Act.08:十一月の十五夜月

三日間、宏哉は部屋に籠もり仕事をこなすと縦井が早く上がるといっていたその日、仕事も手につかず落ち着かない気分で部屋の中にいた。結局、夕方になる頃にはどうにもならず、ごまかすようにコーヒーを淹れる。いつもならインスタントコーヒーで済ますところ、滅多に使うことのないサイフォンを取り出すとフラスコに水を入れる。
棚からコーヒーを取り出しロートに入れるとフラスコに差し込みアルコールランプで熱していく。ゆっくりと上がるお湯を見ていると、少しだけ気持ちが落ち着いてきたような気がする。気がするだけで、もしかしたら全然落ち着いていないのかもしれない。見ているだけでは暇だけど、今は何をしてもその気になれないと割り切ると、そのままぼんやりとロートに上がってくるお湯を眺める。
全てのお湯が上がりきる直前、チャイムが鳴り玄関の扉を開ければ珍しく情けない顔をした久住がそこにいた。
「入れて」
「どうぞ」
恐らく久住も一人でいると落ち着かない気分だったに違いない。興信所に頼んでしまった以上、今、宏哉や久住にできることは何もない。ちょうど淹れたてのコーヒーをカップに入れると、ソファに座る久住へと渡した。こうして久住が宏哉の部屋に来ることは珍しくなく、お互いに何となく定位置が決まっている。
「悪かった、突然押しかけて」
「いつものことだし」
「……何か連絡待ちってのは落ち着かなくてな」
「気持ち分かるよ。落ち着かなくてコーヒー淹れたくらいだし」
宏哉の言葉で久住はカップに口をつけるとインスタントでなくことがすぐに分かったのか苦笑すると、大きく溜息をついた。
「正直、縦井じゃなければいいと思ってる」
「同じ気持ちだよ。だから何の対策も考えていないし、考えられないんだと思う」
それからお互いに無言のままコーヒーを飲みながら、宏哉は部屋の片隅に積まれたままになっていた文庫本を手に取り、久住は鞄の中から仕事のファイルを取り出す。宏哉自身、文庫本の字面は追っているけど全く頭に入ってこない。ソファに座る久住を見たけれども、やっぱり同じように頭に入らないのか、何度も前のページに戻り読み返している。
そしてお互いに視線を合わせると乾いた笑いを漏らしてから、大きく溜息をついた。これこそ、まさに生殺しという状態なのかもしれない。久住が来てから三十分ほど経ち、携帯が鳴り出した。慌てて携帯を取り出したけれども、どうやら鳴っていたのは久住の携帯だったらしく画面を確認した途端に久住の表情が強張ったものに変化する。
「はい、久住です……はい、えぇ……はい…………そうですか。分かりました。引き続き調査をお願いします」
トーンの下がる声と久住の表情から何の電話で、どういう結果だったのかすぐに読み取れた。
「……会ったんだ。柿沼氏と」
「あぁ」
それ以降お互いの間に沈黙が落ちるけど、そのままという訳にもいかない。だからこそ、重い空気を振り切るように宏哉が声を掛けた。
「これからどうする予定?」
「明日、証拠を縦井に突きつける。明日朝一には写真を渡して貰えるからな。あー、くそっ、次の秘書見つけなくちゃならないじゃねーか!」
吐き捨てた言葉とその表情は全く逆のもので、久住の顔には苛立ちよりも悔しさと、悲しさが入り交じったもので、そこはかとなく哀愁すら漂って見える。
「理由、明日きちんと聞こうな」
「あぁ、絶対に問い詰めてやる」
力強い言葉とは裏腹に泣きそうに見えて、宏哉は久住から視線を逸らして窓の外へと向けた。カーテンの閉まっていない窓の外は既に夜の帳が降りている。結局、望んでいない結果が出てしまい落胆も大きい。宏哉ですら落胆するのだから、久住はもっと複雑な心境に違いない。
折角淹れた美味しいコーヒーもすっかり味が落ちてしまった気がして、宏哉は手にしていたカップをテーブルに置くと、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けて半ダースの缶ビールを取り出すとリビングに戻りテーブルの上に置いた。
「飲む?」
「車だぞ」
「泊まればいいよ。明日になれば嫌でも現実を突きつけられるから、今日くらい飲んで忘れたらいいと思うよ」
「忘れられるか」
やってられないと言わんばかりの口調で久住は吐き捨てながらも、しっかりと手は缶ビールを包んでいたボール紙を剥がしていく。一層、酔っぱらって記憶がなくなるくらいまで飲めれば良かったけれども、土曜日でも明日は仕事が待っている。何より、こんな時に飲んでもあっさり酔えるとは到底思えなかった。
お互いに会話することなく一缶ずつ開けたところで、ぼやくように久住が話し掛けてきた。
「志穂さんに謝らないといけないな。でも、俺は社長としてどういう形で償えばいいのか分からない。金か? でも、そういう問題でも無い気がする」
「それは難しい問題だね。志穂さんの性格だと本人に言えば、過ぎたことだからもういいとか言われそうだし」
「そういうタイプなのか……まいったな。志穂さんには本当に悪いことをした」
確かに志穂に対して、サークルファイブの一員として宏哉自身も謝罪をしなければならない。報告はすべきだと自分でも思う。ただ、どんな言葉で何と言えばいいのか分からない。
「どちらにしても、明日、縦井と檜垣を呼び出して話し合うしかないと思う。志穂さんとの話しはそれからかな」
「どっちにしろ気の重い話しだね」
ぽつぽつと今までのことを話し、縦井がどれだけ自分たちのために動いてくれていたのかをお互いに確認しあう。不満だった点は何だったのか、色々と上げてみたけれども本人がいない状況で理解できる筈もない。
結局、久住は三本缶ビールを空けたところで代行を呼んで自宅へと戻った。そして残された久住はリビングの床に転がると天井を見上げる。傍にいた久住にも分からない縦井の不満、そして少し離れたところからみていた宏哉にも分からない不満、それを導きだすだけの材料は何も無い。
ずっと三人でサークルファイブという会社をやっていくのだとばかり思っていたけれども、どうにもならない現実が目の前に横たわる。恐らく、久住は縦井の処遇を不問にすることはない。そうでなければ、協力して貰った加納や被害にあった志穂に申し訳が立たない。
ただ、サークルファイブとして縦井を失うことはかなりの痛手を伴うことだった。残り一ヶ月と少し、それは宏哉にとっても久住にとっても厳しい一ヶ月になることは目に見えるようだった。
そして身近なところにいた縦井が起こした盗作騒動を聞いて、果たして志穂はどう思うのだろうか。罵声を浴びせてくれるならまだいい。けれども、志穂はとてもそういうタイプには見えない。
起き上がるのも面倒で、そのまま床を転がりながら窓際へと近づけば、頂点に近づく満月が窓の外に見えた。ひんやりとした冬の空気の中で、月はまさに輝くほど白く、鮮やかに闇を照らしていた。けれども、眩しさはなく、落ち着いた光を地上へと届けてくれる。
志穂のイメージはどちらかといえば月よりも太陽というイメージの方が強い。それなのに、反射的に月を見ると志穂の顔を思い出すのは、それだけ月に導かれるかのごとく月のある日に志穂と会っているからなのかもしれない。
縦井の件があり自分たちが悪いと分かっていても、どうしても志穂を諦めることはできそうにない。それなら身を引くべきかもしれないとも思ったけれども、逃げ出すことなく宏哉の言葉を受け入れてくれた志穂の気持ちを考えたら、ここで逃げ出すようなこともできない。八方ふさがりな気持ちで目を閉じると、部屋には時計以外の音は何もなくなる。
ただ好きになっただけなのに、どうしてこんなことになったのか。今さらそれを考えたところで時が戻る訳でもない。ただ、志穂と会えたことを後悔しているか、というとそんなことはない。
今は志穂と会って話しがしたかった。今回の盗作の件もそうだけど、それ以外にも色々なことを知りたいと思うし、知って欲しいとも思う。痛々しいまでの包帯姿を思い出し、そろそろ手の怪我は治ったのか、退院はいつなのか、色々と聞きたいこともある。
大きく溜息をつくと、明日に備えるべく立ち上がり、風呂に入るとその日はすぐに眠ってしまう。
そして、明けて翌日、宏哉は土曜日にも関わらずスーツ姿で社長室にいた。宏哉の隣には久住、そして久住の正面には縦井が座り、どことなく緊張した空気がそこにはあった。
「まず、これがどういうことだか説明して欲しい」
久住がテーブルの上に置いた茶封筒を縦井は綺麗な指先で受け取ると、それを開いた。中には数枚の写真が入っていて、そこには縦井と柿沼が会話を交わすところが映されている。その全ての写真を見た縦井は、茶封筒に写真を戻してからようやく久住と視線を合わせる。
「私、ですね」
「どうして盗作なんかした」
「別に盗作を示唆したつもりはありません。企画書は柿沼に押し付けられました。どこか違う会社に売れば金になると言われて。柿沼自身、ライバルの企画書を手に入れたのはいいけれども、自分の手元には置いておきたくなかったのだと思います。すぐに企画書のことなど忘れていたのですが、気づけば机の上から無くなっていました」
「何だそれは」
「文字通り、消えました。茶封筒に入れて私の机の上に置いてありました」
「……檜垣連れて来い」
その言葉で縦井は立ち上がると、社長室の受話器を取ると短く会話を交わして電話を切った。振り返った縦井は相変わらず無表情で、何を考えているのかよく分からない。そんな縦井に宏哉は問い掛けてみた。
「檜垣の企画が柿沼が持ち込んだものだと気づいていたんではありませんか?」
「気づきました」
「どうしてその時点で止めなかったんですか? 盗作を出してしまえば、うちは多大な被害を被ります。縦井さんはそれを狙っていたんですか?」
「そんなことはありません……ただ、どうでもいいと思ったんです」
「どうでもいいって……」
ゲーム会社にとって企画がどれだけ大切な物か、縦井にも分かっている筈だ。それなのにどうでもいいという発言に、問い掛けた宏哉の方が呆然としてしまう。
「実際、サイドビジュアルから何かクレームがあったんですか?」
「……ありませんけれど」
「それなら問題ありませんよ」
「それを運用すれば罪になることくらい分かるでしょ! なんで平然としていられるんですか!」
思わず怒鳴りつけてしまい、慌てて口を噤むけれども酷く気まずい空気が流れている。正直、今の発言は会社の人間としてよりも、一個人として発言しまったこともあり体裁が悪い。ただ、志穂の気持ち、そして、それを生み出す時の苦労を考えたらどうしても聞き逃すことができなかった。
奇妙に静まりかえった空間にノックの音が響き、我に返ったように久住が返事をすれば、全く空気を読まずに笑顔で檜垣が部屋へと入ってきた。
「あの、何かお呼びでしょうか」
まさに笑顔満面といった様子の檜垣は、今回の新作で随分と社内で名を上げている。そのことで褒められると思っているのか、その笑みは底抜けに明るい。気持ちが落ち着かないこともあって宏哉が黙っていれば、こちらを僅かに伺ってから久住が檜垣に声を掛けた。
「今回の新作ゲームの企画、縦井の机から盗んだものだな」
途端に檜垣の笑顔が強張ったのが分かる。けれども、檜垣はそこで笑顔を崩すことはない。
「何のことですか。あれは俺が」
「あの企画はサイドビジュアル社のものだ。まだ初期稿だったが、サイドビジュアルの人間に確認を取った」
さすがにそれを聞いて檜垣の顔色が変わる。サイドビジュアルといえば、うちよりもずっと規模の大きな会社であり、業界内の人間であれば知らない者はいない。
「あれは、俺が考えたものです。偶然の一致だと」
「そんな訳はない。自分の手も入れず、そのまま丸写し状態だったのに、よくそんなことが言えたな」
「だって、まさかそんな大手の企画がうちにあるなんて思わないじゃないですか! 何で縦井さんが持ってたんですか!」
自分の立場が悪くなったことがようやく理解できたのか、責任の所在を躱そうとして檜垣は縦井へと食ってかかる。けれども、縦井は顔色を変えることなく言い放った。
「ライバル社のクリエイターなんて潰れてしまえばいい、そう思うことはおかしいことですか? あの企画は元々、他社へ売りつけるつもりでした。その先でどう問題になろうと私が知ったことではありません。まさか自社の人間が盗作物に手を出すとは考えもしませんでしたが」
それは先ほどの宏哉の問いかけにも答えた形でもあり、平然と言ってのける縦井に戦慄すら覚えた。
会社の立場から言えば、一概に縦井の言葉を切り捨てる訳にはいかない。実際、この業界は足の引っ張り合いが平然と行われている。いや、会社というものはそういう暗部が確かにある。それを割り切れるか、割り切れないかは人によるとしかいいようがない。
人としては縦井の考えに嫌悪を示すが、会社の上層部にいる立場としては、そういうことも考えられることでもあった。それでも、宏哉にとってはどうしても受け入れがたい考え方で、思考の気持ち悪さに酔いそうになる。
「あ……あんたがあんな企画を机に投げたままにしてなかったら、俺は盗作なんてしなかった!」
叫ぶ檜垣への視線はつい冷たいものになってしまう。檜垣の言葉は既に詭弁にすらなっていない。
「檜垣、今日はもう帰れ。しばらく謹慎してろ。追って処遇を連絡する」
「俺は悪くない! あそこに企画が無ければ」
「帰れと言ってる!」
まだ言い募ろうとする檜垣の声に被せるように久住が怒鳴りつければ、檜垣は言葉を止めるとその表情から全ての感情が抜け落ち、顔色すら無くしている。
「家へ帰れ。一週間以内に連絡する。プロジェクトは一時凍結する」
それだけ言うと、久住は内線電話を掛けて、プロジェクトの一時凍結を伝えている。淡々とした口調ではあったものの、有無を言わさぬ強さがあり短い電話でそれだけ伝えると受話器を置いた。今頃、現場ではパニックに陥っているに違いない。
呆然と立ち尽くしていた檜垣だったが、もう一度久住に低い声で「帰れ」と言われてフラフラと社長室を出て行った。そして残るのは縦井に対する処遇についてだ。この時点で、既に宏哉には口を出す権利がない。決めるのは、本来社長である久住でしかない。
「俺がいつそんなことを頼んだ? いつ他社の企画潰しを頼んだ」
「自分たちが良いものを作り上げれば認められると思っていましたか? でも、それだけでは会社はやっていけません。他社を貶めることも時には必要です」
「なら逆に聞くが、あの企画がサイドビジュアルのものでなければ、いや、志穂さんのものでなければお前はこんなことをしなかったんじゃないのか? 違うか?」
ここにきて、初めて縦井の顔に動揺が表れる。それでも見せたのは一瞬のことで、すぐにいつものように無表情へと戻ってしまう。
「何のことでしょうか」
「……お前も今日は帰れ。一週間謹慎。その間に処遇を考える」
「辞めさせるのですか? 私を?」
「それを考えると言っているんだ。帰れ」
縦井は涼しげな顔で一礼すると、いつもの無表情でそのまま社長室を出て行った。残された久住は疲れたようにソファに座り込む。そして、宏哉自身も疲れて久住の向かいにあるソファへと座り込んだ。
「加納さんに連絡入れないといけないな」
ぼそりと呟いた久住だったが、今は何もする気が起きないのか完全にぐったりとソファに身体を預けている。それは宏哉も同じで、今すぐ加納に連絡する気にはなれずにいた。ただ、いずれにしろ連絡はしなければいけないことは分かっていたけれども、動く気にはなれない。
「こういう業界だから俺は良い物が作れたら、それを認められると思っていた。他社を出し抜きたい気持ちはあったが、足を引っ張りたいとは思っていない。それは考えが甘いのか?」
「どうだろう、分からない。縦井が言っていることを全面的に否定はできないのかもしれない。久住の会社なんだから、久住のやり方でいいと思うよ。そんな久住だからこうしてここで社長なんてやってるんだし。ただ、一つ言うなら個人的には縦井の言ったことに同意はしたくない」
「あぁ、分かる……ヒロはどうして縦井がああいう行動に出たか分かるか?」
「会社のためだろ。他に何かあるのか?」
「いや、分からないならいい」
それはどういう意味なのだろうか。まだ自分には分からない何かが隠れているということなのか問い掛けようとしたけれども、久住が携帯を取り出したところで出鼻をくじかれた形になってしまう。相手が出たのか話し出した言葉の端々から、相手が加納だと分かる。しばらく会話をしていた久住だったが、待ち合わせの時間を決めて、そこで電話を切った。
「今晩七時、志穂さんの病室で今回の顛末を報告することになった。志穂さんにも謝罪しなければならないから、丁度良かったのかもしれない」
「そうかもしれない」
果たしてこんな馬鹿げたことに巻き込まれた志穂は、この話しを聞いてどう考えるのか想像するだけで志穂との距離が遠くなる気がした。社長室で二人、精神的な疲れを背負ってソファから立ち上がることはしばらくできなかった。
* * *
夜、約束した七時に志穂の病室をノックすれば、中から返事が聞こえた。久しぶりに聞いた志穂の声は短い返事の中にも緊張してるのが分かるくらい固いもので、扉を開けて入ればそこには志穂と、ベッドの傍らにある椅子へ腰掛けた加納がいた。
加納は立ち上がり一礼すると、こちらも久住と共に頭を下げて挨拶をしてからベッドに寝ている志穂を挟んで宏哉は先日あったことを社長としての立場で報告をしていく。こちらで手配した興信所の証拠写真も一部志穂へ手渡し、久住と相談して決めた通り、裁判を起こすならそれで構わない旨も伝えた。
志穂も加納も黙ったまま報告を聞いていたが、報告が終わった時には加納にはお礼を言われた。そして志穂は複雑な表情をしたまま手元にある柿沼と縦井の写真を見ている。今現在、志穂がどういう心境でいるのか、それを考えると辛いものがある。
「それで、サークルファイブとしては新作ゲームどうするつもりなんだ?」
「今回関わった二人を解雇することに決めたので、プロジェクトも現在凍結状態です」
「でも、会社としてはそのままって訳にもいかんだろ」
「正直迷いました。けれども、うちの人間が関わっている以上、あれをそのまま世に出す訳にはいきません。少なくとも、あれを企画したのは志穂さんであって、うちの社の人間ではありませんから。それに、現時点ではそういう形でしか志穂さんに謝罪できません。それとも、志穂さんはあの企画を言い値で買い取ると言えば売ってくれますか?」
俯いたまま何も言わない志穂だったけれども、その質問に顔を上げると、ようやく目を合わせて首を横に振った。
「売れません」
「そう言うと思ってました。今現在、志穂さんにできることは謝罪して、凍結するくらいしかできません。申し訳無い。何か要望がありましたらうちとしてはできる限りのことをしますけれども」
「……今は、なにも」
「後ほど、何か思いついた時には言って下さい。それから、これを」
そう言って宏哉が差し出したのはボイスレコーダーだった。仕掛けていたのは久住で、後から内容を確認して縦井が柿沼から押し付けられたと言っていた件以外は全て消してあるが、これだけでも充分証拠になるに違いない。
「柿沼が縦井に企画を渡したという証拠音声が入っています。志穂さんが動くために効力を発揮すると思います」
さすがにここまで出てくるとは予想していなかったのか、志穂は驚いた顔で見上げてくる。それからゆっくりと笑みへと変化させた。
「ありがとう」
「これくらいしか出来ることがなくてすみません」
「これだけでも充分」
久しぶりに見せてくれた志穂の笑顔は、宏哉の心を穏やかにさせてくれる。ささくれ立っていた心が自分でも落ち着いてくるのが分かるだけに、自然と笑みを浮かべていた。
「榛名、取りあえず柿沼の件についてはまた明日にでも相談する。俺も奥さん待ってるから今日は帰るぞ」
「あぁ、それでしたら駅まで送りますよ」
「そうですか? それでしたらお願いします」
そんな会話を交わす久住と加納に、慌てて宏哉も帰ろうとすれば久住に肩を押された。
「きちんと話しをしとけ。うちもこれから忙しくなるしな」
そう言って久住と加納は意味深な笑みを浮かべて病室を早々に出て行ってしまう。残された宏哉は微妙に居心地の悪い思いで志穂を振り返れば、声を立てず肩を震わせて笑っている志穂を見ることになってしまう。
「何で笑ってるんですか?」
「ヒロを見ているとどっちが社長か分からなくなる」
それはある意味真実を言い当てていて、言葉に詰まれば志穂はようやく笑いが収まったのか最後に大きく溜息をついた。
「本当にありがとう。これからどうするのか、加納さんと相談して決めていく。色々揃えてくれた物は絶対に役に立つから」
「そう言って貰えると嬉しいです。でも、本当にすみませんでした」
「別にいいから、謝らなくても。私だってヒロのこと疑ってたし……ごめん」
「いえ、今回は仕方なかったと思います」
実際に、これだけのことが起これば立場的に疑われても仕方ないと思える。もしも逆の立場であれば宏哉だって志穂を疑ったに違いない。ただ、それでもこうして普通に会話を交わせることが嬉しいのは事実だった。
「退院の予定はいつなんですか?」
「一応、来月頭には退院できると思う。しばらくはリハビリとかで病院には通わないといけないけど」
「退院の日、迎えに来てもいいですか?」
「そんなことまでしなくていいから」
きっぱりと断られてしまい、宏哉としてはそれ以上言い募ることもできない。けれども、心配していたこともある。
「志穂さん、一人暮らしですよね。退院後、どうするつもりですか?」
「別に普通に家に帰るけど」
「実家に?」
「実家には帰らないわよ。遠くて面倒だし、移動だけでも大変だから」
「でも、しばらくは松葉杖生活で大変じゃありませんか? もしよければ、しばらくの間、お世話させて貰えませんか。その、お詫びも兼ねて。家事はばっちりできますよ」
断られるかもしれない可能性は最初から考えていた。けれども、何かできたらいいと思っていたから言ってみたけど、思いの外、志穂は真剣に悩んでしまい宏哉としては慌ててしまう。
「別に今すぐでなくても構いませんから。退院の時までに決めておいてくれたら嬉しいです」
実際、何かしらの形でお詫びをしたかったのは確かだけど、どちらかといえば志穂の近くにいたいという邪な気持ちもある。現状でこじれてしまっている以上、無理強いするようなことだけはしたくない。
「退院した後のことなんて全く考えてなかった。分かった、退院までには考えておくから」
そう言って穏やかに笑う志穂に、宏哉としては心底癒される気持ちだった。それからはお見舞いとして持ってきたケーキを二人で食べて、残りは冷蔵庫に片付けると、使った皿やフォークも洗ってから小さなサイドボードに片付けて、その日は志穂の病室を後にした。
翌日から縦井がいないことで起こるしわ寄せ業務に奔走させられ、それでも時間が取れる時には志穂の病室へと顔を出した。結局、久住は志穂の所へ行った翌日には縦井と檜垣へ連絡を入れて一週間後に解雇になることを伝えた。電話口から聞こえる檜垣の泣き言とは対照的に、縦井は最初から分かっていたかのように淡々としたものだったらしい。
そして、人選を重ねて新たな秘書が着任した時には既に十二月に入ろうとしていた。檜垣のプロジェクトが凍結になったからといって他の業務が全く無い訳ではない。社長という立場と、本業をこなしながら年末ということもあり日々忙殺されていた。
そんな中で初めて志穂から連絡があったのは退院すると聞いていた四日前のことだった。初めての志穂からの電話に少し鼓動が早くなるのを感じながら志穂の電話を受ける。その声は、最初の頃にあった時のように強い意志を持ったもので、明日は外出するから夕方にならないと病院に戻らないということを教えてくれる。どこか気負いすら感じる声に、ようやく志穂が復活するために動き出す決心をしたのだと分かった。だから、明日は夜には病室へ顔を出す約束をして電話を切った。
まだ縦井がいなくなった穴を埋めるには忙しいけれども、来年明けて社長の座を久住に返して、それで全てが終わる。だからこそ、この時点で既に肩の荷が降りた気でいた。

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