君の名は Long ver.

帰る道のり足が重くなるのは気持ちが憂鬱なせいかもしれない。とにかく今日は散々な一日だった。テストの点は悪かったし、買ったばかりのボールペンは無くすし、そして極めつけは雨が降ってるのに傘が無いことかもしれない。普段であれば折り畳み傘を持っているのに、今日に限って荷物が多かったから家に置いてきてしまったのがいけなかった。
普段、ここまでの雨が降ってしまえばコンビニで傘を買ったりもするけれども、残念ながら今はお財布の中にビニール傘を買うだけの資金が無いというのが泣けてくる。駅前の画材屋で無くなった緑を補充するつもりだったのに、つい和色なんて新色を見つけたのがまずかった。ついつい財布の紐が緩くなり、あれもこれもと選んで会計をする段階になって金額に青ざめた。でも、今更いいですとも言えずに買ってしまった絵の具は、鞄の中に収まっている。
ビルの軒下に駆け込み小さく溜息をついて空を見上げる。どんよりとした雲から落ちてくる雨はポツポツがザーザーになり、とても止みそうにない。身体はすっかり冷えてしまって早く家に帰って風呂に浸かりたい。けれども、ここから家までまだ十五分以上あることを考えると更に憂鬱になった。
「傘、必要?」
不意に背後から声を掛けられて振り返れば、スーツ姿の男の人が苦笑しつつも立っていて、その手には傘が一本ある。ビル正面に立っているのだからこの人はビルから出て来た人だというのは分かる。分かるけれども、どこも濡れていないその姿を見ると理不尽さを感じるのは、自分の機嫌が悪いからに他ならない。
「必要ありません」
確かに傘があれば嬉しいとは思う。けれども、ここへ来たということはこの人も外出するつもりだろうし、そんな相手から傘なんて借りられない。何よりも、見知らぬ人から傘を借りるということは私にとって酷くハードルの高いものでもあった。
「でも必要でしょ?」
「傘よりも温かい紅茶が飲みたいくらいです」
ハンカチで軽く拭ったにも関わらず、髪の間から首筋に水滴が流れてゾクリとする。寒気は増すばかりだし、これ以上ここにいても雨が止みそうにない以上、家まで帰る以外の選択肢は無い。
「まぁ、それだけ濡れてたら冷えてるよな」
そう言って差し出されたのは小さいペットボトルの紅茶だった。それは温かいものだと分かるけれども、タイミングよく出された紅茶に訝しく男の人を見上げる。
「今買ったばかりだから温かいよ」
「……お金払います」
財布の中身は三百円と少し。これくらいであればお金は払える。確かに温かい飲み物は欲しいと思うくらいには寒気を感じている。
「別にいいよ、これくらい。下心込みだから」
あっさりと言われて聞き流しそうになったけれども、財布を取り出そうとした鞄に手を入れた状態で思わず顔を上げる。視線の会ったその人がただ楽しそうに笑うばかりでからかわれているのかもしれない、とすら思える。
「だったら余計貰えません」
「じゃあ、下心込みっていうのは冗談だから、って言ったら貰ってくれる」
「貰えません」
今更冗談と言われたところで、からかわれているのであればやっぱり素直に受け取る気持ちにもなれない。はっきりと突っぱねたにも関わらず、その人はここから立ち去る気配を見せない。それどころか少し苦笑すると、頭をガシガシと掻いている。
「困ったなぁ」
その顔が全然困ってるように見えなくて、これ以上の会話はごめんとばかりに背を向けた。冗談とかからかいから自分が程遠い人間ということは自覚している。そういうのは余り好きじゃない。
次の瞬間、頬に痛いくらいの熱が触れて勢いよく振り返る。やっぱりそこにいるのは先程の男の人で、うろたえている間に手にペットボトルを強引に持たされた。手の中にあるペットボトルは熱いを通り越して痛い。
「なっ!」
文句を言おうとする間にも視界が塞がれてしまい、何が起きたのかさっぱり分からない。
「ちょっと!」
口にしながらも視界を遮るものを手で掴んで避けた時には、もうそこには誰もいなかった。頭からかぶせられたのは白い社名入りのタオル。そしてご丁寧に足下には男物の、先程まであの人が持っていた傘。そして手の中には温かい紅茶のペットボトル。
さすがに唖然としながらビルの扉を見ているけど、そこには自分の姿が映るだけで中の様子は見えない。幾ら何でもここまでされたら腹立たしさだって低下していく。
……せめて、お礼くらい言わせてくれたっていいのに。しかも、最初こそあんなに胡散臭いと思っていたのに、格好いいと思ってしまった自分をどうすればいい。
胸の中でそんなことを一人ごちながらも手の中にある熱を伝えてくるペットボトルの蓋を開けた。一口飲めばそれだけで喉元からお腹まで温かいものが落ちていくのが分かる。それくらい身体が冷えているってことかもしれない。頭にかぶせられたタオルで髪の毛や濡れた制服を拭えば、少しだけ寒気が去った気がするのは、見知らぬ男の人の優しさ故だったのかもしれない。
濡れ鼠でビルに入る度胸なんて無く、こちらからは中の全く見えない扉に向かって頭を下げると足下にあった折り畳み傘を広げると家に向かって歩き出す。手の中にある紅茶は家に到着するまで温かく、傘を畳んだ拍子に大沢という名前を見つけた。
社名入りタオルに傘の名前、ここまであればさすがにお礼をしなければならないに違いない。お礼は倍返しといきたいところだけど、残念ながら何度見ても財布の中身は三百円と少しか入っていない。財布の中身を見下ろしたまま、小さく溜息をつくしかなかった。
* * *
翌日、学校を終えて例のビルの前に立つとゴクリと唾を飲み込んだ。手にしているのは学校指定の鞄と一つの紙袋。紙袋の中には借りた折り畳み傘と、タオル、それからお礼の手紙とお礼の缶コーヒーが一つ入っている。準備万端にも関わらず、足を踏み入れられないのは会社という場所に日頃縁が無いからに他ならない。
ガラスに映る緊張した顔の自分に内心苦笑しつつも扉を開けると、中はロビーになっていて入って右手には受付があった。受付の女の人は穏やかな笑みを浮かべていて「どうされましたか?」と高校生の自分にも丁寧で優しい声を掛けてくれる。
「あ、あの、サカキ商事の大沢さんという方にこれを渡して欲しいのですが」
そう言って手にしていた紙袋を差し出せば、イヤな顔を一つせずに彼女は紙袋を受け取ってくれる。
「必ずお渡ししますね」
「お願いします」
お礼を言ったものの、心境はかなり複雑だった。本当はもう一度会えたらいいなと思っていた。直接お礼も言いたかったし、何よりも現金なことに格好いいとか思ったのだから、その顔を少し拝んで帰りたいと思ったのも確かだった。
拍子抜けしたままビルから出ると小さく溜息をついた。空を見上げれば昨日とは違い、青空が広がっている。
期待していたのは確かだったけど、こんな一瞬の出会いに期待した自分が馬鹿なのかもしれない。そんなことを思いながら歩き出すと、すぐに背後から呼びかける声が聞こえて振り返る。
「おーい!」
思わず振り返れば、走ってくるのはあの男の人で思わず足を止める。余程急いで走ってきたのか、目の前に立つ男の人の息は荒い。見上げていれば、すぐに視線に気づいたのかその人は笑みを浮かべた。
「わざわざありがとな」
「こちらこそありがとうございました」
深々と頭を下げてお礼を伝える。そして顔を上げた瞬間、その人と目が合ったけれども、その人は私を見下ろしたまま何か考える素振りを見せる。続く言葉を待つべきか、ここで立ち去るべきか、悩んでいる間にも彼の表情は楽しげな笑みへと変化する。
「あのさ、下心ありって言ったの覚えてる?」
確かに最初はそう言われた。しっかりとそれも覚えているから頷けば、更に彼の笑みが深くなる。
「君の名前、教えてくれる?」
これはナンパなんだろうか。でも、初めての出来事に酷くドキドキと鼓動が落ち着かない。
「遠山です」
「下の名前は?」
「美樹」
「美しい樹っていう字じゃない?」
大抵、ミキと言えば美しいに希望の希、美しいに紀州の紀、と聞かれることはあるけど、最初にその漢字が出てくることは珍しい。いや、少なくとも初めてのことかもしれない。
「大沢さんの知り合いに同じ字の方でもいるんですか?」
「あー……実は、一方的に君のこと知ってたって言ったら怒る?」
「……ストーカー?」
「いや、違う違う」
大沢は手を振って笑いながら否定すると、近くにあるカフェへと誘う。少しだけ悩んだけど、ここまで来ればと心を決めると大沢の後についてカフェへと入った。
「なに飲む?」
「カフェラテ」
慌てて財布を出そうとすれば、自分が誘ったからと笑って言われてブラックのコーヒーと一緒にカフェラテを運んでくれる。外にある椅子に向かい合わせに座ると、丸テーブルの上に置いたトレーから私の前にカフェラテを置いてくれた。
「有難うございます」
「こちらこそ」
笑顔は穏やかなもので私としてはどこか居心地の悪い気がする。相手に知られている様子だというのが殊更落ち着かなくさせるのかもしれない。
「あの、どうして私のこと」
「君さ絵を描くでしょ。君の絵、先月あったコンクールで見た。実は弟があのコンクールに出ててさ。遠山さんの長い髪、結構印象的だったから。学生さんにこういうこと言うと引かれそうだけど、遠山さんのあの絵だったらお金払ってでも欲しいと思ったんだ」
確かに腰まで伸ばした黒髪は私が唯一自慢出来るものでもあったし、結構気合入れて手入れだってしてる。だから印象に残っていたのであればそれなりに嬉しい。
でも、絵に関しては多少上手いとか言われても、お金払ってもなんて言われたことは一度だって無い。だから嬉しいとは思うけれども、あの絵の何にそこまで心惹かれたのかよく分からない。通っている絵画教室の先生にも一般受けする絵では無いとコンクール前にはっきりと言われてもいた。
こうして繋がりが分かってしまうと、少しだけ詰まらない気がしないでも無い。出会いが結構インパクトあったから、少しだけ下心という言葉にドキドキしてしまった私が少しだけ馬鹿みたいだ。
「大沢さんも絵を描かれるのですか?」
「全然。俺そっち方向には全く向いていないかな。実際、弟が出てなければコンクールだって見に行かないし、生まれてこの方、美術館にだって足を運んだことも無い」
それだけ言うと大沢はコーヒーに口をつけた。正面から見ると、やはりクラスの男子たちとは全然違う。顔立ちというよりは、骨格が違うのかもしれない。首もともしっかりしてるし、何よりも目元や鼻筋は大人のものだと分かる。何だかそんな大人の、しかも男の人とこうして向かい合わせに座っているのは奇妙に思える。
しかも、この人、結構格好いいし。少なくとも女子高生をナンパするようには見えないかな。だって、そういう意味で不自由無さそうな顔立ちだし。
「そうやって人の事凝視するのは癖かな?」
不意に上がった視線とかちあい、指摘されたこともあって慌ててカフェラテへ視線を落とす。私はぎこちないながらもカップを手にすると、まだ熱いそれを口に含む。じんわりとした温かさがお腹の中で広がるのが分かる。
少し外で話すには寒い時期だけど、店内が空いていないから仕方ない。逆を返せば、寒さを理由にいつでも立ち上がれるのは気楽でもあった。
「すみません」
「別に怒ってる訳じゃないから謝られても困るけど。あのさ、最初は絵に心惹かれたんだよね。この絵を描くのはどういう人だろうって。でも、遠山さんを見たら、もっと興味が湧いた」
てっきり絵に興味ばかりがあると思っていたのに、再び鼓動が早くなってくるのが分かる。
期待しない、期待しない。
何度も繰り返し頭の中で呟いてみるけど、顔を上げて大沢と視線が合った瞬間に呟きなんて消えた。凄く優しい目で私を見ていて、もう顔が上げられそうにない。少なくとも、異性にこんな視線を向けられたことは無い。
どうしよう、絶対に顔が赤い。もう、そんな自意識過剰さに逃げ出したい気分にもなってきた。
「あ、あの、私そろそろ」
「ねぇ、俺と付き合わない? 高校生相手だから確かに年上すぎて面白み無いかもしれないけど、足もあるから君のインスピレーション刺激するような場所には連れて行けるよ?」
ちょっとときめいた所に、正直言って心惹かれる誘いを掛けてくるのは手慣れてるというべきなのか、余裕ありげな大沢をちらりと見上げる。目が合った途端に微笑まれてしまい、更に顔が赤くなるのが分かる。
「あの、からかうなら他をあたって下さい」
「からかってなんかないよ。正直言って、自分でも正気の沙汰じゃないなとは思ってるけど」
それは、からかわれているのと何が違うのかよく分からない。正気の沙汰じゃないってことは、私に声を掛けること事態おかしいとは思っているということだ。
「いい大人が高校生をナンパってちょっとありえないでしょ? 正直、何でこんなに必死になってるんだか自分でも不思議でさ」
「そう思うならやめて下さい」
「でも、ずっと遠山さんのこと考えていたんだよね。正直、学校に問い合わせしようかと思うくらいには」
さすがにギョッとした顔で見返せば、してない、してない、と言いながら大沢は笑顔で手を振る。けれども、どうしてここまで自分に興味を持たれたのかよく分からない。確かに髪には気合入れてるけど、友達のように化粧をする訳でもないし、悲しいことに顔は非常に平凡だから一目惚れはありえない。
それなら自分はよっぽどホイホイとついていきそうな軽い女の子に見られていたんだろうか。
「すみません、私」
「待って」
立ち上がると同時に伸びてきた腕に掴まれて、座る大沢へと視線を落とす。その目が真っすぐと私を捕えていて、腕を振りほどくことに躊躇する。
「あれは、何を描いた絵だったの?」
「答えたら手を離して貰えますか?」
「……無理」
「だったら答えません」
「それなら離しません。取り合えず座って貰えると嬉しいけど」
真面目だった表情が一転、にこやかな笑顔になりもうこの変化についていけない。困惑のままに大沢を見下ろしていたけど、にこやかな笑顔のまま立ち上がった大沢は強引に椅子へと私を座らせる。
「強引ですね」
「大人は攻め際と引き際はある程度心得てるものだから」
「引き際だと思うんですけど」
「聞きたいことが色々あるんだ。だからまだ引いてあげない」
「ちょっと……いえ、かなりイヤな大人ですね」
「おや、大人はイヤなものでしょ。少なくとも俺が遠山さんくらいの年頃にはそう思ってた。それで、あれは何を描いた絵だったの?」
どうやら本当に引く気は無いらしくて、私は諦めの溜息を零すしか無い。
「心の底」
「あんなに暗いの?」
「暗いですよ。誰だってそうだと思います」
「じゃあ、あの一番奥底にあった蓮の花の意味は?」
それは……希望だ。でも、そんなこと口に出して言える筈も無い。そんなことを考えてるなんて誰かに知られたくも無い。当たり前だ、希望なんてくすぐったい言葉、今更口に出来る筈も無い。言葉にしなくていいから、絵を描いてるのだから改めて言葉にしたいとは思わない。
「おや、だんまり?」
「黙秘します」
あばかれたくない秘密がある。そんなことを自分が考えているなんて知られたく無い。少なくとも、こんな出会ったばかりの人に教える気にはなれない。
口元を引き締めて黙っていれば、目の前に座る大沢は大きく溜息をついた。むしろ溜息をつきたいのは私の方だと思う。
「つきあわなくてもいいから、友達になってくれない。いや、違うかな。これからも遠山さんの描いた絵を見せてくれないかな」
「イヤな大人なのでイヤです」
「そう冷たいこと言わないでさ。絵を見るだけ、遠山さんに手を出したりしないから」
一体、この人の何をそんなに掻き立てたのか全く分からない。コンクールに出すくらいの自信はあるけど、まだ人の心を動かせるような物を描いた記憶は無い。
「一体、何が目的なんですか? ただ絵が見たいだけですか?」
「絵は見たいけど……最終目標は遠山さん自身」
「今、もの凄いことを言われた気がするんですけど」
「言ったつもりだけど。一応、これでも告白してるつもりだけど」
「……帰ります」
再び鞄を持って立ち上がった私の腕を大沢が掴む。呆れた私の視線に対して、大沢の顔はまさに困った様子にも見えた。もう、出会った時の印象はまるでない。これでは、クラスの男子よりもずっと駄々っ子、まさに小学生並みにすら見える。
「うわ、だから待ってってば。手は出さない、約束するから絵を見せて」
「何でそんなに絵に執着するんですか」
「だって、絵からその人の内面が読み取れるでしょ? 遠山さんの絵を見ていたら、恐らく全てではないけれども内面が分かってくる筈だから」
「イヤな見方ですね」
「そういう楽しみ方もあるって言ってよ。だったら、契約しない?」
「契約?」
また随分と不穏な言葉だと思えて、私は思わず眉根を寄せたけれども大沢の笑顔は曇ることは無い。
「スケッチとか結構するよね。うちの弟もそうだから、よくあっちこっち連れ出される。これからは遠山さんがスケッチしたい場所、車で可能な場所であれば連れて行ってあげる。その変わり、出来上がったスケッチを見せること。どう?」
「恐らく私が男だったら喜んで引き受けたかもしれませんね。残念ながら然程知らない人間の車にホイホイ乗るほど馬鹿ではないつもりですけど」
「あ……あー、そうだよな」
どこか照れたように笑うとガシガシと頭を掻いた後、大沢さんは勢いよく頭を下げた。
「申し訳なかった。興味持ってたから強引にいきすぎた。不快に思わせて悪かった」
それだけ言うと、顔を上げて笑顔を向けてくると席を立った。
「あの?」
「お誘い失敗したので素直に引くことにするよ。こうしてナンパしたの初めてだから、何て言うか格好悪い。気分悪くさせてごめんな」
恐らく恥ずかしさもあったのか、顔を赤らめた大沢はそれだけ言うと踵を返して立ち去ろうとする。慌てて手を伸ばし、辛うじて大沢のツーツの裾を掴むことが出来たことに小さく溜息を零す。
「えっと?」
振り返った大沢の顔は困惑気味なもので、その顔に真っすぐと視線を向ける。
「契約とか下心とかおかしなこと言い出すし、強引だからおかしく思われるんです。自業自得ですよ」
「うん、ごめん」
「でも、近くにある流公園なら付き合ってもいいですよ。あそこならよくスケッチにも行くし、描いてる最中に黙っててくれるなら」
「本当に? え、でも」
酷く焦っている様子を見せる大沢に対して、私はつい笑ってしまう。
「嫌いじゃないですよ、無茶苦茶な人だとは思いましたけど。それに恩返しくらいしないとバチが当たりそうですし」
「ありがとう」
そう言って笑う顔は穏やかなもので、先程までの焦り顔はすでに無い。その差がおかしくてつい声を上げて笑ってしまえば、同じように大沢も笑い出す。
人生初ナンパ。お互いにに何も知らないし分からないけど、こういう出会いも悪く無いと思う。
まだ仕事中だという大沢と携帯のメールアドレスだけ交換してカフェを出たところで別れる。多分、本当にどうやってナンパしていいのか分からずに、あんな切り口で声を掛けてきたのかもしれない。いい大人なのに、そう思うとおかしくて仕方ない。
実際にどんな下心があるのかは分からない。けれども、雨に濡れた私に傘とタオル、そして紅茶を差し入れた優しさは本物だと思うから一度くらい付き合うのは悪く無い。帰り道、鞄を片手に大きく伸び上がると、空には青が広がっていた。
夜になり部屋で課題だった絵を仕上げていると携帯が鳴り出し、早速大沢からメールがきていた。メール画面を開けばそこに書かれていたのは一言。
「やっぱり好きだから付き合って下さい」
そんなストレートな文字が並び、本当にこの人は不器用なんだと笑ってしまう。少しだけ考えてから、私は携帯のボタンを押して返事を送ると筆を手に取る。けれども、返信は私がキャンパスに筆を置くよりも先にあった。
「今度公園で一緒にいて楽しかったら考えます」
「三回チャンスを下さい。一度だと失敗しそうだから」
書かれたメールにもうおかしくて笑いが止まらなくなってしまう。もしかしたら誘う手立てなのかもしれないけど、余程今日の失敗が応えたのかもしれない。本当に不器用な人だな、とそう思う。いや、高校生相手にここまで真面目に考えてくれる大人はどれだけいるだろう。そう思うと心の中が少しだけ温かくなってくる。
「変なことしないなら」
「絶対にしません」
「それなら三回デートしましょう」
五分と待たないメールの遣り取りに、私はもう何だか楽しくて仕方ない。少しドキドキもするけど、とにかく楽しいし、ワクワクしてくる。多分、会えば会う程、この不器用な人を好きになりそうな気がする。そんな気持ちを胸に再び戻ってきたメールを確認する。
「ありがとう。金曜日にもう一度連絡入れるから時間とか決めよう」
「分かりました。お待ちしています」
メールを送って、そこでようやく携帯を閉じると自然と笑いが零れた。クラスの男子に比べたらずっと大人の男の人、それなのに可愛いと思ってしまったのは間違えているのか、私にもよく分からない。でも、昨日よりも今日、恐らく今日よりも明日の方が大沢さんが気になるに違いない。
今度、絵を描かせて貰おうかな。そんなことを思いながら筆を手に取った。

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