Act.09-3:十二月の三日月-3

扉を開けたそこにはすっかり濡れたヒロがいて、外は思っていたよりも雨が降っていることに気づく。
「ちょっと待ってて。タオル持ってくるから」
すぐに踵を返したところで背後から伸びてきた腕が絡みつき抱き締められる。事故の時にはあんなにてきぱきとしていたにもかかわらず、志穂の前で握りしめられたヒロの両手は震えている。
「ヒロ? どうしたの?」
「すみません、まさかこんなことになるなんて想像もしてなくて……。しかも、一歩間違えてたら志穂さん死んでたかもしれない」
震える握りしめた手、そして震える声からもヒロは今になって恐怖に襲われたのかもしれない。いや、もしかしたら、ヒロはあの事故の瞬間、ヒロではなくサークルファイブの社長という立場で物事を考えていたからこそ冷静だったのかもしれない。
「ヒロのせいじゃないから。ほら、大丈夫だから。人を勝手に殺さない」
「でも」
「大丈夫、ヒロが助けてくれたから生きてる」
落ち着かすように何度もヒロの両手を優しく叩く。何度も何度も、大丈夫だと分かるように、慰めるように一定のリズムで叩いていれば、再びチャイムが鳴り、志穂自身よりもヒロの身体の方が大きく驚きで揺れた。途端に拘束されていた両腕が離れて「忘れてた」とポツリと零す。
「え、何が?」
「送って貰ったんです。警察の方に」
そう言ってヒロが玄関の扉を開ければ、そこには男性と女性の二人が立っていた。事故の様子を詳しく聞きたいということで、志穂は覚えている限りのことを伝え、いくつかの質問に答えるとお礼を伝えてくる。それに対して、ヒロがもの凄く恐縮した様子で何度もお礼を言うと、警察の二人は帰って行った。そして残されたヒロと二人、微妙な空気の中に残されてしまう。
「とにかく、タオル持ってくるから」
「すみません、お願いします」
松葉杖をもどかしく思いながらも洗面所でバスタオルを手にすると、玄関に立つヒロに手渡す。渡した途端にヒロはバスタオルの中に顔を埋めると、もう一度呟いた。
「すみません」
その言葉が聞こえると同時に、志穂は拳を作って背伸びをしてからヒロの頭を軽く叩いた。
「もう言わなくていい。別にヒロが悪い訳じゃないから。謝られてもこっちが困る。ほら、頭も拭いてコート脱いで早く中に入る」
中に入るように促したにも関わらず、バスタオルから顔を出したヒロは困惑した顔をして志穂を見ている。
「なによ」
「入っていいんですか?」
「入りたくないならいい」
「いえ、そんなことはないです! あの、おじゃまします……」
それだけ言うとヒロは慌てたように頭を拭いて、すっかり濡れて色を変えたコートを脱ぐと、志穂はその間に持ってきたハンガーでヒロのコートを鴨居に掛ける。
「とにかくそこのソファなら暖房利いてて温かいからそこ座って。今コーヒーでも淹れるから」
「そんな、志穂さんこそ座ってて下さい。コーヒーなら淹れますから」
「とにかくヒロは今温まるのが先決。ここは私の家だから私がルール」
絶対に聞かないとばかりに言えば、少し唖然とした顔をしたヒロは次第に笑顔に変わる。
「それならお願いします」
穏やかな笑みを浮かべるヒロの言葉を聞いてから、志穂はキッチンへ向かうとコーヒーを淹れる。とはいっても、今現在あるのはインスタントコーヒーくらいなので、電気ケトルでお湯を沸かすとカップにコーヒーを淹れる。リビングへ運ぼうとしたところで、背後からヒロの手が伸びてきて二つのカップを手にするとリビングへと運んでしまう。
「ありがとう」
「お礼を言うのはこちらの方です」
先のような切羽詰まったような感じはなく、志穂はヒロと共にソファへと腰掛けた。まだヒロの顔色は青ざめていたけれども、先ほどより随分とマシになった気がする。
二人で無言のままコーヒーを飲んだところで、ヒロはもう一度謝罪の言葉を口にした。
「だから、もういいって」
「そうじゃなくて、その、事故の時に志穂さん一人を置いていってしまって」
「あの場合は仕方ないでしょ、知り合いだった訳だし、ヒロが社長なんだから」
「あの……久住から」
「聞いた、全部聞いた。でも、あの場でヒロは社長だったんだから仕方ないじゃない。少なくとも、知り合いが救急車で運ばれる時に、知らないふりしたらその方が軽蔑する」
実際、置いて行かれた気分で寂しかったし、怖かったなんてことは言わない。気持ちを全て伝えたら上手くいくかと言えば、人との付き合いはそういうものでもない。ある程度の距離感と、相手に安堵感を与えられる存在でありたいと志穂は思う。特にそれが特別な相手であれば尚更そう思える。
「救急車に乗ってすぐに縦井さんが気づいて、好きだと告白されました。縦井さんの気持ちに全く気づいてなくて申し訳無い気分になりました。でも、志穂さんのことを二回目と三回目は明確な殺意をもって殺そうとしたと言われた時、相手が女性とか怪我人とか忘れて殴りそうになりました。けれども、落ち着いたら今度は凄く怖くなって……もしかしたら、自分が縦井さんに曖昧な態度を取っていたんじゃないかとか、思わせぶりなことをしたんじゃないかとか」
「気づかなかったなら仕方ないと思うけど」
「でも、それで志穂さんを怪我させたんだと思ったら、もの凄く怖くなりました」
逆の立場であれば、確かに志穂だって怖くなるに違いない。けれども、ヒロにそんなことで落ち込んで貰いたくない。
「別にヒロのせいじゃないし、仮にヒロのせいだとしたらどうしたいの?」
自分でも少し挑発的かとも思ったけれども、他にどんな言い方をすればいいのか分からない。ヒロ以外の相手であれば、それなら一緒にいられないわね、と言ってここでさよならしたに違いない。けれども、ヒロの気持ちも知りたい。こんな時に、自分はずるいのかもしれない。
「それでも……そばにいたいです」
「それなら結論は変わらないんだから、これ以上考えても無駄ってことじゃないの? どうあっても変わらないなら考えても仕方ないでしょ」
途端、鎮痛な表情をしていたヒロは唖然とした顔をして志穂を見ている。そんなヒロに志穂は笑顔を向けた。
「……何だか、都合よく丸め込まれた気分です」
「丸め込んでるから。私はヒロとであったことを後悔していないし、今更時間を戻したいとも思わない。もし、戻ったとして、事故に遭うことが分かっていたとしてもヒロと会わない選択はしない。それとも、ヒロは会いたくなかった?」
「そんなことありません」
「だったらこの話はこれで終わり。疲れてるだろうし、今日は早く帰って寝なさい」
既に時間は夜の八時を回り、色々なことがありすぎて今日という日は目まぐるしく終わりに近づいている。実際、志穂自身も疲れていたし、警察や病院とのやり取りでヒロも疲れているに違いない。
そして、このままの流れでヒロに忘れてほしい約束事もあったからこその言葉だったけれども、それを見逃してくれるほどヒロは甘くなかったらしい。
「そうさせて貰います。だから、志穂さんも用意して下さい」
「何のこと?」
白々しいとは思ったし、諦めが悪いかもしれない。けれども、志穂が問い掛ければヒロは途端に伺うような視線を投げてきた。
「疲れていても関係ありませんよ。むしろ怪我の原因が分かったからこそ、志穂さんをそのままにしておくことはできません。それとも本当は一緒に暮らすのは嫌でした? 嫌ならはっきり言って下さい。これ以上の無理強いはしませんから」
そこまで下手に出られてしまっては、言い訳して断ることもできない。結局、志穂としては嫌じゃない。ただ、これ以上ヒロに近づいていいのか迷いはする。
「志穂さん」
穏やかな声が志穂の名前を呼ぶ。強制するような響きは全く無いのに、それでも、言葉を促されている気になるのは、もう惚れた弱みというものかもしれない。視線も伺うものではあるものの、穏やかな目は会った時から変わらない。
「……嫌じゃない、そう言ったでしょ」
「それなら用意して下さい。手伝うことはありますか?」
ソファから腰を上げようとするヒロの肩を慌てて掴むと、志穂は松葉杖で立ち上がる。
「無いからここに座っていて。今、風邪なんてひかれたらそれこそ面倒なんて見れないんだから」
つい怒ったように言ってしまったけれども、穏やかにヒロは笑う。そんな穏やかな笑顔と空気が本当に好きだと思える。
そのまま寝室に戻ると、先ほど片付けたばかりの鞄を取り出すとクローゼットから再び荷物をつめていく。実際、松葉杖が外れるまでといわれたけど、そこまで長居するつもりは無かった。
ヒロは酷く責任を感じている様子だったから、少しの間でも一緒に暮らすことで気持ちを軽減できればいい、志穂としてはそういう心積もりでいたから用意したのは五日分の着替えだけだった。そして、いつもであれば持ち歩くノートパソコンをどうするか考えて、結局、それを荷物に入れることはしなかった。
入院中から数えて一ヶ月近くパソコンに触っていないのは何年ぶりになるか分からない。暇さえあれば思いついたアイデアを企画の元としてパソコンに打ち込んでいたのに、そういうことをしない日々というのは少しだけ寂しい気がする。そう思うということは、自分で思っていたよりもプランナーという仕事が好きだったのかもしれない。
仕事をしている自分が好きだったし、プランナーという仕事に遣り甲斐は感じていた。けれども、プランナーという仕事を好きだと思ったことは一度だって無かった。自分を知るのはいいことだと思うけれども、何もできない今はもどかしく思うばかりで落ち着かない。
荷物をまとめてリビングへと戻れば、ヒロはコーヒーを片手に落ち着いた雰囲気でソファに座っている。けれども、スーツを着たヒロは少しだけ別人に見えた。
部屋から出てきた志穂に気づくと、すぐにヒロはカップをテーブルに戻し、志穂が持っていた荷物を持ってくれる。その顔は志穂の知っているヒロで、安堵したのは確かだった。けれども、それだけ志穂はヒロのことを知らないということかもしれない。
実際、ヒロは名義を貸しているとは言っていたけど、実際にどんな仕事をしているのかは知らない。今まで一緒に住んでいた相手がどんな仕事をしていたのか、志穂は余り興味が無かった。けれども、何も言わないヒロのことが気になる。気になるのであれば聞けばいいと思うのに、それを聞くことがためらわれたのは、ヒロのことをこれ以上知るのが怖いのかもしれない。
知れば知るほど深みにはまる気がして、志穂としては知りたいけれども知りたくない。それは好きなのに言えない気持ちと似ていた。
ヒロに荷物を持って貰いながら、タクシーに乗り込むとヒロは四駅ほど先の場所を伝える。正直、ヒロは近くに住んでいるとばかり思っていたから、少しだけ驚いた。だとしたら、何故、志穂の家近くにある公園で会ったのか分からない。けれども、それを問い掛けることもできないままヒロは近くまで行くと、運転手に細かい指示を出す。
そしてタクシーが到着したのは、それなりに大きなマンションだった。ヒロと共にマンションへ入ると、エレベーターに乗り込む。お互いに会話はなく、志穂としては落ち着かない気分になってくる。
基本的に自分の家に他人を招きいれることはあっても、自分が他人の家に入ることは余りない。だからこそ、緊張しながらもヒロが開ける鍵を何も言わずに見つめていた。ヒロは扉を開けると、すぐに志穂へと振り返り笑みを浮かべた。
「色々制約あって不便をかけますけど、どうぞ」
そう言って大きく開かれた扉に、志穂は「おじゃまします」と声を掛けて玄関に入った。玄関から広く作られていて、入ってすぐ右側の壁一面はシューズラックがあり、その中央は大きく開いた置き棚になっていて、そこには水槽内で色鮮やかな熱帯魚が泳いでいる。随分と手入れされているらしく、水槽はきれいに磨かれていた。
ヒロと共に部屋へ入れば、志穂の部屋に比べたら随分と広い作りになっていて、リビングだけでも十畳以上はありそうな雰囲気だった。センターに置かれたソファやテーブルは落ち着いた色合いで、全ての家具が同じメーカーで揃えられているらしく、品のいい焦茶色でまとめられている。
右側にはキッチンがあり、一応カウンターで仕切られているものの、見え隠れする家具はやはりリビングのものと色調のもので揃えられていて、カウンターの上には観葉植物が二鉢置いてあった。こちらもよく手入れされているのか緑の上に埃が積もるようなことになっていない。正直、これを見ている限り、ヒロという人物が分からなくなってくる。
「それからあっちの扉は仕事部屋なので、開けないで貰えると助かります」
「大丈夫、開けないから」
「別に絶対って言う訳でもないんですけど」
「それくらいのルールは守るから」
「あ、いえ……とにかく、仕事中は集中してしまうので、何かあればこれで連絡入れて下さい」
すぐ近くにある電話を手にするヒロに志穂は頷きで返した。一旦、志穂が使って欲しいと言われた部屋に案内されると、そこは八畳ほどの広さがあって、ベッドとテレビ、そしてクローゼットがあるくらいで他に物はない。
「もし、クローゼットを使うなら自由に使って下さい。そこに何も入ってませんから」
「ヒロはここに住んでないの? リビングを見た限りタンスも無かったみたいだけど」
「仕事部屋にウォークインクローゼットがあるので、そちらに全部入っているんです。だから、この部屋は本当に自由に使って貰って構わないです」
「でも、ベッドは」
「仕事部屋の方にあるので気にしないで下さい」
そこまで言われると志穂としてもそれ以上言い募ることできずにいれば、ヒロは志穂の荷物を置くと部屋を出て行こうとする。けれども、扉のところで一旦足を止めると振り返る。
「すぐにご飯にしますから、それまでに荷物でも片付けていて下さい」
それだけ言うとヒロは部屋を出て行ってしまい、残された志穂は改めて部屋を見回す。目立つ家具はベッドとテレビ、そしてテレビの乗せられたテレビボードしかないけれども、そのどれもがチープな物には見えない。
もしかして、ヒロはどこかの御曹司とか考えたけれども、だとしたら幾ら友達の頼みとは言えども名義貸しなんてことはするとは思えない。知りたくないと思うのに、興味が惹かれるのは本当に困る。これが志穂じゃなくても、興味を持つに違いない。
興味はともかく、今は荷物を片付けるべくクローゼットを開ければ、ヒロが言うように中には本当に何も入っていなかった。だからこそ、志穂は遠慮なくそこにあるハンガーに持ち込んだ洋服を掛けさせて貰うと、リビングへと戻る。
途端にサフランと魚介の香りに気づき、キッチンを見ればヒロがこちらを見ていた。
「すぐにできますからソファに座っていて下さい」
本来であれば手伝うのが筋だけど、松葉杖をついている現状ではお皿を運ぶことすらままならない。しかも本来の料理の手伝いともなれば、基本的に何も作れない志穂としては手伝いにすらならないに違いない。
だからこそ言われるままにソファへと腰を下ろすと、テーブルの上には紅茶が用意されていた。テーブルの上に二つあるところを見ると、一つは志穂のためのものらしい。湯気の立つ紅茶をぼんやりと眺めていれば、すぐにヒロが幾つもの皿を運んでくる。
最初に運ばれてきたのはパエリアで、それからブイヤベース、そしてサラダが運ばれてきてかなり驚く。正直、家でパエリアが食べられるとは思ってもいなかった。
「口に合ったらいいんですけど」
「ヒロが作ったの?」
「言ったじゃないですか。家事はそれなりにできますって」
「でも、普通にパエリアって作れるものなの?」
「意外と簡単ですよ。食べましょう」
向かいの床にヒロが座り、少し悩んだあとに志穂も床に座り込むと頂きますと声を掛ける。初めて食べるヒロが作った料理は下手な料理屋で食べるよりも美味しく、病院食の薄味に飽きていた志穂にはすごく満足のいくものだった。
そして、改めてヒロという人物に対しての謎は深まるばかりだった。

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