Act.09-1:十二月の三日月-1

久しぶりにパジャマから洋服に着替えると、すっきりした気分で、三つ編みにしていた髪を解く。一度ブラシを通してから、長いフワフワする髪を後ろにまとめ上げる。薄く化粧をして鏡で確認すれば、入院前に比べて遙かに顔色のよくなった自分と向き合うことになる。そんな自分に少しだけ笑ってしまうと、ベッドに立てかけてあった松葉杖を手に取った。
松葉杖で歩くことはまだ慣れないけど、長く歩く訳でなければそんなに辛いものでもない。ただ、一昨日まで寝たきり状態だったために、骨折していない方の足まで筋肉が落ちて最初こそ松葉杖で歩くことに苦労した。必要な書類を入れた鞄を肩から掛けると、ベッドから足を下ろして松葉杖で歩き出した。
ナースステーションで外出する旨を伝えて病院を出れば、思っていたよりも寒くて慌てて病院前に止まるタクシーに乗り込んだ。行き先を告げると窓の外へと視線を向ける。あちらこちらにクリスマスの飾り付けがされていて、赤や緑の色が少し眩しく感じる。柔らかい日差しと、暖房に身体を暖められながら目的地へつくと、お金を払ってタクシーを降りた。
目の前に建つのはサイドビジュアルの本社ビルで、一ヶ月も経っていないのに自分が思っていたよりも懐かしさが込み上げてきた。腕時計を見れば約束の一時間前となっていて、志穂は松葉杖のままビルの中へと入る。久しぶりに見た顔が志穂に挨拶してきて、志穂もそれに返しながらエレベーターに乗り込む。まずは二階の庶務で保険関連の手続きと来月末までの有給休暇の申請を行う。
そこから再びエレベーターに乗り込むと、今度は最上階のボタンを押した。一緒に乗り込んだ面々は途中の階で降りていき、最上階に到着する時には志穂一人がエレベーターに乗っている状態だった。扉が開き、他階に比べて高級さ溢れるカーペットを、松葉杖をつきながら歩いて行く。突き当たりにある社長室の前に立つと、緊張するのが分かる。小さく息を吸い込んでから軽く握った手の甲でノックをすれば、中から返事が聞こえてきた。
扉を苦労しながら開けば、そこには志穂が指定していた通り、社長、そして志穂の上司と柿沼がいた。挨拶をすれば怪我の調子を聞かれ、それからソファを勧められて志穂は素直に腰掛けた。
「それで今日はどんな話しをするために私たちを集めたんだね」
「まずはこれを」
そう言って志穂が鞄から取り出してテーブルの上に置いたのは、縦井と柿沼が二人写った写真だった。途端に柿沼の顔色が変わる。
「柿沼くんと、これは誰だ」
「そちらはサークルファイブの元社長秘書の縦井さんという方です。先日、解散になった私の企画を柿沼さんはその写真に写る縦井さんに横流ししていました」
「それはどんな冗談だ」
鞄から取り出したボイスレコーダーを再生すれば、縦井が柿沼から企画書を押し付けられたことを話している。ソファに座る社長や上司に比べて、その横に立つ柿沼の表情は恐怖に怯えている。
「これが確認できた為に、サークルファイブではこの元秘書と、今度出す予定だった新作ゲームのプランナーが解雇になり、新作ゲーム自体が凍結になりました。この件は調べて貰えば分かる筈です」
「それなら君の元へ企画が戻ってきたのだから問題は無いだろう」
社長の発言を聞き、志穂としては吐き気のする思いだったが、さらに書類を取り出すと先日加納に頼んで作って貰ったゲーム一覧を取り出す。表示されているのは柿沼が企画したとされるゲームの一覧で、それぞれが見ている目の前で志穂は取り出した蛍光ペンで幾つかのゲームにラインを引いていく。
「これがどうかしたのかね」
「これは全て私が企画したゲームです。企画途中で柿沼さんに盗まれたものです」
途端に社長が柿沼に視線を向けて問いただすが、柿沼は言いがかりだと激しく否定する。けれども、その激しさが肯定しているようなもので志穂としては呆れるしかない。
「言いがかりだと言っている。君の勘違いじゃないのか?」
元々、この社長は女性軽視が目立っていたため、志穂としてはこの反応は予測の範疇でもあった。
「そう思うならそれでも構いません。それからこちらを提出させて頂きます」
そう言って取り出したのは白封筒で、表書きには退職願と書いてあるものをテーブルに乗せた。途端に慌てたのは柿沼だけではなく、社長の隣にいた上司だった。
「は、榛名、そういうのは上司の私に相談して貰わないと」
「有給も残ってますし、これからリハビリもあるので一ヶ月有給消化させて頂いて、来月には辞職させて頂きます」
「いや、だがしかし」
「辞めたいというのであれば辞めればいい。何をそんなに焦る必要がある」
この会社でプランナーといえば一番手は柿沼で、あくまで志穂は二番手という地位に甘んじていた。それは諦めにも似た感情だったけれども、さすがに今回の件はだめ押しだった。
「でも、うちとしては榛名は優秀なプランナーですし」
「別に柿沼くんがいるんだ、問題は無いだろう」
「えぇ、全く無いと思いますよ。柿沼さんが今までと同じようなヒット作を出せるのであれば」
そう言って志穂が笑顔を浮かべれば、ようやくそこで社長は訝しげな顔をして、目を向けなかったゲーム一覧表を手に取る。そして、チェックされたゲームのほとんどが大ヒットしたものだと理解したらしく、隣に座る上司に視線を向けた。その視線は鋭く険しい。
「彼女が言っていることは本当か?」
「いえ、その」
「嘘か本当か、それを言えと言っている!」
既に志穂など視界に入っていない様子の二人に溜息をつくと、テーブルに退職願を置いたまま志穂は鞄を持って松葉杖で立ち上がった。そんな志穂に駆け寄ってきたのは柿沼だ。
「辞めるなんて言うな」
青ざめた顔で訴えてくる柿沼に、志穂としてはもう冷めた視線しか向けられない。何故、今まで黙って何も言わずにいられたのか自分でも理解ができない。飼い慣らされていた、というのはまさにこういうことだったのかもしれない。
「それを柿沼さんが言うんですか? これからは自分の実力で勝負して下さいね」
「ここを辞めてどうするつもりだ?」
「さぁ、どうするんでしょう。ただ、二度と企画のお裾分けをするつもりはありませんよ。楽しい嫌がらせをありがとう」
嫌味たっぷりに返したけれども、呆然とした様子の柿沼からの反応はない。柿沼の横を通り過ぎ扉に向かって歩いていると、背後から名前を呼ばれて足を止めて振り返る。こちらを見る社長の目は真剣なものだった。
「今の倍、給料を出す!」
部屋の中へ沈黙が落ち、しばらくの間社長と目を合わせていた志穂は殊更人受けのする取材向けの笑みを浮かべた。
「有給休暇の申請は既に出してありますので、失礼致します」
そのまま扉に向かって歩き出す志穂に、背後から掛かる声はもうない。だから松葉杖で苦労しながらも扉を開けたところでふと思い出してこちらを見ている三人に顔を向けた。
「そういえば、今やってる柿沼さんのプロジェクトの企画も私のものです。売れるといいですね」
しっかり上司の目を見て宣言すると社長室の扉を閉めた。どこかすっきりした気分で再び歩き出した所で、分厚い社長室の扉だというのに向こう側から怒鳴り声が聞こえてくる。その声に苦笑しつつも再びエレベーターに乗り込みプロジェクトルームとして使用していた部屋へと足を運ぶ。部屋に入れば、人が出入りしていなかったらしく少しだけほこり臭く感じた。
そんな中で志穂は壁際にあるダンボール箱を広げると、私物と庶務へ戻すものを仕分けしていく。その途中でノックする音が響き、セキュリティーが解除されて扉が開く。そこに現れたのは加納と竹河だった。
「お、やっぱり来てたのか」
「今、辞表を叩きつけてきたところです」
「さぞや青い顔をしてただろ」
「楽しい余興でした」
そんな会話を交わしながらも、加納や竹河も仕分け作業を手伝ってくれる。座りながらしか作業のできない志穂としては、この手伝いは本当に有り難いことだった。
「実はな、先週、正式に引き抜きのオファーがあって、俺と竹河も退職することを決めた、と言ったら笑うか?」
唐突ともいえる切り出しに、思わず荷物をまとめる手を止めて加納と竹河を見上げれば、二人してやけに楽しげな顔をしている。
「もしかして……このタイミングということはサークルファイブへ?」
「まぁ、そういうことだ。いつまでも泥舟には乗ってられないからな」
「でも加納さんの部下たちは……」
「もう伝えてあるし、この会社に先がないことは言ってある。来月、榛名の辞職が流れたら脱落者は増えるだろうな」
「うちでも色々と噂になってますよ。今回、柿沼さんが考えた企画という割には方向性が全く合ってないらしくて、シナリオライターとやり合ってるみたいです。そこからさらに不信感が芽生えて、あれは本当に柿沼さんの企画だったのかって話が普通に上がりつつあります。全てが露わになるのは、すぐかもしれません」
正直、そこまで大事になっているとは思ってもいなくて、ただ驚かされる。けれども、徐々に驚きから笑いが込み上げてきて、志穂は久しぶりに涙が出るほど大笑いした。
「柿沼とか社長がどんな顔をするのか、想像するだけで楽しくて仕方ないんだけど」
「俺が辞表出した時はすげー顔してたぞ」
「僕も、もの凄く驚いた顔されましたよ。うちみたいな一流から辞めるなんて、みたいなことも言われました。今はブランドだけで生き残れる時代でも無いんですけどね」
社会人二年生である竹河の意見は中々厳しいものがある。けれども、今はどんなに小さな会社でも面白いものを出せば、それにくいつくコア層がいて、そこから広がっていくゲームも多い。ブランドがあれば確かに宣伝する分それなりに売れるだろうけど、人の企画を盗まなければランクインできないゲームしか作れない人間が社内一のプランナーなんて会社は終わってるとしか言いようがない。
けれども、既に退職願を二人が出しているとは思ってもいなかった。
「とにかく、俺も竹河も柿沼のプロジェクトが終わり次第退職することはとにかく決めた。榛名、お前はどうするつもりだ?」
「まだ考えてません。少しゆっくり考えてからどうするべきか決めていこうと思っています」
とにかく、医者から言われていることもあり、まずはリハビリありきで、今の志穂にとってリハビリは一番にやるべきことだった。幸い、遊ぶ時間も無かったから、幾ら男の世話をしていたと言っても、貯金だって随分と残っている。少なくとも、一年くらい遊んでいてもいいくらいの金額はあるから、実際、これから何をやっていきたいのかゆっくり考えたかった。
「もし、三ヶ月後までに自分で会社作る気になったら俺にも声を掛けろ。引き抜きなんて切って、お前の会社に何が何でも行ってやる」
「無茶言わないで下さいよ。自分で会社建てるなんて考えたこともありませんから」
「でも、プランナーが独立して会社を建てるのは割合とありがちな話しですよ。僕も、もし榛名さんが会社を建てるのであれば、また一緒に働きたいと思います」
「ありがとう、その言葉だけでも充分嬉しいです」
結局、全てが片付け終わり、二人にダンボール箱を一つずつ持って貰いながら一旦庶務へ立ち寄り、竹河の持っている事務用品の入ったダンボール箱を返す。全ての事務用品を返したことで驚いた女性がもしかして辞めるのかと聞いてきたけど、志穂はあえてそれに答えず笑ってごまかした。
そして、会社を出て目の前に止まるタクシーに加納が持っていたダンボールを乗せると、二人にお礼を言って頭を下げた。それに対して竹河には退職した時には打ち上げをしましょうと言い、加納は大きな手で頭を撫でてくる。子ども相手のようなその動作に笑いつつも、最後にもう一度お礼を言ってからタクシーに乗り込んだ。病院へ戻る前に家へ立ち寄って貰えば、志穂の住むアパート前でのどかが待っていて驚く。
聞けば加納から連絡を貰ったらしく、やっぱり同じようにのどかからも会社を建てることを勧められてしまう。けれども、まだ何も決めていない志穂には答えることもできず、のどかが出す色々な案に笑いあう。久しぶりに入った自分の部屋で大きく窓を開けて風通しをしながらのどかとコーヒーを楽しんだ後、再び志穂は病院へと戻ってきた。
着替えてベッドで横になった途端、巡回が回ってきて足の調子を見てくれる。手術の経過は良好で、予定通りに退院できると聞いて安心した。それに久しぶりに外へ出て色々なことをこなしたこともあり疲れていたのかもしれない。気づけば眠りに落ちていて、ふと物音で目を覚ました時にはベッドの傍らに置かれた椅子にヒロが座っていた。
「来てたなら、起こしてくれたらいいのに」
「よく寝てたみたいですから。でも、そろそろ起こそうかと思っていましたよ。夕飯も来てますし」
そう言ってヒロが指さした先にはトレーに乗せられた夕食がある。けれども、ヒロの前で一人食事を取るのは気が引けてトレーに手を伸ばすことができずにいれば、笑いながらヒロは足下からファーストフードの紙袋を掲げて見せる。
「一緒に食べようと思って買ってきたんです。一緒に食べませんか?」
病院の食事の配膳時間は意外と早く、六時半までには配膳を終えていることが多い。思わず壁の時計を見れば、八時の回収までに三十分を切っている。もしかしたら、ヒロは随分と早い時間からここにいたのかもしれない。実際、配膳されて食べている最中にヒロが足を運んでくれたことが何度かある。
「本当に早く起こしてくれたら良かったのに」
「すみません。寝顔が何だか可愛くて」
照れくさそうに笑うヒロに、自分の顔が熱くなってきたのが分かる。頭に血が上るというのはまさにこういうことかもしれない。赤くなっているだろう顔を上げることもできず、覗き込もうとしてくるヒロをさけてヒロとは反対側に顔を向けた。
「志穂さん?」
「可愛いとか言わない」
「あ、言われるの好きじゃなかったんですよね、すみません」
「もういい」
ヒロにも言ったように可愛いとか言われるのは好きじゃない。実際、年齢を考えれば可愛いなんて言われて喜ぶような年でもない。それなのに、嬉しいと思うのはどこかネジが緩んでいる気がする。
そっぽを向いていた志穂をそのままに、ヒロは手早くベッドの上に補助テーブルを用意してしまうと、その上に食事の乗ったトレーを置いてくれる。気恥ずかしいながらもお礼を言えば、ヒロは凄く嬉しそうな笑顔を浮かべていて、それがまた目に優しくない。笑顔を見ることができるのは嬉しいけれども、太陽を直視したような、そんな痛みがある。
志穂は病院食、そしてヒロは買ってきたハンバーガーを囓りながら、ゆったりとした空気の中で時折、何でもないようなことを話しながら夕食を終える。食べ終えた食器をヒロが片付けてくれて、それにお礼を言えば穏やかに笑う。
「そういえば、今日の外出は家にでも戻ったんですか?」
唐突ともいえる質問に、志穂は本当のことを答えるべきか躊躇してしまう。もし、ここで志穂が会社を辞めたといえばヒロが責任を感じる可能性もある。折角穏やかに笑うヒロに対して、その笑顔を曇らせることはしたくなかった。だから、それに同意すつつもすぐに話題を変えてしまう。
退院日が決まったことを言えば、すぐにヒロも会話に乗ってきてくれて、迎えに来るというヒロに忙しいから無理しないで欲しいと伝えた。実際、ヒロはここ最近忙しいのか、少しだけその頬が痩けた気がする。穏やかな笑みこそ変わらないけれども、目の下にある隈も隠しきれない。それに気づいてしまうと、これ以上ここに止めておくことはできなかった。
「もしかして、これから仕事?」
「今日はさすがに久住とも相談して上がることにしました。これから年末にかけてまだ忙しい時期は続きますし」
「それなら、家に帰って休んだ方がいいでしょ。早く帰りなさい」
上手い言葉が見つからず、命令口調になってしまって反省するけど、ヒロは全く気にした様子もなく笑っている。
「きちんと休んでますよ。さき志穂さんが寝てる時、一緒になって寝てたくらいですし」
「そうじゃなくて、きちんと家に帰って布団で横になって寝るべきって言ってるの。顔色も余りよくない。私が心配になる」
その言葉で途端に笑みを無くしたヒロは本当に分かりやすい。こんなに分かりやすくて社長が勤まっているのか、心配になるくらいだ。でも、そういう素直さが少しだけ羨ましく思う。
「志穂さんに心配かける訳にはいきませんから、今日はこれで帰ることにします。まだ本調子じゃないんですから、余り無理しないで下さいね」
「大丈夫。病院だと無理しようもないから」
座っていた椅子から立ち上がるヒロを見上げれば、今日はもう会えないことに寂しさを覚える。けれども、そんな気持ちを表に出すこともなく、笑顔でコートを着るヒロを見守る。寂しい顔なんて見せたくないと思ってしまうのは、年上の下らないプライドなのかもしれない。きっちりコートを着込み、鞄を持ったヒロと目を合わせれば、穏やかにヒロが笑う。
「少し仕事が立て込んでいるので、もしかしたら病院で会うのは今日で最後になるかもしれません。けれども、退院の日には必ず迎えに来ますから」
「一人でも大丈夫だから。いざとなれば友達に頼む」
「それは少し複雑というか……退院後のこと、きちんと考えておいて下さいね。メールでも電話でもいいですから」
忘れていた訳ではない。確かに今回の件で、お詫びとして退院後の志穂の面倒を見たいというヒロの気持ちも分からなく無い。けれども、忙しそうなヒロにこれ以上の負担は掛けたくなかった。何より、これ以上深入りすれば戻れないところまで感情が辿り着いてしまう気がする。いや、もしかして既に手遅れという気はしないでもないが、掛けられるブレーキはなるべく掛けておきたい。
「大丈夫、本当に必要ないから」
「ダメ、ですか?」
途端に悲しそうな顔をするヒロに思わず言葉が詰まる。決してそんな顔をさせたい訳ではなくて、でも、そんな顔をされたら困るのも志穂であって非常に納得がいかない。けれども、楽しさと離れる時の辛さを天秤に掛け、尚かつ悲しそうな顔をするヒロの表情を楽しさに上乗せしたら、もうそれ以上志穂に断ることはできなかった。
「買い物」
「えっと?」
「冷蔵庫の中に何も無いから、退院した日に買い物に付き合ってくれるだけでいいから」
「分かりました。お付き合いさせて下さい」
途端に笑顔に戻るヒロに騙された気分になってしまうのは、くるくると変化する表情のせいかもしれない。けれども、それがふりではないことを知っているだけに、志穂としては文句のつけようもない。
「それじゃあ、今日はこれで帰ります。時間があればまた顔を出すかもしれませんので、都合が悪い時はメールを入れて貰えたら助かります」
「大丈夫、もう退院までは大人しくしてるから」
「分かりました。それじゃあ、お休みなさい」
「しっかり休んでね」
それを別れの言葉にして、ヒロは志穂の病室を出て行った。部屋に一人になった志穂は、ベッドの傍らに置いてある松葉杖を手にすると、ゆっくりと窓際まで歩いて行き、ヒロが閉めてくれたカーテンをわずかに開く。眼下には病院の出入り口があり、夜間でない限りはそこから出入りすることになっている。しばらく出入り口を眺めていれば、ヒロが病院の建物から出てきて真っ直ぐに通りへ向かって歩いて行く。
けれども、不意に足を止めたヒロはこちらへ振り返ると、少し驚いた顔をしてから柔和で見ているだけで温まるような笑顔を浮かべると小さく手を振った。それに手を振り返し、ヒロは時折振り返りながらも最後に通りに出て曲がる間際に、もう一度手を振ると病院の塀に隠れてその姿を消した。
ヒロが見えなくなってしまうと志穂は小さく溜息をついて空を見上げる。空にはいくつかの星があるけれども、勉強不足な志穂はそれが何の星かは分からない。ヒロと出会ったあの時、春の星は随分と覚えたけれども、冬の星についてはまだまだ勉強不足だ。
ずっと、ヒロと一緒に星を眺められたらいい。そう思うけれども、ヒロの立場を考えれば、それは酷く難しいことのように思えた。そして、辞表を出した志穂はこれからどうするべきなのか本気で考えないといけない。まずは怪我を治すことが先決ではあるけれども、人間霞を食べて生きていける訳でもない。
今回の入院費も保険がきいているからどうにかなっているものの、相変わらず志穂を轢いた車は見つかっていない。一応、念のためということで個室に入院したけれども、どうにも見当違いだったのかもしれない。
色々と問題が残るままベッドに戻った志穂は、寝転がり白い天井を眺めながら小さく溜息をつく。そろそろ、こうして溜息をつく時間は終わりにしたいと願っていた。

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