ふと思いだしたのは、事務所に鍵を閉めた時だった。だから、すぐ傍にいる岡嶋に声を掛けた。
「そういえば、先日お借りしたデザインの本、すっかり遅くなってしまってすみませんでした。もし良かったらうちに取りに来ませんか? コーヒーくらいごちそうしますし」
うさぎの家まで徒歩五分と掛からないからと岡嶋に声を掛けたけれども、岡嶋は微妙な顔で笑っている。その意味が分からずに首を傾げたうさぎに、さらに岡嶋は笑みを深くする。
「まぁ、うん、うさぎちゃんにとってお兄さんなんだろうね」
「はい?」
「俺の立場」
確かにうさぎにとって岡嶋は頼れるお兄さんで、あえて名前をつけるとしたら……。
「仲間、ですかね?」
「俺的には納得だけど……まぁ、いっか。コーヒーごちそうして貰える?」
「はい」
そんな会話を交わしながら警備を掛けると、うさぎは岡嶋と共に自宅でもあるマンションへと歩き出した。道すがら話すことは少し詰まりつつある仕事のことで、追加でお願いされている仕事の分担や、新規で入った客先について話している内にマンションへと到着してしまう。オートロックの鍵を開けて中に入ると、岡嶋と二人エレベーターに乗り込む。
「梶さんの部屋は最上階だよね。どうして同じ階にしなかったの?」
「梶さん、荷物が多いんですよ。逆に私は荷物も少ないし、広い部屋は落ち着かなくて」
「あぁ、気持ちは分かる気がする」
そう言って小さく頷く岡嶋にうさぎは自然と笑みがこぼれる。梶には理解して貰えなかったので、ささいなことだけど理解者がいるのは少し嬉しい。
エレベーターを降りて一番奥にある角部屋の前に立つと鍵を開ける。扉を開けて中に入ればセンサーが働いて玄関に明かりが灯った。
「どうぞ、入って下さい」
声を掛けてうさぎはスリッパを一つ出せば、お邪魔しますという言葉と共に岡嶋は部屋に入ってきた。初めてということもあり物珍しいのか、あちらこちらを見ている岡嶋にソファを勧めると、うさぎはポールに鞄を掛けるとすぐにキッチンに立ちコーヒーの用意を始める。
ちらりとリビングに置かれている留守電を確認したけど、どうやら今日は梶も忙しいのか連絡は入っていない様子だった。一人であれば使わないコーヒーメーカーに戸棚からコーヒーの入った瓶を取り出すと、フィルターをセットしてからコーヒーの粉を入れる。後は水を入れてしまえば出来上がりを待つばかりで、うさぎはリビングへと戻ると岡嶋に声を掛けた。
「今、本を用意しますね」
「ついでに紙袋もあると嬉しいかも。俺、今日手ぶらだから」
「分かりました」
言われるままにうさぎはリビングの片隅にある机に歩み寄ると、机のサイドにある本棚から岡嶋のデザインの本を取り出し一旦机の上に置く。クローゼットを開くと、まとめてあった紙袋を一枚出してからそれを広げた。黒い紙袋に白いロゴが小さく入っているだけなので、これなら岡嶋が持っていてもさほど違和感は感じないに違いない。そんなことを考えながらもうさぎは机の上に置いたデザインの本を紙袋に入れると、岡嶋が座るソファの横にそれを置いた。
「有難うございました。色々とためになる部分も多かったです」
「今度は色合わせの本も貸すよ」
「お願いします」
そんな会話をしている間に電話が鳴り出し、うさぎはすぐに電話の傍に立つと受話器を上げた。
「もしもし」
「あぁ、もう帰っていたのか。それなら丁度いい。うちに今梁瀬が来ていて一緒に食事に行こうかという話しをしていたんだが」
「それなら、今、うちに岡嶋さんが来てるので四人でどうでしょう」
「……いるのか? 部屋に」
少し声のトーンが下がった気がしたのは気のせいなのか、うさぎはよく分からないながらも梶の問い掛けに答えた。
「はい、いますよ」
「……今からそっちに行く」
「え? あの、もしもし?」
声を掛けたにも関わらず、受話器から聞こえてくるのは無機質な電話が切れた機械音だけでうさぎは首を傾げながらも受話器を置いた。
「梶さんでしょ」
「はい。何かこっちに来るらしいです。梁瀬さんが今一緒みたいですよ」
「やっぱりね」
呆れたような溜息混じりの岡嶋の声に、意味も分からず視線だけで問い掛ければ苦く笑われる。どうにも先ほどから岡嶋は思わせぶりな発言ばかりで、うさぎにはわかるように説明してくれない。言わなくてもわかりなさい、ということなのかもしれないけど、どうしてこうも思わせぶりな発言をされるのかうさぎには全くわからない。
「梶さんが来たらわかるから」
それだけ言うと岡嶋は肩を竦めて見せると、先ほど返したばかりの本を紙袋から出してパラパラと捲っている。納得行かないながらも、うさぎはキッチンに戻ると出来たばかりのコーヒーをカップに入れる。梶と梁瀬も来るのかと思うと、少し悩んでから更に二つカップを用意して全部で四つのカップにコーヒーを注いだ。
うさぎが大学に通っている時には、岡嶋や梁瀬とこうしてお茶を飲んだり、時にはお酒を飲んだりしたこともある。時にはそこに梁瀬の奥さんである美樹も一緒になることもあった。そんな穏やかな時間はうさぎにとって安らぎだったし、ちょっとした救いでもあった。
まだその頃は梶と和解することもなく、ただ梶のことは忘れようとしていた自分が懐かしい。そして、うさぎの感情だけで美樹を入れた三人を随分と振り回してしまったことを思い出すと、今更ながら申し訳無い気持ちにすらなってくる。
コーヒーを用意している間にチャイムが鳴り、慌てるうさぎに岡嶋が出てくれることになりうさぎは再びコーヒーの用意をしているけれども、どうにも玄関が騒がしい。入って来る気配のないこともあり、両手にコーヒーを持ったままキッチンから玄関に続く廊下へ顔を出した。
「どうかしたんですか?」
声を掛ければ玄関先では梶と岡嶋が何やら話しをしているらしく、靴を脱いだ梁瀬はスリッパを履いて部屋へと入ってきた。
「密談、ってか注意事項。でも、少しだけ梶さんに同情かな」
「何ですか、それ」
「うさぎちゃんの詰めの甘さと奴の性格の悪さかな」
この場合、梁瀬が言う奴というのは岡嶋のことに違いない。それこそ学生時代は岡嶋を本心からただひたすら優しい人だと認識していたけど、こうして一緒に仕事をするようになってから、中々いい性格の人だということは分かるようになってきた。それでも、岡嶋はうさぎに対しては優しいし、梁瀬曰くかなりうさぎに対しては甘いと言われたこともある。
まだ話しているだろう二人の元へ行くべきか悩んでいる間に、梁瀬は両手に持っていたコーヒーの内一つを持ってくれると、空いた手を背中に回してリビングへと促してくる。
「いいから放っておいていいよ。飽きたら来るだろうし」
促されるままにリビングへ戻り、梁瀬と共にソファへ腰掛けるとテーブルの上にコーヒーを置いた。既に向かい側で梁瀬はコーヒーを飲んでいて玄関からは、会話の内容は分からないながらも何やら話し声は聞こえている。
「うさぎちゃんもね、岡嶋相手とはいっても一応、家に男を呼ぶ時は二人きりはダメ。前にも言ったと思うけどさ」
「言われた記憶、確かにありますけど……でも、岡嶋さんですよ?」
「甘い、甘い。男なんてどこで豹変するか分からないんだから。特にうさぎちゃんの場合、男の地雷知らなそうだし」
そうは言われてもあの岡嶋が何かをするとは考えがたい。ただ、家に呼んだ時の岡嶋の苦笑を思いだし、梁瀬の言ってることを考えていたことは分かる。言われてみれば、岡嶋も梁瀬も、うさぎと二人きりという状況は絶対的に避けていたことを思いだし、二人がそういうことに気遣っていたのだろうことに今更ながらに気付く。
「色々と気遣い有難うございます」
深々と頭を下げれば、梁瀬は笑いながら「いえいえ」とおちゃらけた様子で答え、それからお互いに目を合わせて笑ってしまう。そして、ようやく何らしかの決着をつけたらしい二人がリビングに入ってくると、当たり前のようにうさぎの隣には梶が座る。そのことが少しだけ嬉しい。
「ねぇ、うさぎちゃん、梶さんに何て呼ばれてるの?」
唐突とも言える質問は岡嶋からのもので、隣ではコーヒーを口にした梶がむせている。訳が分からないながらも梶の背を軽く叩きつつ、岡嶋の質問にうさぎは素直に答えた。
「基本は君とか、ですけど」
「今ねぇ、梶さんに言われちゃったんだよねー」
「岡嶋、それ以上言わなくていい」
「えー、言いたいですよ。まさかそんなこと気にしてるなんてうさぎちゃんだって思ってもいないだろうし。気になるよね、うさぎちゃん」
笑顔の岡嶋と苦虫を噛みつぶしたような顔をした梶の顔を交互に眺めながらも、気にはなるから頷けば、岡嶋の口元が嫌な感じに笑みを浮かべる。
「俺とか梁瀬がうさぎちゃんを名前で呼ぶのは面白く無いんだって」
面白く無いと言われてもうさぎには意味が理解出来ない。出会った時から岡嶋や梁瀬はうさぎのことを名前で呼んでいたし、今更それを言われても変な感じがする。確かに、この年でちゃん付けで名前を呼ばれると恥ずかし時もあるけど、基本的に余り気にしたことは無い。
「うわっ、心せまっ!」
「……梁瀬」
言葉と共に睨むようにして梶が梁瀬に視線を向けると、梁瀬はあからさまに呆れた顔をして梶を見ている。うさぎとしては何だか言葉を挟みづらい状況で、思わず二人の遣り取りを見守ってしまう。
「仕事中じゃありませんからはっきり言いますけど、本当にうさぎちゃんのことになると心狭いですよね。しかも、うさぎちゃんの前ではええ格好しぃだし」
「黙れ」
「いいじゃないですか、それだけうさぎちゃんのこと愛しちゃってる訳ですし。ねぇ」
最後、梁瀬はうさぎに同意を持ちかけてきたけど、うさぎとしてもそんな話題を振られても困るし、何を言えばいいのかも分からない。ただ、嬉しくないと言えば嘘になる。
「まぁ、年上の男なんて格好つけてなんぼのもんだろうけど」
「仕方ないでしょ、うさぎちゃん相手だし。うさぎちゃんの場合、余裕無いところ見せると逃げ出しそうだし」
「それもそっか。でも、名前ねー、名前……うさぎちゃん、梶さんのこと何て呼んでるの?」
梁瀬と岡嶋のテンポの早い会話にうさぎとしてはついていくのが精一杯だ。それに色々言われすぎて赤くも青くも顔色の変わりそうな会話に完全に気圧される。
「普通に梶さんって呼んでますけど」
「名前で呼んであげれば梶さんの溜飲も下がるかもよ。ほら、呼んでみなよ。それとも名前知らないとか?」
「知ってますけど……」
梁瀬と岡嶋の期待とからかい含みの視線を受けながら、うさぎとしては戸惑いつつも梶に視線を向ける。そして、当の本人からも期待の眼差しを向けられて逃げ場がない。沙枝はいつも名前で呼んでいたから羨ましいと思っていたけど、いざ自分が梶の名前を呼ぶとなると酷く緊張する。恥ずかしさまでこみ上げてきて、うさぎは誰とも視線を合わせずに俯いたまま小さく口を開いた。
「……貴弘さん」
口の中で呟くように言ってみたけど、うさぎとしては恥ずかしくて顔も上げられない。けれども、余りにも周りの反応がなくて恐る恐る顔を上げれば、驚いたように自分を見る三人の顔があってうさぎは名前を間違えたかと不安になる。
「あ、あの」
「うわー、何て言うかスゲー懐かしい感じ」
「いいよねぇ、初々しいというか、ごちそうさまと言うべきか」
楽しげな梁瀬に続き、どこか呆れ含みの岡嶋を見て、それから隣に座る梶を見ればあらぬ方向を向いた梶がいる。けれども、その耳は真っ赤になっていて思わず笑みが零れた。
「……まぁ、幸せそうでいいんだけどね」
「確かにいいけど、逃げ出したくなるのはオレだけ」
「いや、俺も帰りたくなった」
「じゃあ」
そう言って立ち上がろうとする梁瀬に慌てて声を掛ければ、笑いながらも再びソファに腰を下ろしてくれる。そのことにホッとしつつも、うさぎは改めて梶を見たけど、相変わらずあらぬ方向を見たままこちらを向く気配はない。
梶はいつも落ち着いていて、うさぎから見ても大人の男の人という感じなのに、今は少し可愛く見えてしまうのは惚れた弱みなのか少しだけ迷う。けれども、落ち着いていても、こうして照れ隠しに必死になっている梶もどちらも好きだから、うさぎとしては何も問題はない。
「でも、余り独占欲バリバリだと、俺は楽しんでからかいますよ」
「お前、本気でいい性格してるな」
ぼそりと呟く梁瀬に岡嶋の笑顔は崩れることもない。そして、改めて梶はもの凄く嫌そうな顔で岡嶋にようやく視線を向けた。
「楽しむな」
「だって、楽しみたくもなると思いません? こんな身近にネタを提供してくれる人がいるんですから。それにうさぎちゃんと一緒に食事に行くなとか、勝手に触るなとか、どんだけ独占欲強いんですか」
「あの、それ本当に梶さんが?」
「そうだよ。うさぎちゃん、一つ言っておくけど、いい大人だってきちんと独占欲もあれば、嫉妬心だってあるんだよ。余り安易に考えてるといつか痛い目を見るからね」
「き……肝に銘じます」
「あー、うさぎちゃんにはオレが言ったばかりだから、それくらいにしといてやって」
助け船とばかりに梁瀬が口を挟み、ちらりと岡嶋は梁瀬を見て小さく溜息をついた。
「そう、それならやっぱり矛先はいい大人の方かな」
「岡嶋……」
本気で嫌そうな梶に対して岡嶋の笑顔は崩れず、ある意味見ているうさぎの方が怖い。けれども、岡嶋に言われなければ梶の裏側を知る事なんて出来なかったから、その点については感謝もしたいかもしれない。時折見せる独占欲は確かにあったけど、こうして言葉にされるとやっぱり全然違う。
「これ以上迷惑を掛けない。それでいいか」
「別に迷惑じゃありませんよ。楽しんでるだけですから」
とりつく島もない岡嶋の答えに梶ががっくりと肩を落とすと、梁瀬はゲラゲラと大笑いしている。さすがにここまでくるとうさぎとしては梶が不憫になってくる。
「岡嶋さん」
名前を呼べば、それだけで岡嶋は苦笑しながらも肩を竦めて見せるとコーヒーに口をつけた。これ以上は言わないという岡嶋なりの意思表示にうさぎはホッとしつつも、梶の顔を覗き込んだ。
「あの、大丈夫ですから」
「何がだ」
「えっと、梶さんが色々考えていても、その」
「うさぎちゃん! 頼むからそれ以上はオレたちがいない時にして!」
うさぎの言葉を遮るようにストップを掛けた梁瀬に視線を向ければ、その隣では岡嶋が必死に声を殺して笑っている。けれども、笑いは堪えられないのか口を押さえた状態でそっぽを向きながらも、肩が大きく震えている。
そしてうさぎとしては続けようとした言葉を考えて赤くなるしかない。もし、梁瀬が止めなければ自分が何を言ったのか分かっているだけに謝るしかない。
「すみません。えっと……」
「いや、うん、いいんだけど……いや、よくないかな。取りあえず、飯に行こうか」
「……そうだな」
梁瀬と梶は早々にソファから立ち上がってしまい、岡嶋は相変わらず肩を震わせて声もなく笑っている。うさぎも恥ずかしさを誤魔化しながらもソファから立ち上がると、既にみんなが飲み終えているカップをキッチンに片付けてしまう。洗うのは後回しにしてリビングへ戻れば、ようやく笑いから復活した岡嶋は目尻の涙を拭っていて、そこまで笑われることかとうさぎとしては面白く無い。
「岡嶋さん、笑いすぎです」
「いやー、だって、普段どれだけ二人が甘い生活をしてるのか垣間見えた気がしてさぁ。うん、幸せそうで嬉しいけどね」
そう言って岡嶋の手がうさぎの頭をくしゃりと撫でれば、低い声がその場に響く。
「だから触るな」
「……本気で心狭すぎじゃありません」
梶の言葉と岡嶋の呆れた声を聞かなかったことにして、うさぎはそそくさと廊下に出るとポールから鞄を取る。同じように廊下へ待避してきた梁瀬と視線を合わせて、お互いに少しだけ笑いあった。
梶と梁瀬が二人だけの時にどんな話しをしているのかは知らない。そして、梶と岡嶋が二人だけの時にどんな話しをしているのかも知らない。でも、もし、梶と岡嶋の会話がいつもこんな感じだとしたら、間違いなく俎上に載せられているのはうさぎのことが多いに違いない。
少しだけ途方に暮れながら、うさぎはいまだリビングで話しをしている二人の名前を呼んだ。
The End.