Act.10-1:十二月の下弦の月-1

シンクにある朝食の時に使った朝食用の皿を全て洗ってしまうと、一度部屋に戻った志穂は小さなバッグに財布などの必要な物を全て詰め込むと、化粧ポーチを持って洗面所の鏡を使って化粧をする。
既にヒロの前で化粧をしない自分にも慣れてきて、ヒロとの生活も予定より既にオーバーして九日目に突入した。最初に言っていた通り、ヒロは自宅で仕事をしているらしく、朝食を食べ終えると仕事部屋に入り昼までは出てこない。そして昼食を食べ終えると一緒に病院へ行くという行動パターンに慣れつつあったけれども、志穂としてはいつまでもそれに甘える訳にもいかない。だから今日はヒロに黙って、けれども心配するといけないからテーブルの上にメモを残して病院へ向かうためにタクシーへと乗り込んだ。
病院で診察をして貰い、リハビリも順調ということで膝下まであったギプスは足首の上まで切除し、尚且つ足首部分に残るギプスは縦半分に切断されると取り外しが可能となった。久しぶりに見た自分の足首は、手術跡や事故の引き攣れは目立つものだったけれども、自分の意思で動かせるということに安堵した。
「風呂などではギプスを外して構わないですが、まだしばらくは松葉杖を使用して下さい。今無理に負荷が掛かると変形する恐れもあるので、出来る限りギプスは着用しているように」
診察を終えるといつも診てくれる先生は半分になった足首用のギプスをあてると、その上から包帯を巻いて固定してしまう。それでも、くるぶしより上部分のギプスが無くなっただけで志穂にとっては随分と楽に感じた。何よりも、重みが無いということに志穂としても心が軽くなってくる。
診察を終えていつものようにリハビリ室でいつものリハビリをこなし、リハビリ室を出たところで珍しく不機嫌そうな顔をしたヒロがいて、志穂は苦く笑うしかない。
「志穂さん、どうして黙って」
「ヒロは仕事中でしょ。別に病院くらい一人で来れるから」
「でも、また何かあったら」
「何もないから。それにヒロの家の前からタクシーで病院まで来てるのに、どうにもなりようがないでしょ」
まだ何か言いたげなヒロを溜息をつくことで黙らせてしまうと、ヒロを待合室のソファに座らせた状態で会計を済ませてしまう。ヒロと共に病院を出たところで、後ろから歩いてきたヒロが慌てて肩を掴んで足を止められる。
「足、もしかしてギプス」
「全部じゃないけれども足首から上の分は外れた。それに足首の部分も取り外し可能になった」
「良かった。本当に良かったです」
途端に不機嫌そうだった顔が一転、笑顔になると本当に嬉しそうに喜んでくれる。仕事を投げ出してきたヒロに怒ったふりをしていた志穂としても、そんなヒロに毒気を抜かれてしまう。
ヒロが本気で心配していることは分かっていたし、責任を感じていたことも知っている。だからこそ、こうして笑顔を見せてくれることは志穂としても嬉しく感じた。結局、こうしてヒロに振り回されている気がするのは志穂の気のせいじゃないと思う。
「ありがとう。だから、近い内にヒロの家を出て行こうかと思っているの」
「それはダメです。きちんと松葉杖が外れてから」
「でも、こうしてヒロは私のために仕事を二の次にするでしょ? そういうのが私は嫌なの」
途端にヒロは黙り込んでしまい、志穂としてはヒロの答えを待つことになる。ヒロと生活して分かったことは、志穂が思っていた以上にヒロが忙しいということだった。午前中と午後、そして夕食後も随分遅くまで仕事をしている。
昨日はヒロから借りた本を読み終えた時、夜中の二時になってしまい寝る前にトイレへ行くのにリビングへ出れば、ヒロは夜食を食べていた。一緒に食べるかと誘われたけれども、松葉杖で動くことも少なくなった志穂は寝る前の一食は恐ろしくて口にできなかった。それでも、ヒロが食べ終えるまでお茶につきあい、それぞれ部屋に戻った。既に二時だったにも関わらず、ヒロはもう少し仕事をすると言っていた。
そんなヒロを少しでも楽にしようといつもより早く起きて、朝食の準備をしようと思ったのに、ヒロは七時には起きていて志穂よりも手早く朝食を作ってしまい志穂の出番は全く無かった。志穂がいることで気遣わせているのであれば、そういうことをさせたくなかった。
「分かりました。これからは気をつけるようにします。でも、こうして志穂さんがいるから外に出るのでいい気晴らしになってるんです。もし一人でいたら、一週間でも外に出ない生活をしていますよ」
穏やかな笑顔で言われてしまうと、どうにもその笑顔に弱い志穂としては何もいえなくなってしまう。それに、ヒロの気持ちも分からなくはない。志穂も熱中すれば寝食を忘れることもある。ただ、今はそれだけ集中できるものはなく、少しだけそんなヒロがうらやましい。
「それで、志穂さんはこのまま帰る予定ですか?」
「買い物する。それで今日は私が夕飯作るから」
「でも、まだ足が」
「大丈夫。無理はしない。せめて少しくらは手伝わせて貰わないと私も困る」
ヒロは笑いながら了承してくれたけど、それでも痛みを感じたら絶対に無理はしないと約束させられた。タクシーに乗り、スーパーに向かうとヒロと共に店内を歩く。
買い物籠を持つヒロは志穂が買う物に対して何一つ意見することなく、ひたすら荷物持ちに徹していて、それは少しだけ居心地が悪い。ヒロ以外の男であれば当たり前のことだったのに、何でヒロ相手だとこんなに気持ちが違うのか自分でも分からない。それ以前に何故、居心地が悪いなどと思うのか志穂にも理解ができない。
そんなことを考えながら志穂が立ち止まったのは葉物野菜の前だった。スーパーは大抵名前が書かれているから大丈夫だと思っていたけれども、志穂の目の前にあるのは果たしてどちらがほうれん草なのか区別がつかない。それだけ料理と縁が無いといえばそれまでだが、さすがにそれを口にするのは恥ずかしいことだというのも自覚している。
内心冷や汗をかきながらただひたすらその前で悩んでいれば、背後からヒロが声を掛けてきた。
「志穂さん、今考えてること当てましょうか」
「いい、何も言わないで」
情けない思いでそれだけ言えば、笑いながらヒロは左側を指差した。
「こっちが小松菜、こっちがほうれん草」
余りの恥ずかしさに穴があったら入りたい心境だったけれども、素直にほうれん草に手を伸ばせば背後で笑う気配がある。余りの気恥ずかしさにヒロの顔を見ることもできずに、ヒロの持つ籠の中にほうれん草を入れる。
「志穂さん、耳まで赤いです」
「お願いだから何も言わないで」
「はい、これ以上は黙ってます」
それでも背後から聞こえる小さな殺し損ねてる笑い声に、志穂としては本気でいたたまれない。それからもいくつか買い物をするために籠へと入れていくと、最後にカップラーメンを二つ入れた。それについてヒロからのコメントは無かったけれども、やはり背後で笑っている気配だけは伝わってきて、志穂はらしくもなく唇を尖らせた。
会計で再びどちらが払うか揉めたあと、志穂が持つ買い物袋をヒロが持ってしまう。触れた手が温かくて、志穂は慌てたように離してしまう。けれども、そんな自分の反応に慌ててヒロを見れば、ヒロは全く気にした様子も無くいつものように笑う。その笑顔が本当に普段通りで、意識しているのは志穂だけだと言われているようで面白くない。いや、面白くないといよりかは、意識しすぎている自分が馬鹿みたいに思える。
二人で再びタクシーに乗り込みヒロのマンションへ到着すると、ヒロは再び仕事部屋へ戻り、志穂はキッチンに入る。時間はまだ四時だったけれども、基本的に料理が得意ではない志穂としてはこれくらいから始めないと七時の夕飯には絶対に間に合わない確信もあった。
スーパーの袋からそれぞれ肉や野菜を冷蔵庫にしまいながら、部屋を出て行くと言った言葉を無かったことにされたことに気づいて少しだけ笑ってしまう。志穂としてはこの生活は悪くないけれども、ヒロに負担が大きすぎて続けられる生活じゃないと思える。楽しい時間を貰ったんだと思えば、寂しくは思ってもここを出ることを決めたことに後悔は無かった。
とにかくご飯を炊いてからおかずを作るために奮闘を始めるものの、ヒロの家は色々な調理道具があり、見ても何のために使用するものなのか分からないものが多数あった。とにかくひたすら作ることに専念してはみたものの、遣り慣れない人間が頑張ったところで料理というのはどうなるものでもない。基本的に料理というのは経験が物を言うものだと志穂は作ってみてようやく悟った。
七時になりヒロの部屋をノックすれば、ヒロはすぐに出てきてくれた。けれども、テーブルの上にあるカップラーメンを見ても驚くことはなく、そのままキッチンへと向かう。
「ごめん、後で片付けるから見ないで」
「でも、作ったんですよね」
「作ったというか、勝手に出来上がったというか……」
つい歯切れが悪くなるのは、作ろうと思っていたものが何一つ出来上がらなかったからに他ならない。唯一普通に出来上がったものは炊飯器で炊いた白米だけで、慌ててキッチンに向かったヒロのシャツを掴む。背中のシャツを掴まれたヒロは足を止めると、振り返りシャツから手を離した志穂を見下ろしてくる。けれども、その顔は責めるようなものではなく、いつもと変わらない穏やかな表情で少しだけ困ったように笑う。
「正直、志穂さんと出会った時からもしかしたら、という想像はしてました」
「どういう想像?」
「料理が余り得意ではないんだろうな、と」
「どうして?」
「いつも志穂さんと帰り道に会うとコンビニの袋を持ってましたから」
言われてみれば、大抵、志穂は駅前にあるコンビニで夕飯を買って帰ることが常だったから、確かにヒロと会った時には弁当を持っていることが多かった。というか、むしろ持っていないことが無かったかもしれない。そんな前から知られていたということに顔が赤くなってくるのが分かる。
「味見したけど不味かったの。だから」
「味見してみないと分かりませんけど、もしかしたら努力が報われるかもしれませんよ」
「どういうこと?」
問い掛けたけどヒロは答えず、結局、ヒロの後を追うようにして志穂もキッチンへと足を踏み入れた。コンロの上に置いてあるフライパンの上には、ちょっと目を離した隙にムニエルになり損ねた焦げたサーモンがある。ヒロはフライ返しでまな板の上に二切れ乗せると、包丁で焦げた部分をそぎ落としてしまう。それを小さなボールに一旦入れると、次に鍋の蓋を開ける。
そこに入っているのは、見た目ポトフだけど味のかなり違うよく分からない食べ物で、少なくとも食欲を刺激するような物ではない。それでも、ヒロは小さなお玉で小皿にスープを入れると味見をしてから、少し悩むそぶりを見せてからうすくち醤油とみりんを目分量で入れると弱火で煮ている。
そしてもう一つのお鍋に入っているのは中華スープになりそこねた物で、それを見た途端、ヒロは同じように味見した後、冷蔵庫からショウガを取り出し細切りにして鍋に入れると、続いて塩こしょうをして、最後にお酒を入れて沸騰させてから水溶き片栗粉を加えて再び味見をする。
「ヒロ、無理しなくてもいいから」
「いえ、これくらいだったら美味しく食べられますよ。味見してみます?」
ヒロは小皿にスープを入れると志穂に差し出してくる。それを素直に受け取り口にすれば、間の抜けた味がしていた中華スープはしっかりとしたスープに早変わりしている。見ていたからもの凄く手を掛けたという訳じゃないことは分かる。けれども、志穂にはヒロの手が魔法のように思えた。
「美味しい……何か全く別物」
「料理ってそういうものですよ。何かが多すぎたり、少なすぎたりすると、味がぼやけることが多いんです。慣れれば基本的に感覚で作れますけど、慣れない内は基本を覚えないと、どうしても美味しく仕上がらないんです」
「そっちのポトフもどきは」
「こっちはもう少し煮込んでから味見した方がいいです。でも、きちんと食べられますよ」
確かに料理は経験だと思うけど、それでも少し味見しただけで味を調えられるヒロはやっぱり凄いと思える。少なくとも、志穂がヒロと同じくらい料理の経験があったとしても、ここまでのことができるとは思えない。
遙か昔、調理実習をした時にも、何故か志穂が作ったクッキーは大変評判が悪かった。そういえば、あれを食べた友人たちから不評を買って以来、料理は嫌いになった記憶がある。学生時代は基本的に親元にいて料理を作ることはなく、一人暮らしをしてからは、忙しさを理由に料理を作ることは無かった。
最初から作れないことは予想していたにも関わらず、らしくもなく作ろうと思ったのはヒロがいたからだ。それは、ある意味女のプライドみたいなものだったのかもしれないし、ただ、いい格好をしたかっただけかもしれない。どちらにせよ、見栄を張った結果であって、更なる恥のうわぬりをしただけだったらしい。
そこまで考えると、自分の浅はかさに志穂は女として恥ずかしくて顔が上げられなくなる。
「手間掛けさせてごめん」
恥ずかしく思いながらも、志穂の口からは素直に謝罪の言葉が出てきて自分でも驚いた。けれども、ヒロはそんな志穂の驚きに気づかないのか、緩く頭を振ってから緩やかに笑みを浮かべた。
「役に立てることが一つでもあると安心します。志穂さん、見てると全てにおいて完璧な人に見えますから」
「完璧な人なんている訳ないじゃない」
少し呆れた含みで言えば、ヒロは笑みを深くした。確かに完璧であればいいとは思うけど、全てに置いて完璧でありたいとはさすがに思えない。志穂自身は残念ながらそこまで完璧を求めていないし、人間には向き不向きだってある。努力したいと思う方向もあれば、努力を余りしたいと思えない方向だってある。そういう意味では志穂にとって料理というのは、面白みを刺激されるものではなかった。
「一時間ほどすれば食べられますから、あれは非常食用に片付けておきましょう」
ヒロが指さすのはテーブルの上に置かれたままになっている開けていないカップラーメンで、志穂は素直に頷くしかない。志穂が動くよりも早くヒロが動いてカップラーメンを棚にしまうと、そのタイミングでチャイムが鳴った。七時といえば遅い時間では無いけれども、こうしてヒロを訪ねてくる人がいるというのは少しだけ不思議な気持ちになる。
「部屋に戻ってる」
「あぁ、多分、この時間なら久住ですから気にしないで下さい。志穂さんがここにいることも言ってありますから」
それだけ言うとヒロは玄関に行ってしまい、志穂は少し悩んだ後、挨拶だけして部屋に戻っていようと思っていた。けれども、部屋に入ってきた久住は挨拶をすると、志穂にも用件があるからとソファに促された。
改めて久住に謝罪され、ようやく親との折り合いがついて年明けには社の名義変更をできることを伝えられて、ヒロはホッとした顔をしていた。そして、久住は志穂へと向き直ると、志穂に対しての本題を切り出してきた。
「今日は志穂さんにお願いがあってここへ来ました」
「久住、もう少し落ち着いてから」
「そうのんびりしてられない。いずれにしろ、志穂さんが既にサイドビジュアルを離れたことが話題に上り始めている。志穂さん、もしよければうちに入って貰えませんか?」
ヒロと久住の会話を聞いているだけで、本題はそのことだろうということは予想もついていた。
「サークルファイブへ転職する、ということですよね?」
「そういうことです。正直、うちのプランナーと志穂さんは全く違う方向性なので、うちとしては志穂さんのような人材が喉から手が出るくらいには欲しい。給与面などは勿論、サイドビジュアルよりも良いものになりますし、人材面でも加納さんを始め、竹河さん、それから外注の秋山さんや丸尾さんとも話しがついています。残念ながら外注の二人は、志穂さんがうちに入るのであれば受注してくれるという前提でした。できたら年明けにはお返事を貰えたらと思っています」
正直、こうして求められることは嬉しく思う。実際、加納や竹河に声が掛かり、自分に声が掛からないことを寂しく思ったくらいだった。けれども、喜んで転職するかとえいば、話しはまた別となる。業界内で志穂のことがどこまで話題に上がっているかは分からない。もし、志穂がサークルファイブへ転職したことで、志穂がサークルファイブへデータを横流ししていたことを確実にしてしまうのは志穂としても得策ではない。とにかく、今は自分に対する情報を集めるしかない。
「分かりました。年明けにはお返事できるように考えておきます」
「お願いします。そしてもう一つお願いを。できることなら志穂さんには仕事を続けて欲しいと思っています。それは別にうちじゃなくても構わないです。業界的に下火になっている今、優秀なプランナーは業界を活性化させるだけの力があります。俺は少なくとも志穂さんはそういう力があると信じています。プレッシャーになるかもしれませんが、志穂さんにはどんな形でもいいからプランナーを続けて欲しいと思っています」
「そこまで評価して貰えるのは素直に嬉しいです。有難うございます。ただ、他にできることも無いので、結局この仕事を続けていくとは思います。結局、働かないことにはご飯も食べられませんし」
志穂が心の内を少しだけ晒せば、それに対して久住は少しだけ意地の悪い顔で笑うとチラリとヒロを見る。
「一層、ヒロに食べさせて貰うという選択もありますけどね」
「久住!」
「そ、んな訳にはいきませんし!」
思わずヒロと共に強く言い募れば、久住は豪快に笑い出す。そして、志穂はヒロと目を合わせて、恥ずかしさで俯いた。食べさせて貰うということは、結局、いきつくところは結婚ということを久住が言いたいのだと分かる。けれども、ヒロとはまだそんな関係にもなっていないのに、結婚なんてずっと先にあるものを出されても志穂としては困る。
久住の一言で、どこか堅苦しい空気は和やかなものに変化してしまい、それから三人で夕食を取った。中華スープは味見した通り美味しいものだったし、見た目ポトフだったものはおでん風味に早変わりしていて、これも美味しいものになっていた。そして焦がしたサーモンはヒロの手でオムレツに早変わりして、あの微妙な料理全てが美味しいものに変化したことに志穂としては驚くしかない。
美味しいという久住に、ヒロはオムレツ以外は志穂が作ったと言い、口を挟もうとした志穂にヒロは唇に立てた人差し指をあてて何も言わせて貰えない。少し騙している気分ではあったけど、久住にまで料理下手が知られなくて良かったという気持ちもあった。やっぱり、女として料理が下手だと思われるのは余り頂けない。
それからヒロの淹れてくれたコーヒーを飲んで久住は十時頃に帰っていった。
「志穂さん、サークルファイブの件は、余り気にしないで下さい。それこそ志穂さんほどの実力があれば会社を立ち上げるのもありだと思いますし、フリーという手もありますから」
「ありがとう。年明けまでまだ時間もあるし、もう少し考えてみる。ヒロ忙しいんでしょ。片付けはやるから、仕事に戻って。後でコーヒーくらい差し入れするから」
「その時には声を掛けて下さい。志穂さんと一緒に飲みたいので」
さらりと志穂の鼓動が上がるような台詞を言ったヒロは、そのまま仕事部屋へと消えてしまい、志穂一人がドキドキされられている現状を少し悔しく思う。好きだと言われたし、好意を寄せられているのは言葉の端々から伺える。ただ、好意を受けたまま何も返していないのが心苦しくもある。結論は既に出ているけど、今、何もない志穂はそれを伝えるためにもう少しだけ時間が欲しかった。
そして、久住の提案も考えなければならないことで、志穂は全ての皿を洗い終えた後、個人的に繋がりがある人間を名刺フォルダーからピックアップして十一時になるまで電話を掛けて色々と情報を集めた。
色々と話しを総合すると、志穂が思っている以上に志穂がサイドビジュアルを辞める話しは伝わっていて、その内の何人かには自分の会社へ転職しないかと誘われた。どちらにしても年明けにはきちんと決めると答えて、電話を切ることになった。そして、サークルファイブとの件についても思っていた以上に流れていて、驚いたのは柿沼の件がそれ以上に広がっていることだった。だから誰もが志穂に同情的だったけれども、それでもヒロとの付き合いについて色々と聞いてくる人間もいた。
恐らく、これでサークルファイブに転職すれば、ヒロとの繋がりから企画データを流したのは志穂かもしれないという疑惑がつきまとうに違いない。志穂としてはそれだけは避けたかったし、事実と違うこともあって面白いことではない。実際、同情的ではあったけれども、探るような人がいたのも事実なだけに看過できない。
コーヒーを淹れようとリビングに戻れば、電気を消したリビングにカーテンの隙間から細く月明かりが入ってきて何気なくリビングのカーテンを開けた。まだ低い位置ながらもそこには右半分が欠けた月が静かに佇んでいる。左半分しかない月をぼんやりと眺めていれば、扉の開く音がして振り返る。
「ヒロ、どうしたの?」
つい問い掛けてしまったのは、薄暗闇の中で酷くヒロの顔色が悪いように見えたからだった。
「少し集中できなかったので休憩しようかと思っただけです。志穂さんはどうしたんですか?」
近づいてきたヒロは窓の外を見て、それから納得したような顔をした。
「上弦の月ですね。雲一つなくて綺麗に見えますね」
月明かりで見るヒロの顔色はやはりいいものでは無く、ヒロの着ているシャツを掴む。
「もしかして体調悪いんじゃないの?」
「大丈夫です」
「でも、顔色悪い。今日は早く休んだ方が」
「すみません。どうしても今日中に上げないと、明日には仕事納めですから」
言われてみれば、確かに明日は既に三十日で全国的に仕事納めの日になっている。しばらく仕事から離れている志穂に仕事納めという響きは遠いものに感じ、そんなことを忘れていた自分に苦笑するしかない。
「コーヒー淹れてくるから、少しソファで休んでいて。疲れてるみたいだから砂糖とミルクたっぷりめで」
「お願いします」
そう言って笑うヒロの顔色はやはり夕飯時よりも、随分と青白く見えた。

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