Act.04-1:七月の上弦の月-1

「志穂、しっかりして!」
その声で我に返ると、部屋にいる全員から心配そうな視線を向けられていることに気づいて志穂は苦く笑う。
「とにかく社長に会ってくる。それから今後のことを話し合うことになると思うから、このまま待機して貰っていいですか?」
中でも一番年配である加納に問い掛ければ、加納は全員を見渡して、それから代表するように一つ頷いた。
「少なくとも、俺は信じてる。お前はプライベートに仕事を持ち込むような真似はしないプライドはあるからな」
「その言葉だけでも心強いです。行ってきます」
企画書ファイルを手に、志穂は改めて気を取り直すと挑むような気持ちで部屋を後にした。色々と心に渦巻く思いはあるけれども、とにかく今は社長を説得するしかない。
廊下を歩いていても、ほぼ全部の部署に流されていたらしいファックスは、すれ違う社員の目を冷たくする。ゲームプランナーという地位は上を目指す人間であれば、社内の誰もが望む立場で、追い落としてでも手に入れたい地位だということを知っている。だからこそ、志穂は毅然と前を向いて、足早に社長室へと向かった。
ノックして返事を聞いてから扉を開ければ、そこには志穂の上司、そして社長がソファに向かい合わせで座っていた。部屋に入ってから改めて志穂は二人に一礼すると、社長に促されるままに上司の横に腰を下ろした。
こうして社長室のやけに座り心地のいいソファに腰掛けたのは一年ぶりのことだった。前回座った時には今よりも和やかな空気で、社の売上に貢献したということで功労賞という金一封を受け取った。あの時と今、同じ場所なのにそこにある空気は全く違う。
すぐに社長からは先ほどのどかに見せられたファックス用紙と同じものを突きつけられる。
「これに心当たりはあるかね」
「あります」
「榛名!」
慌てたのは隣に座る上司だ。けれども、志穂は表情を崩すことなく、視界の端に映る上司に視線を向けることはしない。ただ真っ直ぐ、前に座る社長へと視線を向けたまま身じろぎしない。後ろめたいことは何一つない。少なくとも、志穂は情報を横流しするようなことはしていないし、ヒロが情報を盗むだけの余裕が無かったことにも自信がある。
「彼は君の恋人なのか?」
「いえ、違います。少なくとも、この写真は昨日のものですが、こうして出掛けるのは初めてのことでした」
「彼とはいつ知り合った?」
「先々月の半ばです。けれども、彼がサークルファイブの社長だということは知りませんでした」
「この業界にいて?」
確かに勉強不足と言われても仕方ないとは志穂も思う。けれども、志穂が心惹かれるのはゲームの内容だけで、どういう人間が作ったのかプランナーは気になるけれど、相手会社の社長までは興味の範疇外だ。だから、それを素直に社長へと伝えれば、社長は小さく溜息をついた。
「うちとしては、君が優秀なプランナーということは分かっている。しかし、この業界、金に釣られて情報を横流しする人間も多い。その点はどうだ」
「プランナーとしてのプライドはあります。既に自分以外の人間が関わっているプロジェクトを売るような真似はしません」
少なくとも志穂としては幾ら大金を積まれてもそんな気にはなれないし、プロジェクトメンバーを裏切るような真似はできない。信頼があるからこそ成り立つ職業だということは分かっているし、そういうことをしたことも、考えたことすら一度たりともない。
「と、とにかく、先日報告した通り、榛名のプロジェクトでは看過できないデータ消去などもありましたし、私としても今回は榛名を妬む人間ではないかと思っているのですが」
正直、この部長が他人をかばうことは非常に珍しい。確かに、自分の部下が何かしでかしたのであれば自分の首も危ないということもあって、今回ばかりは志穂につかなければならないといったところなのかもしれない。それでも、既に社長までデータ消去の件が伝わっているのであれば多少なりとも心強いものがある。
「……分かった。プロジェクトはそのまま続行だ。君はうちの優秀なプランナーだ。社の売上にも貢献している。何よりも、社内の評判だって悪くない。今回は君の言葉を信じよう」
「有難うございます」
礼は言ったものの、社長だって馬鹿じゃない。疑いは十分に残る結果になったに違いない。苦々しい気持ちのまま社長室を上司と共に出たところで、声を掛けられた。
「……本当に彼とは何も無いのだろうね」
「ありません」
「頼むよ」
これ以上は問題を起こすなという上司の意図は読めたが、少なくとも、志穂としてはやましいことなど何もない。だからこそ上司に「失礼します」と声を掛けてプロジェクトルームに戻るべくエレベーターに足を向けた。エレベーターに一人乗り込むと、志穂の口からは自然と溜息が漏れた。
正直、ヒロがサークルファイブの社長だと言われても志穂にはピンとこない。あのどこかほやんとしたヒロが業界内でも遣り手と言われるサークルファイブの社長と言われても、志穂でなくとも信じないに違いない。ただ、社長であるならあちらこちらに写真は出ているのだから、それを知らなかったのは確かに志穂の手落ちだった。
加納は写真を見てサークルファイブの社長だと断定していたが、やはり志穂には信じられない。エレベーターを降りると全員が志穂を待っているだろうことは分かっていながらも資料室に立ち寄ると、本棚にあるいくつかの雑誌を手にするとパラパラと捲っていく。別に加納が信用できないという訳ではなく、ただ、どうしても自分の目で確認したかった。それは信じるという気持ちを信じたくないという気持ちが凌駕した結果でもあった。
三冊目の雑誌を捲っていると、志穂の手が止まる。目を落としたところには業界内の風雲児としてサークルファイブと、そして社長としてのヒロがそこに載っていた。久保寺宏哉    。前髪こそ顔に掛からないように後ろへと流していたが、それは確かに志穂が知っているヒロと同じ顔だった。簡単なプロフィールも載っていたけど、ヒロに兄弟はいないらしく志穂が会っていたのが久保寺というライバル社の社長であることだけは分かった。
途端に胃が重く感じたのは、志穂としても少なからずヒロに想いを寄せていたからに他ならない。昨日が楽しかっただけに、気分は鬱蒼としたものになる。
時計を見れば、既に資料室に入ってから五分近く経っていて、慌てて雑誌を本棚へと戻し、改めてファイルを手にすると資料室を後にした。すれ違う社員たちの目は痛いけれども、時折、その中に同情混じりなものもあり志穂はその視線に少しだけ救われる気がする。セキュリティーを解除して扉を開ければ、部屋にいる全員の視線が志穂へと向く。
「どうだった?」
駆け寄り問い掛けてきたのはのどかで、それにつられるようにして全員が椅子から立ち上がる。それに対して、志穂は肩を竦めると少しだけ笑う。
「今回はお咎め無し。ただ、これ以上何かあると立場的に不味いのは確か」
「もう、会わないよね?」
のどかの問い掛けに、志穂は笑って頷いた。けれども、途端に胸が痛むのは、昨日の楽しさを引きずっているせいかもしれない。けれども、会うことでどれだけリスクを負うのか分かっているから志穂の中で頷かないという選択は無かった。
ヒロとならもしかしたら、という気持ちもあったけれども、ヒロはそういうつもりでは無かったのかもしれない。それ所か、志穂がサイドビジュアルの社員だと知って声を掛けてきた可能性だってある。ヒロほどではないけれども、志穂だって雑誌に載る機会は多い。それをヒロが知らないとは言い切れない。
「とにかく、ガンガン働いて貰うからね」
いつも以上に強気な発言をすれば、途端に全員の顔に安堵が広がるのが分かる。少なくとも、こんなことで暗礁に乗り上げるような真似はしたくないし、プロジェクトの誰もが自分を信じていてくれる。だったら自分はそれに応えなければならないし、空気を悪くしたのが自分なら蒔いた種は刈り取らないといけない。
「折角集まったんだし、進捗会議します」
「会議室取りますか?」
気遣うように声を掛けてきた竹河の言葉に反応したのは志穂よりも加納の方が先だった。
「榛名、もう会議室は使用しない方がいい。少なくとも、この間のデータ抹消の件もある。会議室で遣り取りを聞かれるよりもここの方が安全だろう」
「それもそうですね。資料広げるのに機材は邪魔かもしれないけど、勘弁してください」
志穂の言葉に誰もが緊張した面持ちで返事をすると、改めて志穂はそれぞれから進捗状況を聞き、今後の予定を立てていく。外注の丸尾やのどかには面倒を掛けることになることを謝罪し、今後の進捗会議などはプロジェクトルームで行う方向に落ち着いた。
朝一からの忙しなさもあり、進捗状況の他に基本設計などの情報交換をしていたら昼休みも過ぎてしまい、落ち着いた時には一時を回っていた。話しがまとまったこともあり解散すると、志穂はのどかと、そして珍しく加納や竹河と共に昼食に出た。丸尾も食事を取りたいのは山々だと言っていたけれども、二時からどうしても外せない他社との打ち合わせがあるらしく、本当に残念そうな顔をして戻って行った。恐らく、志穂を心配してくれているのだろうことは丸尾の言動からも分かったし、その心遣いだけで志穂は嬉しかった。
一時を過ぎればどこの昼食屋も空いていて、人数もいることから少し会社からは遠いけれども和風創作料理を食べさせてくれるお店に足を伸ばした。そこまで足を伸ばしたのは社内の人間に聞かれてはまずい内容も話しに上がるだろうことを考えてだった。何よりも、その店には個室があることが志穂にとって決め手となった。
「こんな場所に店があるのは知らなかった」
そう言ってあちらこちらを見回しているのは加納で、どうにも落ち着かないらしいのはそのそぶりからも垣間見える。店員に案内されるままに個室に通されると、テーブル席に落ち着いたところでそれぞれにスライスレモンの入った水が配られる。グラスの表面には二センチほどのスクエアが並び、窓から入る日の光でゆらゆらと涼しげな透明さをテーブルの白いクロスに反射させている。
まだランチが可能ということで、ランチメニューからそれぞれ頼むと、しっかりと確認してからウエイターは扉を閉めて部屋を出て行った。個室といっても狭苦しさはなく、四人席にも関わらず八畳ほどの広さがある。窓の外には地下にも関わらず日の光が入り、小さな庭には緑が眩しい。
「俺だったら絶対に縁がないところだな」
どこか達観したような目で呟く加納に志穂はのどかと目を合わせて笑ってしまい、竹河は今度彼女を連れてくるとメモまで取っている。しばらくは店の内装やら庭の様子、そしてメニューを眺めながらこれが美味しいとか、あれが美味しいとか、そんな話しをしながらゆっくりとした時間が流れる。
十分もすれば料理が運ばれてきて、それぞれの前に皿が並べられる。それを食べながら、改めて志穂は三人に謝罪した。
「迷惑掛けてすみませんでした。知らなかったなんて言い訳にならないけど」
「そういうこともあるさ。実際、俺もたまたま知ってた程度だし」
「そうですよ。俺なんて言われるまでサークルファイブの社長の顔知りませんでしたし」
「でも、そうよね。私もシナリオライターであれば気になるシナリオ書いてる人のインタビューとか読むけど、わざわざ社長までは進んで読まないかも。実際、私もネットで確認するまで知らなかったし」
志穂自身、確かにプランナーであればある程度有名所であればぼんやりながら顔は覚えている。少なくとも、相手から声を掛けられたら分かる程度には記憶に残っているし、サークルファイブの遣り手と言われるゲームプランナーなら知っている。でも、それを志穂が口にすることはない。それを言ってしまえば言い訳になることは分かっているから志穂はその点については口を噤む。
「でも……先は私、あんなこと言ったけど……その人のこと志穂は好きなんじゃないの?」
「馬鹿ね、ここで話すことじゃないでしょ」
「ごめん。でも、志穂が久保寺社長を好きだと言っても、信頼揺らいだりしないよ?」
「……多少、気になってる程度。でも、向こうはどうだか分からないでしょ。もしかしたら、こっちを利用するつもりだったのかもしれないし」
口ではそう言ったものの、ヒロは少なくともそういうことはしないように思えた。お互いに仕事の話しは避けていた節があるし、ヒロからも聞かれなかった。勿論、自分に見る目がない可能性は十分にあるけれども、それでも、信じられるだけの誠実さをヒロは見せてくれた。だからこそ、そこに裏は無かったと志穂は信じたい。ただ、もしそこに裏があったのだとしたら、雑誌などに載る作られた志穂を想像して近づいた可能性は高い。もしそうだとしたらヒロはかなり面食らったに違いない。
「というか、俺としては相手のことも知らずに出掛けられる神経の方が理解できん」
憮然とした顔で言い募るのは加納で、それに対して志穂としては苦く笑うしかない。基本的に男に対してかなり適当だった志穂としては耳に痛い。それこそ五回会うか会わないかで同棲した相手すらいるだけに何も言えない。
「加納さん、おじさんみたいですよ」
竹河の言葉に憤然とした様子を見せる加納だったが、しばらく竹河と論議した後に改めて志穂に目を向けてきた。
「まぁ、おじさんとしてはだな、今回ばかりは相手が悪いとしか言えない。諦めろとは言わないが、今は止めておけ」
「もう会うつもりはありませんよ」
「そう言いきられると、辛いものがあるな。簡単に諦めるな。いつでもそういう相手が現れる訳じゃない。少なくとも、一緒に出掛けてもいいと思うくらいには本気なんだろ? そうでなければ、榛名が一緒に出掛けるとは思えん」
確かにヒロといる時間は楽しくて、優しい気持ちにもなれて、傍にいられたらいいと思えた。けれども、仕事が絡むとなれば話しは別だ。そう割り切りたいのに、心の奥底で引っかかりを覚えている自分がいる。加納が言う通り、もう二度とあんな人には会えないんじゃないか、そういう気持ちがあるのかもしれない。
「私がサイドビジュアルにいる限り絶対に無理です。それこそ、彼がサークルファイブの社長を辞任するということなら話しは別ですが」
「それは無理だろ。あそこが伸びてきたのは今の社長に代わってからだ。それを考えれば社長が辞任する訳が無い」
加納にそう言われても、どうにもヒロと遣り手社長というのがイメージ的に繋がらなくて困る。あのヒロが果たして本当に遣り手なんだろうか、とつい考えてしまうのは穏やかな笑みを浮かべ、いつでも優しげな空気をまとっているせいかもしれない。もしかしたら、雑誌に載る志穂並に豹変するのであれば、志穂としても他人のことを言える立場では無いし、ありえないとも言い切れない。
「なら、これ以上会うのは無理です。私も辞めるつもりありませんし」
「まぁ、榛名に辞められたらうちも確かに困るんだがな……人間、仕事も大事だが恋愛も大事だと思うぞ。少なくとも人生に癒しは必要だ」
「奥さんに癒されてそうですもんね、加納さんは」
社内でも加納の奥さん自慢は有名で、志穂だって何度も聞かされている。嫌がる人間も多いけれども、志穂は加納の奥さん自慢は聞いていて少しだけ幸せを分けて貰っている気分で嫌いじゃない。
「ちゃかすな。そうじゃなくてな……自分の気持ちにまで嘘つくなよ」
加納の真剣な言葉は想像していたよりも、志穂の心の奥に突き刺さった。ただ気になるだけだと言い切りたいのに、もう既に手遅れだと分かっているからなのかもしれない。だからといって、恋で身を滅ぼすような馬鹿な真似だけはしたくない。そして、今の地位だって捨てる気も無い。だとしたら、見ないふりして切り捨てるのは……。
「とにかくセキュリティーの見直ししないと」
加納の言葉に返すことなく仕切り直すように笑顔で言えば、三人とも微妙な表情で志穂を見ている。言いたいことは分かるけれども、これも縁が無かったということなのだと思う。痛む気持ちはたしかにあるけれども、時間が止まる訳でもないし、仕事は気持ちを整理するまで待ってくれるものでもない。基本的に割り切りもいいから、どちらにしてもヒロのことも時間が解決してくれるに違いない。
微妙な表情はしていたものの、話しを進めれば再びヒロについて持ち出すことはなく、どうやってデータを遣り取りするかそういうことをお互いに確認し、面倒ではあるもののデータ類は全て加納が持っているというポータブルハードディスクで遣り取りを行うことに決めた。
勿論、本開発に入れば今よりも多人数が関わるのでそうもいかないが、試作版を作成する少人数の内はこれで回していくしかない。少なくとも本開発まで話しが進めば情報漏洩の危機はかなり薄くなる。何よりも、本開発に入った段階ならそこから他社に企画を持ち込まれたとしても、余程手抜きなゲームしか作れないに違いない。
それこそヒロの会社であるサークルファイブが後から手掛けたとしても、志穂のいるサイドビジュアルとは会社の規模も違えば、扱う人間の数も違う。早さであれば間違いなくうちから発表することができる筈だ。
四人での話し合いがまとまり昼食を終えると、のどかはこれから他社との打ち合わせがあるということでその場で別れた。社に戻れば、それぞれ部署で情報共有するために各部署へ一旦戻って行った。

Post navigation