Act.06-1:十一月の上弦の月-1

会議が終わり、ぼんやりと社長室の椅子に座り窓の外を眺めていれば、カラフルな車がおもちゃのように渋滞していておもちゃの街に迷い込んだような気分になる。人を寄せ付けないビルの冷たさと、おもちゃみたいなパステル色の車を配置したら少しだけシュールなコントラストになるのかもしれない。そんなことを考えていると、勢いよく頭を叩かれた。
膝に肘をついて顎を乗せていたけど、その衝撃に顔を上げればそこに立つのは友人であり、副社長という地位にある久住翔だった。
「お前、ちょっと最近腑抜け面しすぎじゃねーの」
「何かやる気になれないし、色々と」
「ふざけるな。会議の時にぽやんと顔しやがって、元々ふやけた奴だけど、いつもならもう少しキリッとしたふりしただろ」
自分でも腑抜けだという自覚はあるけれども、その原因が全て志穂に繋がるためにもうどうしようもない。先日会いに行った時には告白だってしたのに逃げられた。立場を考えればありえる結果だったのに、志穂といる時につい自分がサークルファイブの社長という立場を忘れた。しかも、志穂は自分といたことでサイドビジュアルで微妙な立場に立たされていることも知っている。志穂のことを考えればタイミングの悪さも、考えの浅さにも呆れるしかない。
でも、あの時、見上げた志穂がどこか頼りなげに見えて、どうしても好きだと伝えたくなった。そんな顔をしなくても自分がいるからと言いたくなった。あれはどんな衝動と言えばいいのか自分でも分からない。正直、女性を抱き締めたいなんていう衝動に駆られたのは、志穂だけでもう気持ちはごまかしの利かないところまできていた。
「失恋した時くらい、優しくしてよ」
「志穂さんか? あ、そういえば彼女、事故に遭って入院したらしいぞ」
久住から聞いて宏哉は勢いよく椅子から立ち上がった。
「いつ!」
「五日前だったかな。縦井から聞いていないのか? あいつに伝えておけって言ったのに」
慌てて部屋の片隅にあるポールハンガーからコートを手にしたところで、久住に腕を掴まれて動きを止める。
「もう会議も終わったから好きにしていいだろ」
「……悪い。俺がこんな無茶頼んでるからお前が彼女と上手くいかないことは分かってる。でも、今年中にはケリをつけるからそれまでは……」
「分かってる。言うつもりは無いよ。何かあればきちんと連絡入れるから」
安心させるために腕を掴む久住の腕を軽く数度なだめるように叩くと、ゆっくりと久住の手が離れる。すぐさま扉に向かって歩き出した宏哉の背中に久住が声を掛けてくる。
「北総合病院だ」
教えてくれた久住を振り返ってお礼を言うと、慌てて会社を後にした。通りを挟んだ反対側に花屋があり、可愛いのは嫌いと言っていた志穂の言葉を思い出して、グリーンを基調とした籠アレンジをお願いすると手慣れた様子ですぐに作ってくれる。普段であれば彩り豊かな花を眺めたりするけれども、今は興味を惹かれず店員が作ってくれるアレンジをぼんやりと眺めていた。
五分もしない内にアレンジを作り上げてくれた店員にお礼を伝えてお金を払うと、再び会社の前に戻り客待ちタクシーに乗り込んだ。普段であればタクシーなんて滅多に使わないけれどもとにかく気が急いて、すぐに北総合病院の名前を告げて背もたれに身体を預けた。上げた手でしっかりと整えられた髪を崩せば、いつものように前髪が落ちてきて、さらにネクタイを緩めた途端に溜息が零れた。
元々着慣れないスーツは、どうにも落ち着かない気分にさせられる。それでも、これも最初から約束していたことだから今更文句を言うつもりもない。たかが一ヶ月に一度、一日だけの拘束だからさほど苦痛に感じることもない。
今はとにかく志穂がどんな状況なのかが気になり、ソワソワと落ち着かない気持ちで外を眺めれば、夕暮れ時の藍色の空に上弦の月が浮かんでいる。いつもよりも赤い月の色は知らなければ不吉に思えるかもしれないが、実際、空気中の塵と水分が多いために色が変化して見えるのだと知っている。知っているにも関わらず、余りいい気分になれないのは志穂のことがあるからかもしれない。
月と同じ方向、低い位置ではあるけれども白い輝きを持つフォーマルハウトもあり、それを見ているだけで志穂と公園で空を眺めたあの夜を思い出す。最初に見掛けたのはただの偶然だった。電車から降りる志穂を見て、何気なく降りた駅は駅前こそ賑やかだったけれども、少し歩けば静かな住宅街だった。
さすがに後を追いかけるような真似はできず、初めて見る風景を楽しみながら散歩をしてその日は家に帰った。雑誌で見ていた頃から気になっていたこともあり、時折仕事の合間にふらりとその駅へ立ち寄っては、付近を散策したりすることがあった。偶然会えたら嬉しい、それくらいの気持ちだったところに、公園でビール片手に飲んでいる彼女を見掛けた時には正直度肝を抜かれた。
雑誌でいつも見る彼女はふわふわとした可愛らしい印象で、守ってあげないといけないようなどこか儚げな雰囲気だった。そんな彼女が公園でしかもビールを飲むということが俄に信じがたくて、それこそ見間違いかと思ったくらいだった。
余り女性と縁が無かったこともあり、話し掛けるのにもかなり勇気を振り絞って声を掛ければ、最初こそ不審そうな顔をしていたけれども、話してみれば予想していたよりもずっとしっかりとした人だということは分かった。ゆっくりと話す宏哉を急かすようなこともなく、きちんと話しを聞いてくれる彼女の印象はさらに良いものに変化した。
仕事が仕事だから志穂がいつも同じ時間に現れる筈もなく、それでも仕事の合間にあの公園に足を運んだりもした。彼女と初めて出かけたあの日は本当に有頂天で、緊張もしたし、まさに手に汗を握るくらい余裕なんて無かった。けれども、彼女は笑顔を浮かべてくれて、宏哉から見ても楽しそうな様子に本当に嬉しく思えた。
手を繋ぐ、たったそれだけにことにも、まるで中学生の時に初めて付き合った彼女相手のようにドキドキして落ち着かなかった。振り解かれることもなく、それでも全然平気そうな顔をしていた志穂はそういうことにも慣れていたのかもしれない。実際、あれだけしっかりしていて可愛いのだから恋人の一人や二人いたところで驚きもしない。
あの日から完全に宏哉にとっては志穂は特別な存在で、仕事さえなければそれこそ毎日でもあの公園に偶然を装って通っていたに違いない。けれども、自分の立場が彼女の立場を脅かすのだと知った時、そんなこと考えることもせず浮かれていた自分に愕然とした。
もう会わないと二度も言われている。だから、病院に行っても実際に会えるかどうか分からない。けれども、一体どんな状況なのか、それだけでも知りたかった。
彼女と会うかもしれない時や会社に顔を出す時には外している眼鏡を鞄から取り出すと、少し手の中で遊ばせる。焦茶色とサンドベージュのツートンカラーのセルフレーム眼鏡は、久住から言わせると宏哉には似合わないしダサいと言われたものだった。けれども、もし宏哉が病室に顔を出すことで志穂の立場が悪くなるのであれば、自分の見掛けにこだわっている場合でもない。
手にしていた眼鏡のテンプルを広げると、指先に挟んで耳に掛ける。いまいちと言われる顔で改めて窓の外を眺めていれば、再び沈み掛けた月と対面する。
元々宏哉は月や星というものが好きだった。幾つもの星を覚えて画用紙に夜空を描いて親を呆れさせたことだってある。志穂は月や星に興味が無いといっていたけれども、宏哉の下らない話しを真剣に聞いてくれたことが嬉しかった。
病院前でお金を払ってタクシーを降りると受付で入院病棟について聞き、入院病棟でナースステーションで記帳してから病室を教えて貰った。交通事故で入院ともなれば、かすり傷ということは無いに違いない。病室前で少し悩み深呼吸をしてから手を上げてノックを二回。中から思っていたよりも元気そうな志穂の声が聞こえてきてホッとした。
けれども、扉を開けて視線が合った途端、志穂の笑顔が強張るのが分かった。小さく唇が動いて名前を呼んだことは分かったけれども、その声が耳に届くことはない。
「……入ってもいいですか?」
入り口に立ち尽くしたままで問い掛ければ、少し逡巡した様子を見せたけれども志穂はしっかりと頷いてくれて宏哉は安堵の溜息を零した。ベッドの横にあるサイドテーブルに持ってきたばかりのアレンジを置くと、志穂の手がゆっくりと花に触れる。薄緑色のバラや赤い南天、そして鮮やかな緑の葉などでアレンジされている。
改めて志穂を見れば、片足は固定され吊されているし、頬には大きなガーゼが張られていた。花に触れる指先にも幾つか擦り傷が残り痛々しい姿だった。
カーテンの閉められた窓際には幾つかの花が置かれていて、可愛らしいものから、宏哉が持ってきたようなシックな色合いなものまであり、送り主の志穂に対するイメージが見え隠れする。
「一つ……聞きたいことがある」
その声に志穂へと視線を移せば、花に視線を向けたままの志穂はこちらへ顔を向けることは無い。ただ、ゆっくりと宏哉が持ってきた花を指先で愛でている。
「何ですか?」
「最初から企画を手に入れるつもりだった?」
言われた意味が理解できず、困惑も露わにしたまま志穂を見つめていたけれども、顔を上げた志穂と目が合った瞬間に苦笑された。
「お花ありがとう。でも、もう会いたくない。ヒロを見ると辛いから」
それは切実な響きがあり、宏哉はそれ以上何も言えなくなる。今までにも同じ言葉を言われたけれども、今の言葉ほど胸に痛みを覚える響きは無かった。本気で志穂が会いたくないと思っていることが分かり、宏哉は泣きたい気分で最後に声を掛けた。
「早く元気になって下さい」
どうにかそれだけ声にすると一礼してから病室の扉を開ける。背後を振り返る勇気もないまま部屋の外へ出たところに、壁へ凭れた一人の男が立っていた。不機嫌そうな顔は宏哉と視線が合うなり声を掛けてきた。
「久保寺、だな。少し話しがある、付き合え」
今の宏哉には色々隠さなければならないことも多く、見知らぬ人間についていける立場ではない。だからといって、この場所で出会った人間を無視することもできず、どう見ても年上だろう男に視線を向けた。
「すみませんが、どちら様でしょうか」
「サイドビジュアルの社員で、榛名の同僚でもある加納だ。榛名のことについて幾つか聞きたいことがある」
どうするべきか悩んだ挙げ句、結局志穂の名前につられるようにして加納と共にエレベーターに乗り込んだ。二階で降りた加納に続いて足を向けた場所は病院内にある喫茶店だった。既に八時近いこともあり人もまばらで、その中で加納と共に向かい合わせで腰掛けると、すぐに店員が注文を取りにきて加納と共にコーヒーを頼んだ。
空いていることもあり、コーヒーは一分と待たずにお互いの前に置かれ宏哉はそのカップを手に取った。基本的に宏哉としては砂糖の入ったカフェオレが好きだったりするが、サークルファイブの名前がちらつく時にはブラックコーヒーを飲むようにしている。それはささやかな宏哉なりの切り替えの時間でもあった。
目の前の加納はポケットから無造作に名刺入れを取り出すと、名刺を一枚テーブルの上に置いた。サイドビジュアルの名刺に加納公一という名前と肩書きには開発リーダーとなっていた。宏哉も名刺入れを取りだそうとしたけれども、それは軽く手を上げて止められた。恐らく自分の身分を証明するためだけに名刺を差し出してきたことが分かり、宏哉は素直にその名刺を受け取った。
「それで、お話しというのは何でしょう」
「新作ゲームの記事を読んだ」
唐突とも言える言葉を訝しく思いながらも礼を言えば、加納は侮蔑したような態度で足を組み直した。確かにサークルファイブとサイドビジュアルはゲーム業界ではライバルだから、多少突っかかられてもおかしくはない。だからといって、ここまで蔑まれる謂われはない。例え雇われ社長だとしても、さすがに面白いものではない。だからといって、ここで宏哉が突っかかる訳にもいかない。
「感想を伝えるために私へ声を掛けたのですか?」
できる限りの無表情で問い掛ければ、途端に顔を歪めた加納は一気にテーブルに身を乗り出してきた。
「それは余裕か、ふりなのか、知らないのか、どれだ」
「何のことでしょう」
「しらっばくれるな。新作ゲーム、あれは榛名の企画だ。どうやって榛名からデータを引き出した」
予想もしていなかった言葉に、思わず宏哉の思考が一瞬止まる。そして、ようやく加納の言動に納得が行く。
「そんなことしません。あれはうちのプランナーが立てたものです」
「だったら、あれを企画したクリエーターは誰だ」
どこか鬼気迫る加納の声と態度に、宏哉は軽く息を飲んだ。冗談ではなく、どうやら加納が本気で言っていることがその雰囲気からも分かる。
「現時点で名前は言えません」
確かにプランナーの名前は知っているものの、現場を取り仕切っているのは久住であって宏哉ではない。それ以前に、宏哉は名義を貸しているだけでサークルファイブの経営については全て久住の指示によるものだ。だから、名前を出していいのかとっさに判断がつかなかった。
「あんたが榛名から企画書を盗んだんじゃないのか? うちの人間を使って」
「確かにライバル社の動向は気になりますが、そこまでプライドが無い訳でもありません」
「だが、あのゲームは間違いなく榛名のものだ。あんたらに横取りされた企画を新作ゲームとして発表されて、うちの、いや、榛名のプロジェクトは解散になった」
果たしてそんなことがあるのだろうか。俄には信じがたくて黙り込んでしまえば、加納は椅子の背もたれに身体を預けるとコーヒーを一口飲んでから大きく溜息を吐き出した。
「俺が言えた義理じゃないが、もう榛名に近づかないでくれ。あんたが関わってから榛名はボロボロだ。あれでもうちの、いや俺にとっては十分尊敬に値するプランナーだ。悪いが潰れるのを易々見逃せない」
「確かに自分の行動も安直だったので、それは本当に申し訳無いと思っています」
「あんた……いや、もういい」
苛立ちを隠すことなくカップを皿に戻すと、安物の陶器のぶつかる音が人のいない喫茶店に響く。立ち上がった加納はそれ以上何も言うつもりはないらしく、背を向けた加納に宏哉は慌てて声を掛けた。
「あの、あなたが言った言葉、きちんと社で調べさせて頂きます。ただ、こちらとしても、志穂さんが作ったものだという証明をして頂かないと動きは取れません」
その言葉に足を止めた加納はゆっくりと振り返ると、口を開いた。
「明日夜七時、もう一度連絡を入れる」
その顔は真剣なもので、幾分気圧されながらも短く「分かりました」と答えれば、すぐに加納は背を向けて喫茶店を出て行ってしまう。それを見送ってから宏哉も立ち上がりレジで会計をしようとすれば、先に出た加納が払ったらしい。かなり立腹している様子だったからそのまま出て行ったのかと思えば、どうやら我を忘れるほどでは無かったらしい。
けれども、宏哉には確認しなければならないこともあり急いで病院を出ると、すぐに内ポケットから携帯を取り出すと久住に電話を掛ける。すぐに電話口に出た久住に加納の話しを聞かせれば、一度社に戻って来るように言われて宏哉は再びタクシーに乗り込むことになった。
会社に戻れば社長室には久住と秘書の縦井がいて、宏哉は久住の向かいに座るとすぐに口を開いた。
「簡単な説明は電話でしたけれども、今回新作ゲームは檜垣が担当している物のことだよな」
「そうだろうな。今うちで発売決定しているのはあれしかない。縦井」
久住が名を呼べば、すぐに縦井は持っていた書類を久住に差し出した。受け取った書類を久住は机を滑らせるようにして宏哉に渡してきたので、それを手にすると紙面に視線を落とす。そこにあるのは檜垣の履歴書とサークルファイブにきてからの業務内容、そして手掛けた企画の売上が記載されていた。
「あぁ、そうだ。これを渡されたんだ」
スーツのポケットから名刺を取り出し久住に差し出せば、手にした久住は軽く口笛を吹いた。
「知ってるのか?」
「うちの開発部に聞いてみろ。知らない奴いねーぞ」
元々、ゲーム業界に詳しい訳ではないから宏哉にとって加納の名前は初耳だった。けれども、それだけ名の通った人が守るように志穂の傍にいることは宏哉にとって少しだけ誇らしい気がした。けれども今はそんなことを考えている場合ではない。慌ててその思考を打ち消し手にしていた書類をテーブルの上に置いた。
「ヒロ、お前から見て今回の新作どう思う? 随分やりこんでたみたいだけど」
「そうだな、ゲームは余りしないけど今回の新作は面白かった。つい夢中になってやるくらいには」
「あぁ、俺もあれについては随分出来がいいと思ってる。ただな……」
そう言って久住の視線はテーブルに置かれた檜垣の書類に向けられる。檜垣は元々サークルファイブ立ち上げ時に、他社から異動してきた人間だった。ただ、サークルファイブに来てからこれといってヒット作は無く、赤字にこそなってはいないけれどもファンがつくタイプではないと思う。
確かにゲーム業界には余り詳しくは無いけれども、それでも、社長という立場になることもあってそれなりに雑誌や情報は色々と仕入れたから有名所はそれなりに分かる。少なくともサイドビジュアルなら間違いなく、志穂と柿沼は有名なプランナーといっても間違いない。ただ、あの二人と比べたら間違いなく檜垣は劣る。
「今まで企画したものに比べて、随分と方向性が変化してると思わないか。正直、こういう話しが出てくると、本当に檜垣の立てた企画なのか疑問に思える。どちらかといえば、確かに志穂さんのゲームに感性は近い」
言われてみれば、今まで檜垣が手掛けてきたのは俗に言うアクションものが多く、シミュレーションゲームを企画するのはこれが初めてだった。けれども、プランナーなら色々なゲームを手掛けたいと思うのもおかしなことでもないし、久住がどうしてここまで気になっているのか分からない。
「でも、違うジャンルに挑戦するのはよくあることだろ」
「確かによくあることだろうけど、今回、檜垣の企画書を見たけど、とても初めてシミュレーションゲームの企画書を作ったとは思えないくらい資料がきっちりと揃えられていた。大抵、違うジャンルの企画ともなれば、資料を揃えきれないことも多いし粗も多い。けれども、今回の企画書を考えると、引っかかるな」
「久住から見て、そんなに志穂さんの感性に近いのか?」
「少なくとも、俺はあの企画を檜垣が作ったと言われるよりも、志穂さんが作ったと言われた方がずっと納得できる。少し調べる必要があるな。縦井、檜垣とサイドビジュアルの社員に繋がりがあるか明日までに調べろ」
「分かりました。調査に入ります」
文句を言うことなく、縦井はすぐに社長室を出て行ってしまう。恐らく、否定しないということは明日までに縦井は調べがつけられるということなのだろう。それだけで、縦井の能力は高いものだと分かる。
「でも、これがもし本当のことだとしたらどうするんだ?」
「サイドビジュアル側から何らしかアクションがあれば、こちらも手を打たないとならないけど、現時点では何も言ってこないからやることもない」
「謝罪とか」
「悪いが向こうが何も言ってこないのであれば、こちらはそのまま発売するだけだ。既に広告も打ってる。ここで引く訳にはいかない」
「そんな……」
もし、本当に志穂の企画をうちの人間が盗んだのだとしたら、志穂がどれだけ傷ついたのかそれを考えるだけで胸が痛む。プランナーという職業がどれだけ大変なものなのか宏哉にも分かる。けれども、謝罪すらできないのは個人的に辛いものがあった。
「悪い……だが会社としては何も言われない以上、非は認められない。だが、本当に檜垣が企画を盗んだのだとしたら、その点については処分する」
「でもそれじゃあ志穂さんは」
「分かってる。でも、謝罪することはできない……すまない」
久住の中に良心の呵責が無い訳ではないのはその表情からも分かる。けれども、プロジェクトを解散までさせられた志穂に何もできないことが歯がゆい。
「だが、おかしなものだな。もし加納が言うように本当に企画が同じなら、もう少しサイドビジュアル側から何か言ってきてもおかしくない気がするんだが……似たプランナーは二人もいらないということか」
「どういう意味だ?」
「普通、企画が盗まれたともなれば裁判沙汰になってもおかしくない。どうにも雲行きとしてはうちの方が分が悪いにも関わらず、サイドビジュアルから何の話しもない。だとしたら、サイドビジュアルはもしかしたら志穂さんをさほど大切に思っていないのかと思ってな」
「あんなに有名なプランナーなのに?」
「路線としては志穂さんと柿沼の企画は似た雰囲気のものが多い。サイドビジュアルとしては柿沼がトップで志穂さんはあくまで二番手という扱いなのかもしれないな。とにかく、縦井からの連絡が無ければどうしようもない。今日はもう解散しよう」
「そうだな」
宏哉が答えると同時に二人揃ってソファから立ち上がると、宏哉はそのまま扉へと向かう。扉を開けたところで振り返れば、こちらを見ている久住と視線が合った。
「帰らないのか?」
「まだ書類が終わってないんだ」
そう言って肩を竦める久住の顔には苦い笑いが浮かんでいて、これからが本来の社長としての業務になるということは宏哉にも分かった。だから無理に誘うようなこともせず「お先に」と声を掛ければ久住は軽く手を上げるだけで答えた。焦っていたこともあり掛けたままの眼鏡を廊下に出たところで外すと、すれ違った数人の社員へ声を掛けながら外へ出る。
既に宵闇になった空は、忙しさもあって気づけば冬の星空へと移行しつつある。そして先ほど社を出た時に見えていた月は、既に西の空から身を隠そうとしているところだった。それをぼんやりと眺めながら駅までの道のりを歩く。
志穂には会わないと言われたけれども、自分のせいであるなら志穂の立場を回復することはしておきたい。それは甘い考えで志穂に近づいてしまった自分の責任であるような気がした。

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