Act.04-2:七月の上弦の月-2

全員と別れた志穂は一人プロジェクトルームへ戻ると、椅子に腰掛けた途端に大きな溜息を零してしまう。元々、プランナーになってから志穂への風当たりは厳しい。だから、今までだって問題は色々とあったし、こうして周りにも助けられてきた。いつものことだと割り切りたいのにそう思えないのは、やはりヒロが関わっているせいかもしれない。
会ったのはたった三回。それなのに、こうして時間ができればヒロのことを考えている自分に苦笑するしかない。仕事にプライベートを持ち込まないと決めていたにも関わらず、この体たらくに苦い思いしかない。一層、出会わなければ良かったのに……。そんなことを考えながらも、志穂は加納に言われたようにネットワーク回線を切断してから、午前中で会議に上がった議論を纏めてるためにパソコンへと向かった。
仕事中だから集中しなければならない、そう思うのにふと気づけばキーを叩く手が止まっていて進まない時計に苛立ちが募る。少なくとも、仕事をするようになってからこんなことは初めてだった。それでも、どうにか報告書を纏めてそれぞれの部署、そして外注であるのどかや丸尾の会社へとファックスを送る。本来であればメールで遣り取りする案件だけど、念には念を入れた形でもあった。
新たなスケジュールシートと、今後の予定、チーム内の進捗状況を取りまとめるだけでいつもの倍の時間が掛かっていることに気づき、志穂は土曜日の夜に整えたばかりの爪を軽く噛む。
ヒロ一人の出現でこれだけフラフラしている自分が許せない気分で、握りしめた拳をテーブルに叩きつけた。自分の思考がままならないというのは志穂にとって酷く納得のいかないことでもあった。
そんな中で内線が鳴り出し、志穂は深呼吸をして気持ちを落ち着かせてから受話器を取った。電話を掛けてきたのは営業である峰からで、来週、雑誌のインタビューを頼まれて複雑な気分になる。もしかしたら、その記事をヒロも見るかもしれない、そう思うと酷く落ち着かない気分で了承の返事をした。
別にインタビューなんて今までだって受けてきたし、新作を匂わせる為に峰が雑誌に頼み込んだものだろう。いや、頼み込んだというよりかはごり押ししたのかもしれない。ゲームというのはプロデュースが大切なもので、いきなり発売日に宣伝を打っても売れるものではない。徐々に情報を出すことでユーザーに興味を持って貰わなければならない。
いつものことだと自分に言い聞かせると、志穂は仕事に取り組むために再びパソコンへと向かった。とにかく、今は試作版を作り上を納得させなければいけない大切な時期ということは分かっている。だからこそ、今やるべきことを改めて考えると、今度こそヒロのことをすっぱりと切り離してからパソコンへと向かった。
それでも、その日、集中力が戻って来ることもなく、情けない気持ちでいつもより早めに会社を出た。それでも八時は回っていて、辺りはすっかり夜の空気を漂わせていた。生ぬるい風に吹かれながら駅までの道のりを歩く間、昨日出掛けた時間を振り返ってしまう自分はかなり見苦しい。そんな自分の思考を打ち切るように軽く頭を振って電車に乗り込んだ。
電車に乗り扉の窓からぼんやりと外を眺める。空に月の姿はなく、ヒロに会ってから無意識に月を探すようになっていた自分を内心笑うしかない。ヒロがどういうつもりで志穂に近づいたのかは分からない。けれども、もう会うことは無いに違いない。少なくとも、志穂はもう会うつもりが無い。
それなのにジクジクと痛む胸が鬱陶しい。少なくとも、仕事中に仕事関係ではない人間の影を見ることは一度だって無かった。切り替えのきかない自分に苛立ちながらも、電車を降りてから家までの暗い夜道を歩く。両側にある住宅からはあちらこちらから灯りが零れていて、それを羨ましいと思ったのは初めてのことだったかもしれない。
ヒロと出会った公園に差し掛かった時、ペースを落としそうになった自分を叱咤しつつも公園を覗くことは忘れない。けれども、そこにヒロの姿が無かったことにホッとしたのは言うまでもない。いつものコンビニで夕食を買うと、ビールで食事を流し込み、明日からはきちんと気持ちを切り替えよう、そういう思いながら風呂に浸かる。
いつもであれば面倒でシャワーで済ましてしまうことも多いけれども、念入りに身体を洗い、風呂に浸かる。それだけでかなり気持ちの切り替えはついて、志穂は温まった身体で眠りについた。
* * *
しっかり自分を立て直した志穂は、翌日からはひたすら仕事に打ち込んだ。竹河やのどかから上がってくる原稿をチェックし、加納との打ち合わせを何度も繰り返し、加納のグループが作った試作版を試す。そんな日々を繰り返し、二週間後にはきっちり試作版を仕上げ、上から本開発の許可を取り付けた。
本来であれば一ヶ月の行程だったものを二週間で上げられたのは、加納や竹河、そしてのどかや丸尾が頑張ってくれたからだということは志穂も十分に理解していた。とにかく本開発に入れば、という気持ちが誰の胸にもあり、そんな全員の気迫や空気を感じて志穂には申し訳無い気持ちになる。
だから、上から本開発の許可が下りた時には、今回の試作品に関わった全員で軽く打ち上げをした。名目は打ち上げという名目だったけれども、結局、本開発に対する激励会のような催しになってしまう。誰もが発売日に向けて気合いが入っていて、志穂もその空気に触れてさらにやる気が湧いてくる。
それからは、開発期間、そして発売日や予算などの案件も片付けながら、それと平行してプロジェクト内での指示は出し、質問があればとにかく打ち合わせという日々が続いた。
そして、営業担当である峰から二週間後と指定されていたインタビューを受けるため、志穂は峰と共に出版社へ足を運んだ。いつものようなきちっとしたスーツではなく、シフォンワンピースにボレロを合わせ、いつもであれば纏めてある髪も会社を出てくる前にはしっかりとアイロンで巻き直した。自分はこういう格好が嫌いだとしても、上がこういう自分を望み、そして雑誌を読む人間がこういう自分を望むのであれば志穂としてはそれを裏切るつもりはない。これも仕事の一つだともう割り切りもついていた。
オフレコを挟みながらインタビューを受ける志穂をカメラマンが途中で何枚か写真を撮っていく。峰と事前に打ち合わせした通り、新作を匂わせながらも適当なところで躱していくことも既に慣れた。こうして取材を受けるのも既に片手以上の回数はこなしているのだから慣れて当たり前かもしれない。顔写真だけという話しだったけれども、結局全身で一枚写真を撮って貰うことになり、峰に進められるままに写真を数枚撮った。
慣れたといっても全くいつもとは違う業務ということもあり、それなりに疲れはある。峰はこれから出版社の人間と飲みに行くということで、志穂が出版社を出た時には五時半を回るところだった。社に戻るには半端だし、だからといって帰るにも半端な時間で、少し悩んでから結局志穂は社に戻ることに決めた。
あの飲み会があってから、誰もがやる気になっていて、志穂もできる限り仕事は前倒しに片付けておきたかった。何よりも、本開発に入り人数が増えたことでスケジュールが組みにくくなっている。きちんと自分でも分かる形でスケジュール管理をしておきたい。
何よりも手伝えるところは志穂自身も手伝いたかった。とは言っても、志穂にできることは多いものではなく、加納のグループが組むプログラムのデバッグ作業程度しか手伝えない。けれども、全員で発売日に向かっているという状況に志穂は関わりたかったし、一人上で指示を出すだけで胡座をかくような真似だけはしたくなかった。
現場の空気を知れば、進捗会議だけは見えない色々なことが見えてくることも多い。それに、開発には全員が出入りすることもあり、それぞれが志穂を捕まえやすい場所にいたかった。開発に寄って志穂のいるプロジェクトルームに足を運ぶなんてことは二度手間以外の何者でもない。そういう無駄はできる限り志穂は省きたかった。
「志穂さん!」
ぼんやりとこれからのスケジュールを考えていた志穂は、名前を呼ばれた時にとっさに自分だとは分からなかった。けれども、背後から腕を掴まれてようやくそこで足を止める。勢いよく振り返った時、目に入ったのはオリーブ色をした薄手のミリタリージャケットとその下に着ている黒いVネックのTシャツ。そこからゆっくりと顔を上げれば、そこにいたのは少し髪の乱れたヒロだった。
久しぶりに会ったヒロに変わったところは全く無い。それは当たり前だ、実際に会わなかったのは二週間程度のものでしかなく、それだけで人間が早々に変化する筈もない。でも、変わりないヒロの顔や視線を受けて胸が押し潰されそうに苦しくなり、自分が思っていたよりもずっとヒロに会いたいと願っていたことに気づく。でも、そんな自分なんて知りたくなかった。
「どうしてここに」
乾いた唇から問い掛けた声は掠れていて、自分のことにも関わらず緊張していることにようやく気づく。
「出版社の人から聞いたんです」
「まさか問い合わせたの? そんなことされたら」
とっさに鋭い声で問い掛ければ、慌てたようにヒロは首を横に振ってそれを否定する。
「そんなことしません! してません。ただ……」
すっかり立ち止まる志穂たちを避けるようにして歩く人たちは、すれ違い様に迷惑そうな視線を投げてくる。周りの視線に気づいた志穂は、慌ててヒロの腕を掴むと足早にビルとビルの間の細道へと足を向けると、人の流れが無くなってからようやくそこで足を止めるとヒロへと向き直った。ヒロの顔にいつもの穏やかな笑みはなく、志穂を伺うような視線を向けてくる。怒られる前の子どものようだと思ったのは、その表情が泣きそうに見えたからかもしれない。
「あの、翔に聞いて、あ、その翔ていうのは前に話した友人のことで」
「大丈夫、分かってるから」
「その……志穂さんが会社で厳しい立場になってるって……」
別に大したことじゃないと言おうとして、口を開けた状態で志穂は一瞬固まるとすぐに言葉を呑み込んだ。もし、ここで大丈夫だと言ったところでヒロは信じないだろうし、もう会わないと決めたヒロ相手に許すような言動をすることにためらいを覚える。黙っていたことを怒っている。それはヒロと会わない理由に十分値するし、ヒロも納得しやすいに違いない。
一方的かもしれないけれども、志穂はもう二度とヒロに会わないと決めた。偶然会うことはあったとしても、こうしてヒロと二人になるのはこれが最後だと思うと、押し潰されそうな苦しさよりも鋭い棘が刺さるような痛みに変化する。
「最初から私のことを知ってた?」
その問い掛けにヒロは泣きそうな顔のまましばらく志穂を見ていたけれども、力なく頷いた。どういう意図があって近づいてきたのか、色々と聞きたいことはある。けれども、喉元から込み上げてくる嗚咽をヒロの前でさらけ出すことはできない。だから、それを必死に呑み込んで、喉元の苦しさに耐えながらどうにか言葉を紡ぐ。
「もう、ヒロとは会わない」
俯いていた顔が上がり、ヒロが目を見開いてこちらを見ている。正直、辛そうな泣き出しそうなその顔を見ていると、今言った言葉すら取り消したい気持ちになる。それでも、その感情すら抑えつけると、志穂はヒロに背を向けて歩き出した。
追いかけてくる足音は無い。恐らく、呆然と志穂の背中を見ているに違いない。チリチリとした視線を背中に感じながら通りに出ると、人混みに紛れ志穂は立ち止まることなく家に帰るために駅へ向かって歩き出した。少しでも気を抜けば、足すら動かせなくなり、その場で泣き出しそうな自分を叱咤しながらひたすら駅に向かって足早に歩く。
深く息を吸えばそれだけで涙が零れそうで、慎重に呼吸を繰り返しながら電車に乗ると、いつものように扉近くで外を眺める。夕暮れ時の藍色に染まる空に浮かぶ月は右半分しかない。ヒロと出会ってから手にした天文系の本を読んで、そういう月を上弦の月と言うのだと知った。寄り添うようにいる星はアンタレスで、赤い輝きを放っている。
今の時期、都内から見える一等星はベガ、デネブ、アルタイルという星で、その三つの星から夏の大三角形となる。夏の大三角形も星の名前も知っていたけれども、学生時代ならともかく既に忘れ去った知識でもあった。その他にも見えるのは先月も見えていたアルクトゥールス、そして月の近くにあるアンタレスこの五つだと覚えている。
こうして学生時代の記憶を掘り起こすことになったのも、天文系の本を読んだのもヒロと出会ったからだった。一緒に会話をしたくて覚えた星の名前も月の名前も、もう必要ない。そしてこれからも……。
本来であれば会社に戻るべきだと思ったけれども、今このまま会社に戻っても仕事にならないことは分かっていた。周りに気遣わせるくらいであれば、今日は家に帰って明日からのいつもの自分でいられるように立て直したい。甘えていると言われたら返す言葉はない。けれども、今日の分は明日取り戻すからと言い訳しながら家に戻ると、何をするよりも先に湯船にお湯をためた。お湯がたまるまでの間、カーテンを閉めてから着ていたシフォンワンピースを脱ぎ捨てるとシャワーで髪と身体を洗う。
洗い終えたところでタイミング良く風呂の湯もたまり、その中に精神を落ち着かせてよく眠れると言われたサンダルウッドの入浴剤を入れると、湯船に浸かった。温かいお湯に浸かり、噛みしめていた奥歯を緩めた途端、涙が溢れて止まらなくなる。
まだ大丈夫だと思っていた。別れを告げて傷ついたとしても、その時だけだと思っていた。けれども、思い浮かぶのは辛そうな泣きそうなヒロの顔で、あれは今思えば傷ついた顔だったと思う。けれども、これ以上ヒロと会えばどういうことになるのか安易に想像はついた。今の地位を手に入れるために努力を怠ったことは一度だってない。それこそ、プライベートを理由に会社に行かなかったことだって、今日が初めてだと思う。
仕事が大切。だからこそ、諦める。それは自分で決めたことなのに涙は止まるところなく、落ちる涙で水面にできる波紋をぼんやりと眺める。
最初からヒロは志穂を知っていて近づいたと認めた。けれども、騙されたとか、裏切られた思いは無く、ただ、志穂の心はヒロにもう会えない悲しみが強い。悲しみを忘れるてっとり早い方法は、とにかく泣くことが一番早い。ぬるいお湯に浸かりながら、志穂はとにかく自分が納得するまで、嗚咽を漏らしながらひたすら泣き続けた。ヒロとの別れは、今までのどんな恋人との別れよりも辛いものだった。

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