい」
投げやりにも聞こえる返事をすると志穂はベッドから立ち上がり、改めてヒロに布団をかけ直してから額に手をあてる。まだ熱はあるらしく、掌から伝わってくる体温は熱い。
「おかゆくらいしか作れないから期待しないように」
それだけ言えば、ヒロはようやく笑みを浮かべるとお願いしますと言って目を閉じた。まるで何事も無かったかのように部屋を出たけれども、扉を閉めた途端にその場で座り込んでしまう。正直、ヒロがそういう行動に出るとは思っていなかっただけに、酷く驚いた。ストレートな言葉にクラクラしていたし、ウエストに回る腕から伝わってきた熱に心臓がうるさいくらい鳴り響いていた。それをヒロに悟られないためにどれだけ努力していたのか、知られたくなかった。何よりも、年上としても慌てふためくようなみっともない真似だけはしたくなかった。
熱があってヒロが暴走気味だっただけだと思いたいけど、あの真剣な目には射貫かれた気がして、思い出すだけでも頭に血が上りそうになる。
もし、ヒロとそういうことをすれば、絶対にヒロに囚われる。そして、離れられなくなることは目に見えている。逃げるなと言われたけど、ヒロの熱が下がれば志穂はすぐに自宅へ戻る心積もりだった。
冷凍庫から昨日の残りご飯でおかゆを作り、冷蔵庫に入っていた梅干しを手でほぐして混ぜると、棚にあるトレーに乗せる。薬と水も用意して再びヒロの元へ戻れば、ヒロは再び眠りに落ちていた。今はとにかく睡眠を欲しているらしい。先ほど触れた額はまだ熱かったことを考えると、これから夜に掛けて熱が上がるか下がるか、今の志穂には判断できずベッド横にあるサイドボードにトレーを置いた。
壁に掛かる時計を見れば、既に二時を回っていて、随分と寝ていたことに気づく。確かにここ数日ヒロと張り合うように朝早くから起きていたし、眠るのも遅かったから志穂自身も多少睡眠不足だったに違いない。
とはいっても、仕事をしている時に比べたら遙かに多い睡眠時間に苦笑してしまう。思っていた以上に寝入ってしまったのは、すぐ近くに体温があったからに違いない。
眠っているヒロは穏やかな顔をしていて起こすには忍びなかったけれども、とにかく食事をして薬を飲んで貰わないといけない。伸ばした手で額に掛かるヒロの前髪を軽く撫で上げる。柔らかな髪は志穂の指からサラサラと逃げだし、元へと戻る。
こうして志穂が寝ているヒロを見ていたように、ヒロにも見られていたのかと思うと顔に熱が集まる。それが落ち着くのを待ってからようやくヒロに声を掛けた時には、作りたてだったおかゆは程よく冷めてしまっていた。

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