強い日差しの中でTシャツから伸びた腕を空に向かって伸ばすとグッと広げた手を握りしめた。砂埃の舞ってたグランドは既に水まきを終えて、地面はかなり落ち着いている。踏み込んだ足から伝わってくるスパイクの感覚は悪く無い。
「由良、アップ終わった?」
声を掛けてきたのは陸上部のマネージャーをしているルリで、振り返って由良は笑顔を浮かべた。
「もう終わったよ。今日は百のタイムだっけ?」
「うん、出来たら調子が上がったところで取りたいんだけど」
「いいよ。今から行ける」
「先輩、タイム取るんですか?」
「取るよ、今週調子も良いし」
声を掛けてくる後輩に笑顔で答えれば、慌てた様子で後輩がスターティングブロックをグランドに用意してくれる。軽い柔軟をしてから着ていたジャージを脱げば、近くにいる後輩が受け取ってくれる。
二年生になって初めての大会は由良にとって非常にワクワクするものでもあった。小学校から大学までエスカレーター式の女子校というのは、中学、高校で本気で部活に打ち込みたい人間にとってはいい環境でもあった。
中学時代から陸上に打ち込んできた由良だったけれども、高校になってようやく体格が追いついてきて中三に比べたら随分と手も足も伸びたと自分でも感じる。だから、今はとにかく走ることが楽しくて仕方なかった。
ゴールともいえる百メートル先では、ルリと一緒に後輩が手を振っているのが見える。それに軽く手を挙げるとスターティングブロックに足を掛ける。緊張の入り交じるこの瞬間、気持ちが引き締まるこの一瞬は由良にとって大切なものでもあった。
脇に立つ後輩がピストルを持って手を挙げる。鳴り響く音にスターティングブロックを蹴ると、周りの景色が走り出す。何も考えず、ただまっすぐゴールに向かって走る。この時の思考はまさに白い。
見えるのはゴールにある目に見えないライン。ただ、そこを走り抜けると後輩が肩が冷えないようにタオルを掛けてくれたけど、額から流れる汗を拭うをストップウォッチを持っているルリへと視線を向けた。
「いくつ?」
「十一秒五一、凄い! 自己新だよ、由良!」
「今日は調子がいいと思ったんだよね。十一秒台にようやく乗った!」
喜ぶルリと共に手を合わせて飛び跳ねていると、わざとらしい咳払いが聞こえて動きを止める。
「由良、調子良さそうだな」
呆れたような顔をした顧問の杉浦に声を掛けられて、由良は満面の笑みを返した。口ひげを生やした杉浦は今年四十になる。女子校という中で余り受けのいい顔立ちはしていないけれども、結構人気のある先生でもあった。
昔は杉浦自身も走っていたらしいけれども、今は教えるばかりで走っている姿は一度も見たことが無い。大学時代に膝を故障したという噂は聞いたことがあるけど、実際はどうなのかは知らない。ただ、ふざけて走ることはあっても本気で走るところを見たことが無いことからも、噂は本当なのかもしれない。
「もう、最高にいいみたいです」
当たり前だけど、自己新は本当に嬉しい。他人と競うことも大切だけど、何よりも競技というのは最後は自分との戦いになる。それに打ち勝つのは何よりも気分がいい。
「その調子で五月の大会も頼むぞ」
「勿論ですよ!」
力説する由良の頭を軽く小突くと、豪快な笑みを浮かべた。中学時代から顧問だった杉浦とは、もう五年の付き合いになる。中学時代こそ小柄だった由良に百を進めたのは杉浦でもあった。ここ半年で成長した由良のタイムはグングンと伸びていて、部内の誰よりも伸びしろが大きなものでもあった。
去年こそ補欠だった由良だけど、今年は大会にエントリー出来る実力になっているのは誰の目にも明らかなものだったし、実際、由良自身もエントリーに対する不安は全く無かった。むしろ、大会に出られることこそが由良にとっては嬉しいものだった。
練習では何度かトラックを走ったこともあったけど、実際に大会でトラックを走ったことは一度も無い。だからこそ近付く大会にワクワクしているし、楽しみでもあった。
「なぁ、今年は二百もいってみないか?」
唐突に言われた杉浦の言葉に、由良は首を傾げる。こうして杉浦から二百を勧められたのは初めてのことでもあった。
「二百ですか? 走ったことないですけど」
「あぁ、だから走ってみないかって言ってるんだ。それとも百に拘りがあるか?」
「別に拘りは無いですけど」
「だったら取り合えず、少し落ち着いたら二百のタイムもとってみろ。それによってエントリーするか決める」
「本当ですか? うわ、沢山トラック走れる!」
喜んだ途端に調子に乗るなと杉浦に頭を小突かれて思わずムクれる。
「素直に喜ぶな。お前が二百に出れることになれば、二百に出れなくなる人間もいることも覚えておけ。三名枠しか無いんだからな」
言われて由良は初めてそのことに気付き、さすがに浮かれていられる状況じゃないことを知る。今現在、二百を走っているのは三年の先輩二人に、あとは同学年の二人、計四名が二百の枠を争っている。
「いや、やっぱり止めておきます」
「馬鹿言うな。タイム取って決める。遠慮はするな、他の人間に迷惑だ」
別に由良としては二百の枠に無理矢理入り込みたい訳じゃない。実際、既に百の枠は由良が決定しているのだから、他の誰かの枠を奪うようなことはしたくない。ただ、学校につき一つの競技に三名と決められている以上、誰かが弾かれることは分かってる。実際、由良だって百の枠はそうして手に入れたのだから今更文句を言えるものでも無い。
「由良、簡単に負けるつもりは無いから、全力で走って」
そう言ってくれたのは同じクラスの真由で、由良は小さく頷いてみせた。競い合う、だからこういうことは珍しく無いと知ってる。でも、どうにも居心地が悪い。
由良はただ、自分との戦いであって他人と競い合いたい訳じゃない。けれども、そういう感情は中々分かって貰えるものでも無いことを由良は知っていた。
「由良、頑張れ」
そう言って声を掛けてくれたのはルリで、由良は情けない笑みを浮かべるしかなかった。
「そんなにイヤ?」
「うん、イヤ」
「私、由良が走ってるの見るの好きだよ。だから全力で走って欲しい」
ルリがそう言うのであれば、確かに頑張りたいと思う。けれども、心の奥底がかさつく感覚が消えなくて、由良は小さく溜息をついた。恐らく由良が手を抜けば、杉浦にはすぐ見つかるに違いない。それに手を抜いたことで先輩たちとしても面白くは思わない筈だった。
正面に立ったルリが両手を握りしめると由良を見上げてくる。
「大丈夫、誰かが由良を嫌いになっても私が嫌いにならないから。だから大丈夫だよ」
優しいルリの声はいつも穏やかなもので、穏やかな微笑みにもう何度助けられているか分からない。気の弱い由良を支えてきてくれたのは、間違いなくルリだった。
「頑張ってみる」
「うん、頑張って」
優しく笑うルリにようやく由良も普段と変わらない笑みを浮かべると、ルリが肩に掛かったタオルを直してくれる。タオルの存在に気づいて由良は慌てて、先程タオルを渡してくれた後輩に向かってお礼を言うと、再びスタート位置に戻るために軽く走り出した。
誰かと競うのは好きじゃない。でも、誰がいなくなってもルリがいるから大丈夫。そう思うだけで由良は強くなれる気がした。
「相変わらず、仲良しね」
呆れたような顔をする真由に由良としてはただ笑うしかない。小さい頃から一緒にいたルリは、由良にとって既になくてはならない存在だった。多分、いなくなったら由良は何も一人では出来なくなってしまう気がする。
だからとても大切。多分、家族と同じくらい大切な人でもあった。
「うん、仲良しだよ」
「尻叩かれたんだから本気で走ってよ」
「分かってる。大丈夫、走るって」
お互いに視線を合わせてクスクス笑うと、二人並んでスターティングブロックに足を掛ける。一レーンずつ開けて、由良、真由、そして三年の先輩一人が並ぶ。
誰かに勝つとか、負けるとかそんなことは何も考えない。勝ちたいのは自分自身。目を閉じてゴールを見据えれば、もう由良の中に迷いは無い。百よりもずっと先にあるゴールにラインを引くと、由良はただそこだけに視線を向ける。
一度、高校入学時に二百を走ってタイムを計った。あの時よりも、早く、ずっと早く。それだけを考えて由良はピストルの音と共にスターティングブロックを蹴った。
* * *
練習が終わり着替えると部室棟の外でルリが待っていて、由良の姿に気づくといつもの優しい笑みを浮かべてくれて由良はホッと小さく息を吐き出した。結局、二百の枠も真由を追い出す形で由良のものになった。気にしないと笑う真由にどう返せばいいのか分からず、酷くいたたまれない気持ちで部活を終えた。
友達というほど仲良しではないけど、クラスメイトなだけにこれからも顔を合わせる。それ以前に部活があるのだから何度だって顔は合わせる。その度に緊張するのかと思うと、気が重かった。
「情けない顔になってるよ」
鈴を転がすような柔らかい、優しい声に由良は泣きたい気持ちになってくる。手を抜くなと言われたから手は抜かなかった。けれども、こんなモヤモヤした気持ちになるなら全力を尽くす必要は無かったんじゃないかとすら思う。
「泣かないで。由良が無くと私も泣くよ」
「……泣かない」
身体は一年前に比べて随分成長したのに、中身は全然成長してない。困ったことがあるとルリに泣きついて、泣き言聞いて貰って、そんなことをずっと繰り返してる。ルリの手が由良の手を握りしめる。柔らかい小さな手は温かくて、また泣きそうな気分になる。
「真由ちゃん、怒ってなかったよ。それに真由ちゃん、ハードル出るし」
「でも」
「笑ってたよ、由良には敵わないなって楽しそうに。だから由良が気にする必要は全然無いから」
握りしめた掌にキュッと力が入って、ルリへと視線を向ければいつものようにルリは笑ってる。
「私はずっと由良と一緒にいるから。それじゃあ足りない?」
ゆっくりと首を横に振ると足を止めたルリが、少しだけ背伸びして唇を重ねてくる。
「大丈夫、ずっと由良と一緒にいる」
「うん」
頷いて滲む涙を手の甲で拭うと、俯いていた顔を少し上げれば再びルリの唇が重なる。
「人に見られちゃうよ」
「いいよ、別に。それで由良が元気になるなら」
「もう大丈夫だよ」
そう言って笑えばルリも笑う。ルリはどこか花を、そう白に近い淡いピンクの桜を連想させる。花びらに触れたら痕がついてしまいそうな、けれどもそこにいるだけで誰もがその存在感を忘れることない可愛らしさ、そんなイメージと重なる。儚げな桜とルリの柔らかな印象が重なるせいかもしれない。
ふんわりとした薄茶色の髪が優しく肩に掛かり、穏やかな優しい笑みを浮かべる。それは全て由良には無いものでもあった。ずっと傍にいて羨ましいと思ったことが一度も無いのは、ずっとルリが傍にいるからだと思う。優しくて大切な友達以上のルリ。
「今日は泊まっていく?」
優しい穏やかな声でゆったりと話し掛けてくるルリに由良は首を傾げて悩んだけど、首を横に振る。短い髪がパサパサと音を立てたけど、ルリが手を伸ばしてきて落ち着かない髪を直してくれる。
「余り泊まるとお母さんに怒られちゃうから」
「私は全然構わないのに」
「それに今日はお父さんも帰ってくるし、少し親孝行しないと」
「そうなんだ。半年ぶり?」
「うん、だから肩揉みくらいしてあげないと」
由良の父親は船の船長をしていることもあって、一度航海に出てしまうと帰って来るまではかなり時間がかかる。小さい頃からそうだったからいないことには慣れたけど、やっぱり帰ってきてくれるのは嬉しい。
「なら明日の泊まりも無しかな」
「かな、ごめんね」
ゆるゆるとルリが首を横に振るとふわりと肩に掛かる髪が揺れる。街頭の明かりで由良の髪が淡く光るみたいで凄くキラキラして見える。クォーターのルリはどこもかしこも繊細で綺麗で、昔から儚げな印象だった。でも、いつでも傍にいて由良の近くにいて、困った時には手を差し伸べてくれる心強い味方でもあった。
「それじゃあ、また明日」
そう言ってルリはいつものように軽く唇に触れると背を向けた。こうしてルリの背中を見送るのは由良の癖みたいなものでもあった。近くにルリがいないだけでも不安に感じるのは、それだけ一緒にいる時間が長いこともある。
でも、最近はこのままでいいのか、そればかりを考えている気がする。一生、ずっと一緒にいられるとは由良も思っていない。将来の夢について話したのは小学生の頃だったと思う。けれども、あれ以来、お互いに将来について話したことは無い。将来、一緒にいられないことは分かっていても、今はまだ何も知りたく無い。
ルリが角を曲がるところで振り返って小さく手を振る。その手にに由良も笑顔で降り返せば、ルリは笑顔で角の向こうへと消えていった。小さく溜息をついて由良も家に向かって歩き出す。
ずっと、このままでいたい、そう思うことは我侭なんだろうか、ルリに迷惑なんだろうか、そう考えて小さく溜息をついた。
家に帰れば玄関で出迎えてくれた父親に抱きしめられて、由良も抱きしめ返す。母親は大げさだと笑うけど、でも、こうして父親が帰って来てくれるのは本当に嬉しい。
「ほら、早くお風呂に入ってきなさい。食事にしましょう」
「はーい」
いつものように返事をして風呂に入ると、久しぶりに三人で夕食を取る。父親の航海話しを聞き、母親の料理教室の出来事を聞き、そして今日あったことを由良が話す。三人の食事はにぎやかなもので、由良は沢山食べて、沢山笑った。地区大会には見に来てくれるという両親の言葉に、由良は喜んで食事の時間を終えた。
部屋に戻り宿題を片付けてしまうとあとは寝るだけだった。それなのに、落ち着かない気分なのは二百の枠を取ってしまったことを由良の中で上手く処理出来ずにいるからだということは由良自身分かっていた。
「大丈夫、私にはルリがいるし」
呟いてみたけど、何だかいつものように落ち着けないのは帰る時に変なことを考えてしまったせいだ。将来なんて誰にも分からない。ただ、傍にルリがいてくれたらいいと思った。いつでも手を握れるその距離にルリがいてくれたら、由良は何でも頑張れそうな気がする。ルリがいれば……。
暗くなった自分の部屋で瞼を閉じると、すぐに眠りは落ちてきた。