Act.06-2:十一月の上弦の月-2

翌日、ジリジリとした気分で社長室の椅子に腰掛けていれば、机の上にある電話が鳴る。時計を見れば丁度七時で、ソファに座る久住と視線を合わせてから受話器を手にした。受付から回された電話で加納と名乗ったということで、受付に取り次ぎを頼むと外線三番だと言われた。言われるままに宏哉は外線三番のボタンを押せば、外にいるらしく喧噪が聞こえる。
「お電話代わりました、久保寺です」
「サイドビジュアルの加納です。これから指定する場所へ来て貰うことはできますか?」
先日の不躾な態度とは違い、随分と丁寧な言葉遣いであることに宏哉はホッとした。余り頭に血が上った状態では話せる話しもできなくなる。
「分かりました。事が事なのでこちらからこちらからも一人、上の人間を連れて行っても構わないでしょうか。うちの副社長になります」
電話を聞いていた縦井が慌てたように身動ぎしたが、久住がそれを手で制す。秘書である縦井は元々久住の秘書であって、宏哉の秘書ではない。だから、一人で出掛けるという久住に慌てるのも分かる。宏哉が社にいる時は基本的に縦井は宏哉の傍にいるが、それは社長室の扉隔てて隣に久住がいるからこそ宏哉の近くにいられるのかもしれない。宏哉の中ではいつも久住の背後に縦井がいるというのが常だったから、縦井が焦る気持ちも分からなくはない。けれども、さすがに三人も行けば加納に警戒され、きちんと話しがつけられなくなる可能性もある。
「それは構わないです。スプレンダーホテルの五二六号室になります。先に入っていますのでお待ちしています。それでは失礼致します」
用件だけ伝える電話は短い会話で切れた。けれども、今はそれ以上の会話を必要とはしていない。
「私も一緒に」
「無理だ。向こうは加納一人なのに、これ以上人が増えたら加納が不審に思う」
「ですが」
「お前はここで待機。後で連絡入れる。ヒロ、行くぞ」
電話をスピーカーにしてあったことで久住にも十分に会話は聞こえていたらしく、すぐにソファに置いてあるコートを身につける。宏哉もポールハンガーからコートを手に取り身につけると、鞄を持って何か言いたげな縦井に同情しながらも足早にエレベーターで地下まで降りる。鍵を開けた車の助手席に収まると、久住はシートベルトをつけながら車を発進させた。
スプレンダーホテルはここから駅で三つほどの場所で、繁華街からは離れたそれなりに高級なホテルだ。宏哉は足を踏み入れたことは無いけれども、そこが俗に言う高級ホテルと言われる場所であることは分かる。
「何でスプレンダーホテルなんて指定してきたんだろう」
「どちらの会社の人間にも見られたくないんだろ。それよりも、後ろの鞄に入ってる書類を読んでおいてくれ。明日、一件インタビューが入った」
言われて久住の鞄を後ろの席から引き寄せると、遠慮無く鞄を開けてファイリングされた書類を取り出した。暇潰しで書類を渡す辺りは仕事の虫である久住らしいとも言える。けれども、確かに暇ではあるのでファイルケースから書類を取り出すと、それに目を通すよりも先に宏哉は外を視線を向けた。すっかり暗くなった空には半分だった月は少しだけ丸みを帯びている。
正直、宏哉も今日は散々な気分だった。午前中は自分の仕事が手につかず、午後になって久住に社へ呼び出され縦井からの報告を聞いた。けれども、檜垣とサイドビジュアルの人間に繋がりは全く見られなかったという報告で、こちら側としては全く進展は無い。けれども、向こうから指定してきたくらいだから、加納は何かしらの証拠があるに違いない。
正直、そんな事実が無ければいいと思っていた。加納の出任せや誤解であれば、想像した志穂のダメージは随分少ないものであり、自分への感情が少しでも和らぐのではないかと狡いことを考えた。そんな自分が厭らしくて気分も悪い。
色々考えながら書類に目を通したせいで、内容は殆ど頭に入ってきていない。そのことに反省しながらも、久住と共にホテルの前で車を降りてドアマンに鍵を預けると、二人並んでホテルへと足を踏み入れた。立派な広いロビーにも関わらず、久住は迷うことなくエレベーターに近づくと上階へのボタンを押す。
「来たことがあるのか?」
「ここの完成披露パーティに親父に連れ出されてな」
もの凄く嫌そうな顔をする久住に、宏哉はそれ以上何かを問うことはしなかった。元々、久住と父親の確執は深く、だからこそこうして宏哉が雇われ社長などということをしていたりする。久住が社長として顔を出せないのは、まだ現時点で父親に自分の存在が見つかっては困るからだと長い付き合いで知っている。
エレベーターは五階で止まると広いエレベーターホールには大きな壺に生け花が飾られていた。華やかな花々は、ホテルの高級感を否応なく高めるもので、ボルドー色のカーペットと相まって素晴らしい配置にある。しばらく廊下を歩いていけば、加納が指定した部屋の前に立つ。お互いに視線を合わせると、久住が目で促してきたこともあり宏哉は扉を横に取り付けられた呼び出しベルを鳴らした。
数秒の後に扉が開けられ、二人で辺りを確認してから部屋に足を踏み入れた。中はウォールナットで作られた木製家具で揃い、ベッド、テレビボードなどが壁際に配置されている。その中で異色だったのは部屋の中央に配置された四人掛けのテーブルセットだった。会議机というよりかは、どちらかというとダイニングテーブルのようなそれは、どう見てもこの部屋に不釣り合いな物だと分かる。
「そちらへどうぞ」
手で示されてコートを脱いで部屋の隅に置かれているポールハンガーに掛けると、加納に勧められた椅子に腰掛けた。
「コーヒーで宜しいですか?」
「お願い致します」
手短に伝えればすぐに加納は内線電話を手にするとコーヒーを三つ頼み電話を切った。加納はベッドに置いてあった鞄からノートパソコンと書類ケースを取り出すとそれをテーブルの上に置き、自らも椅子に腰掛けた。
お互いの間に会話は無く、ファイルケースから加納はダブルクリップで留められた書類を二部取り出すと、それを宏哉と久住の前に置いた。
「まず、それが榛名の書いた最終稿の企画です。既に無くなったプロジェクトですしどうぞ」
それだけ言うと加納は黙ってしまい、宏哉は久住と視線を合わせて小さく頷いてからクリップに止められた書類に目を通していく。その間にコーヒーが運ばれてきたけれども、それに口をつけることなく書類を捲っていく。確かに加納が言うようにゲーム内容としてはかなり似ていたけれども、まだこれなら似ている範疇内で盗まれたというのには難しい。
読み終えて書類をテーブルに置くと、隣に座る久住もどうやら似た思いらしく小さく溜息をつくのが見えた。こちらの反応を見たのか、先ほどよりも薄めの書類を再び目の前に置かれた。
「こちらはまだ榛名の第七稿目の企画書。この企画書が書かれたのは六月五日」
加納はメモリをパソコンに差し込むとノートパソコンをこちらへと向けた。画面に表示されているのはファイル一覧で、確かに加納の言う第七稿は六月五日だと表示されている。けれども、その一週間後には第八稿があり、見える範囲でファイルは五十稿近く作られていた。それだけゲームプランナーは頭を悩ませて最終稿を作り上げること宏哉は初めて知った。
「実はその七稿を上げた数日後、うちのプロジェクト内でデータが消える騒ぎが起きた。社外へのセキュリティーはしっかりしていることから、社内の人間がデータを消去したのは確実だ。それ以前に、榛名の企画は時折社内で盗まれることもあって、データが消えてからはこのメモリにデータ類は全て保存するように伝えた。とにかく、それに目を通して欲しい」
社内で企画を盗まれるということに宏哉としては驚かされたが、それを表情に出すような失敗はしない。先ほど見せられた企画書のことを考えたら、加納が盗まれたと思っているだけのようにも思えて、少し軽い気持ちながらも目の前に置かれた企画書を手にする。
宏哉は手に取った先ほどよりも薄い企画書を見ていくと、確かに先ほどのものよりも荒削りなものではあったが、それは間違いなくサークルファイブの新作、檜垣の出してきた企画と瓜二つとも言えるものだった。正直、前半部分に目を通しただけでも、ほぼ檜垣が上げてきた企画書と同じものだった。多少、書式が変わってはいるから違いはあるものの、さすがにこれを違うと突っぱねることはできない。
それは隣に座る久住も気づいたのか、途中から紙を捲ることもせずテーブルの上に書類を置くと溜息をついた。
「一つお聞きしたいのですが」
口を開いたのは久住だった。加納の視線がゆっくりと久住へと移ると、久住は殊更ゆっくりと、はっきり聞こえるように加納へと語りかける。
「サイドビジュアル内における志穂さん、失礼、榛名さんの地位というのはどういうものですか?」
「……身内のことで恥ずかしながら、基本的に彼女の地位は低いです。いえ、うちにいる女性クリエイターは彼女に限らず地位が低い。それは上が女はいずれ結婚して会社を辞めると考えているからです」
「そういうことでしたら、サイドビジュアル側から会社として何ら動きがないことも納得できます。けれども、こうして内情暴露ともいえる話しをするあなたの目的は何ですか? そして、彼女の企画を社内で盗んでいるのは誰ですか?」
その答えに加納は口を開くことはない。その表情からも葛藤が伺え、言うべきか言わざるべきか悩んでいる様子だった。けれども、そんな中で何気なく久住とかわした会話を思い出す。
「柿沼氏……ですか?」
宏哉の言葉に加納は驚いたように目を見開くと、大きく溜息を吐き出した。それは正解を表しているようにしか見えない。
「恐らく……今回の件も柿沼でしょう。榛名の企画が柿沼に渡り、そこからどういう経緯かで貴社に渡った。恐らく、あなたたちの反応からも、榛名の企画は今回の新作と同じだったんじゃありませんか?」
「これは対会社として話しをしています?」
「いえ、個人的な話しです。こういうことが業界内にまかり通れば、いずれプランナーのなり手はいなくなる。違いますか?」
しばらく腕組みしていた久住は加納の問いに答えることはない。ただ、重い沈黙だけがこの場に落ちる。お互いに視線を逸らすことなく、加納も完全に久住だけをその目に映している。そんな張り詰めた空気の中で小さく溜息をついたのは久住だった。
「ほぼ企画書は同じものです。うちがまだ発表していない部分においても同じものです。それ以前に、書式こそ多少違うものの、うちのプランナーが企画書としてあげてきたものと同じといっても過言ではない。……加納さん、あなたの目的は?」
「不穏分子の徹底排除。個人的な話しでもあるし、サークルファイブ側としても同じ意見では?」
「そちらができることは」
「残念ながら個人なので余り動きはとれません。ただ、柿沼の個人情報を差し出すことはできますが」
完全に話しは加納と久住の間で行われていて、宏哉に口を挟む隙はない。柿沼の情報が久住と加納の間で遣り取りされている間に、宏哉はテーブルの上に置かれた書類を改めて手にするとページを捲る。改めてこれを志穂が作ったものだと思えば、感慨深い物がある。所々書きかけの文章もあるが、志穂が試行錯誤している様子がその文章からも伺える。
それなりに情報交換を終えた二人は既にコーヒーを飲んでいて、宏哉もコーヒーを口にしたけど冷めたコーヒーはただ苦みだけを伝えてきて宏哉の味覚には合わない。
「それで榛名さんはいつ復帰予定なのですか?」
世間話程度のつもりだったらしい久住の言葉に、加納は困ったような顔をしてから小さく溜息をついた。
「それが仕事を辞めると言い出して説得している最中です。会社を辞める云々であれば本人の好きにすればいいと思ったんですけど、仕事を辞めると言われるとさすがに勿体ない気がするんですよね。ただ、今回の企画流出やひき逃げと色々続きすぎて榛名も疲れ切ってるみたいで」
「ひき逃げ? 事故じゃないんですか?」
思わず二人の会話に口を挟めば、加納の視線がこちらへと向けられる。昨日のように敵対心も露わということもなく、どちらかといえば同情含みな視線にも受け取れた。
「えぇ、それが前にも同じ車に、同じ場所で当てられたことがあるらしいんですよ。その時には事故というほどでは無かったんですけど、ここを当てられたらしくて」
そう言って加納が指さしたのは右手首で、不意に先日出掛けた志穂の手に包帯が巻かれていたことを思い出す。あの時から既に不穏な空気はあったにも関わらず、それを教えて貰えなかったことが少し辛い。出会ったばかりだから、全てを教えて貰えるとは思えないけれども、あの時、笑っていた志穂の顔が心からのものであればいいと思う。
「警察には」
「勿論、伝えてあります。ただ、社内の件については言っていません。本人に言わないでくれと懇願されて……」
そこで言葉を濁した加納は、一度視線を外してから改めて宏哉に視線を合わせてきた。その真剣な眼差しを受け止めながら、加納が口を開くのを待つ。
「多分、怖いんだと思います。もし、あなたが関わっていたら、そう思うと外部に漏らすようなことはしたくない、ということらしいです」
「そんなこと」
「言いたいことは分かります。けれども、今の榛名は全てにおいて疑心暗鬼になっていて、あなたも疑っています。けれども、もしあなたが関わっている可能性が少しでもあるなら、その確実な証拠は欲しくないらしい」
そこまで言われて加納が言いたいことが分からないほど馬鹿ではない。少なくとも、志穂は宏哉に興味を持っていてくれている。興味どころか、恐らくそれは好意といっても間違えていないに違いない。
そして、加納から話しを聞いて、ようやく病院で志穂が言っていた言葉を今更ながら理解できた。けれども、既に二度も拒否されているだけに、加納の遠回しに伝える志穂の好意を素直に信じることもできずに黙り込んでしまう。
会えるなら会いたいけれども、志穂を傷つけるようなことはもうしたくない。実際、病院で会った時、会いたくないと志穂が言った言葉は今でも思い出すだけで胸が痛くなる。それだけ、あの声は真剣なものだったと分かるからすぐに判断できずにいた。
「せめて、きちんと結果が分かってから志穂さんには会いに行きたいと思います」
「できるだけ早めにお願いします」
深々と頭を下げる加納に、宏哉と久住も頭を下げると、プリントアウトされた企画書は持ち帰ることなく加納が用意した部屋を後にした。ホテルのロビーで車が正面に回ってくるのを待ち、それから久住と共に車へと乗り込んだ。静かな社内で先に口を開いたのは久住だった。
「ヒロ、志穂さんのところへ行ってこい」
どこか諦め混じりの声に慌てて久住を見たけれども、久住は前を向いたままこちらに視線を向けることはない。自分を見ていないけど、その目は恐ろしく真剣なものだった。
「行って、全て言え。全てだ」
恐らく久住は宏哉が本来であれば社長でないことも全て志穂に伝えて構わないと言っているのだと思う。志穂に言い訳くらいはしたい。けれども、約束を反故することはできずに緩く首を横に振った。
「……約束は約束だから。後からきちんと志穂さんには説明するよ」
「後悔することもある」
久住は宏哉がどれだけ前から志穂のことを気にしていたのか知っている。だから分かって言ってくれているのは分かるけれども、久住との約束は残り一ヶ月半となっている。せめてそれまでは約束を守りたかった。
元々、親とうまくいかなかった宏哉は友人である久住の家に転がり込むことが多かった。両親が多忙で家に余り帰ってこない久住の家は居心地も良く、そこで色々なことを学ぶことができた。だからこそ今の自分があるといっても過言ではない。久住が困っている今、久住のことを誰かに言うつもりはないし、自分の立場に関しても他人に言うつもりもない。
それだけ久住に貰った恩は大きなものだし、宏哉の人生を変えるだけの大きなものでもあった。志穂のことは気にならないと言ったら嘘になる。けれども、一ヶ月半という間であれば、まだ間に合う。間に合うと思いたかった。そして、久住との約束は破った時点で久住がどうなるか分からないだけに約束を破るような真似はできなかった。
「しないように一ヶ月半後に努力する」
「……その時には俺も一緒に謝ってやる」
不機嫌そうに言った久住の言葉は照れくささの裏返しだと分かるくらいの付き合いはある。だから、それに対して宏哉は笑いを堪えながらも「頼むな」と一言伝えて空を見上げた。
今すぐにでも志穂の元へ駆けつけたい気持ちは確かにある。けれども、次に彼女へ会う時には、全てが説明できるだけの結果を持って会いたいのも確かだった。今会っても、言い訳のような言葉しか伝えられないに違いない。
もし二年前の自分であれば、自分に言い訳をつけて志穂に会い、逆に傷つけたに違いない。他人から見れば臆病になったと言われるかもしれないけれども、慎重に物事を考えられるようになったのだと思いたい。
会いたい、傍にいたい、という気持ちだけでは上手くいかない時だってある。けれども、もし、今後志穂と会えて傍にいることを許して貰えるのであれば、ずっと傍にいることを決意すると、空に浮かぶ月を見上げて微かに笑みを浮かべた。
てっきり会社へ戻るとばかり思っていたけれども、外の風景は見慣れないもので久住へと顔を向けた。
「どこへ行く気だ?」
けれどもそれに答えることもなく、久住は車を走らせる。それから十五分もしたところで、車を止めるとようやく宏哉の方へと顔を向けた。
「駐車場で待ってる。行ってこい。せめて待ってて欲しいことくらい言ってこい。俺のせいで一生棒に振られたら困るからな」
「大げさだな。大丈夫だよ」
「真剣なら大げさなくらいがいいんだ」
そのまま腕を組んで目を瞑った久住に苦笑しつつも、お礼を言って宏哉は車の扉を開けた。途端に冬の冷たい空気が身体にまとわりつく。面会は八時半までとなっているからかなりギリギリで、足早に入院病棟へ行くとナースステーションで記帳して志穂のいる病室へと向かった。ノックをしたけれども返事はなく、失礼しますと声を掛けてから扉を開ければ、ベッドに横たわった状態で志穂は眠りに落ちていた。
本を読んでいたらしく、ベッドの傍らに指先を挟んだ状態で文庫本が置かれている。頬のガーゼは相変わらず痛々しいもので、傷を負っていない反対側の頬を指の背でゆっくりと撫でる。ピクリと反応したのが分かった。もしかしたら起きているかもしれない。そう思ったけど、頬を撫でた後、ゆっくりと前髪を掻き上げるように撫で梳きながら言葉を零していく。
「志穂さんが好きです。でも、まだ何も分かっていない状況だから説明はできません。必ずどういう経路でうちに志穂さんの企画が持ち込まれたのか調べて、全てが分かったら報告します。そしたら改めて好きだって言わせて下さい」
閉じた志穂の瞼が微かに震えていて、志穂が起きていることは分かった。けれども、それを指摘することもなく、ゆっくりと屈み込むと志穂の唇に自分の唇を重ねた。お互いに少し乾いた唇は、一瞬触れるだけで離れた。けれども、相手の熱は確かに伝わってきて、それだけで宏哉の心は満たされていく。志穂の目尻から涙が零れ落ちて、透明な雫を指先で拭う。
「待っていて下さい。来年には全てを話します」
最後に額に口付けてから寝たふりをする志穂を見下ろして自然と笑みが浮かんだ。起きているけど拒否されない。それは期待していてもいいのだろうか。都合よすぎる考え方かもしれないけれども、宏哉は触れたい欲を耐えて一歩下がる。
「いい夢を……」
その言葉を最後に宏哉は志穂に背を向けると、病室を後にした。本当に一ヶ月半の間、志穂が待っていてくれるかは分からない。それでも、志穂が拒否することなく聞いてくれたことが宏哉にとっては救いでもあったし、希望でもあった。
病院を出て見上げた先には志穂の病室がある。カーテンが閉まった部屋の中に志穂がいることは分かっている。
不意に志穂は退院した後、どうするつもりなのかが気になった。退院したからといってあの足では不便極まりないに違いない。その時に、何か手伝えることがあればいい。そんなことを考えながら病院に背を向けて、久住が待っている駐車場に向かって歩き出す。
志穂に会ったばかりの今は、空を見上げることなく、ただ志穂のことで頭がいっぱいになっていた。

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